2021年1月10日日曜日

ネット社会と原子力ーー量子論をめぐって(3)


<原子的な物体(電子、陽子、中性子、光子など)の量子的な性質は、それらすべてに共通する性質であって、それらはみな“粒子波”(particle wave)といったもの、あるいは諸君がどう名付けてもかまわないようなものである。したがって、電子(例としてこれを用いる)の性質について学んだら、そのことは光の粒子である光子を含むすべての種類の粒子にも適用されるのである。>(『量子力学 ファインマン物理学 Ⅴ』ファインマン他著 岩波書店)
⇕ 
<学者 仰ろうとしているのは、会話の中で議論の対象、つまり認識の本質のことですが、それがたえずあちこちに分散してしまったというわけですね?
科学者 いえ、そのようなことはほとんど起こりませんでした。私たちはともかく認識に関してその決定的な基本性格をすぐにはっきり捉えたのですから、私が申し上げているのは、私たち自身の認識行為を刺激し、支配しているもののことです。
賢者 で、それは何なのですか?
科学者 働きであり、実践であるというその性格です。
学者 そのこともあって、私たちの問いはすぐさまカントが<能動的>なものであるとしている認識の構成要素、つまり思索に向けられたわけです。ただ彼の場合とは違って、認識のプロセスにおいて直観には準備的な役割しか認めませんが――。
科学者 現代の自然研究においては、直観と思索の間のこうした区別は非常にはっきりとした形でなされています。直観的な要素はそこではほとんど問題にされません。
賢者 おそらくいまの発言によってあなたはご自分で考えておられる以上のことを語っていることになりますよ。>(ハイデガー「アンキバシエー」『原子力時代における哲学』國分功一郎著 晶文社よりの孫引き引用)
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<この本の目的は、この新しい量子力学を統一的に、しかも適切さを失わない範囲で可能なかぎり数学的に異論の余地なく記述することである。その際、この理論と関連して生じてきた一般的でしかも原理的な諸問題に重点がおかれるであろう。とりわけ解釈の問題が詳細に論じられるであろう。それは、これまで屢々論じられながら、いまなお徹底的に明らかにされていない、困難な問題である。とくに量子力学の統計および古典統計力学への関係がここで重要である。>(J.Vノイマン『量子力学の数学的基礎』みすず書房)=<…しかし、Hilbert空間が通常の三次元ないし四次元と本質的に違うのは、それが量子力学系に対する観測と直接結びついている点である。実際Neumannは本書において、量子力学の数学的基礎を明らかにしたばかりではなく、観測の問題の精密な分析も行い,更に進んで量子統計力学の再構成までも試みた。>(湯川秀樹による「序」から)

※ ネット社会とは、電子の網が張られた社会のことである。電子は、原子力である。20世紀の戦争や事故災害によって、原子力による戦争抑止や平和的利用という人間の偽善が明るみに出されることによって、原子力を使うことの危険性が問題視されているわけだが、そこに、ネット社会の是非は射程にははいっていない。なぜならば、そこで使われる原子が、原爆や原発で利用される、ウランのような大きな(重い)原子力(強い電磁波を放射する)ではなく、小さな原子力が用いられているからであろう。だからその認識の延長で、いやちょっとした電磁波(放射能)でも体に悪いのだ、という「閾値」問題にゆきつかせる反原発の思想が発生してくる。が、原子力において、それを精密に扱う量子力学において、問題となってくるのは、「観測問題」である。量子の発見に一役かったアインシュタインは、「人が月を見ていないときには月が存在してない、とでもいうのかね?」と、その量子力学が示す当時の数学的理論結論に疑義を表明したが、二つの世界大戦後での実証実験によって、それが確かめられてしまった。しかしそんな実証を受けてのその後の考察では、やはり人が認識するということの問題、いわば「観測問題」の不可思議さを改めて浮き彫りにしてきているのが理論的現状なようだ。が、量子の発見当初に、コペンハーゲン解釈派が主流になっていったのとおなじく、とにかく計算的思考によって使えるのだから原理論的問いは棚上げにして進んでいこうと、原発からは手を引きかげんになっても、小さな原子力、量子の振る舞いの神秘さそのものの生け捕り利用を試みるコンピュータの開発などが急がれている。など、というのは、現科学では推論にしかならなくとも、コロナ禍で普及が急がれるRNAワクチンなども、その関わる物質の量子的なふるまいの影響がみえないところで発現されてくるのではないか、と予測もされてくるからである。

<ハイデガーにとって「原子力時代」は今日における「技術」一般のあり方を指している。言い換えるならそれは、原子爆弾や原子力発電だけではなく、コンピューターや家電製品を含んだ、さまざまな技術の動向によって規定された時代なのである。したがって、原子力テクノロジーだけを取り出して吟味してみても、原子力時代の本質は見えてこない。>(『原子力の哲学』戸谷洋志著 集英社新書)

しかし私は、「化学反応」の水準と、「原子核反応」の水準を扱う技術には、質的な違いがあると思っている。量子的な現象は、より一般的に形式化して言い得てくる、カント哲学もプラトンに回収されてしまうというような、人一般の認識=観測問題を露骨に突き付けてくるからである。いわば、人にあって、分子レベルでは見えるけれども、量子レベルではもう、数学的にしか追えない世界に突き当たる。観測(装置=媒介)自体が真実を隠してしまうと同時に、直感(接)的なイメージを超えてしまう確率的な現実が結果する。しかし、その蓋然的に推定していく数学自体の存立理由自体が、問われてもくるのだ。量子力学の数学的基礎を築こうとしたノイマンは、統計力学との関係に助けを求めたのだ、といえないのか。それは、比喩的にいえば、RNAワクチンという数式データによって設計された最新物質の効用が、それが人体内部で効いているのかの観測ができないので、統計的に確認されようとしているのに似ている。それが効いた、実用の過程は、ブラックボックスであって、みえないが、実現している――ここにあるのは、不可解な過程を棚上げして短絡させる神秘主義であって、量子論からスピリチュアリズム思想がでてくるのは、カント(プラトン)哲学がスピリチュアリズムそのものであるというのと、同型的な成り行き、論理上のアポリアなのではなかろうか。にもかかわらず、机上の論理をまだ使える、この場では使えるということで、使い続ける。ハイデガーがいうように、原子力を管理しつづけなくてはならないということは、管理できていない、ということである。原発事故からみえてくることは、原子力を、人は管理しえない、ということである。そして、ファインマンの定義にあるとおり、原子とは、量子のことである。

國分功一郎氏の『原子力時代における哲学』は、この「原子力」を、スマホ、という言葉におきかえるとなおさら通用してしまうような考察である。ハイデガーのプラトン以降の哲学批判、ピタゴラスの数というアトム≒イデアという潜在世界挿入の系譜学をふまえて、原子力使用の思想の背後には、フロイトが洞察したようなナルシシズムがある、ということなのだ。

※ 私は、これまでの読書から、思えてきたことをメモすることしかできない。量子分野に関しては、概説的な一般書から、ようやく専門的な書籍に目を通しはじめた段階だ。ワクチンなどの問題は、花粉症関心からはいろうとおもうが、手についていない。

最後に、量子コンピューターの開発者が、どのような思考背景で従事しているのかを示唆するニュースがはいってきたので、リンクをはる。前々回のブログでも引用した手嶋vs佐藤対談によると、すでに中国は、量子暗号を衛星通信で使用しているそうである。
中国量子コンピューター「九章」、世界トップの計算力を実現

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