2021年8月17日火曜日

オリンピック、サッカー日本代表戦から


オリンピックでの、サッカー日本代表戦を振り返って、総括されていわれることに、監督の采配批判というものがある。試合後、大会後に、監督が批判されるのは、常套的な儀式みたいなものになろうから、それ自体は、なんでもない。

が、その批判が、同じ選手をずっと使っていたのでフィールド選手が疲れてしまっていたから、というのであったら、どうだろう? アホみたいな話であろう。が、そういう元プロ選手やサッカー評論家や外人記者からの指摘が、おそらく一番正しいのである。そしてこのことは、サッカーではなく、二次大戦中の日本軍のあり様を知っていれば、行き着く先がそこであり、そこを突き破れるのかどうか、という話になり、日本サッカー協会が気づいていない、あるいは気づいていてもそれ以上は変革のやる気がないのならば、世界で戦うなんていう大看板は、早くおろしたほうがいいだろう、ということになる。野球は日本とアメリカという島国でメインにおこなわれているローカルなものなので、問題が露呈しにくいが、世界中の人々との間での競技にさらされるサッカーでは、その国の文化や思考形態が、如実になってくるのであろう。

 

私の目にとまったものは、まず、イギリス人記者の話。

森保監督は失敗した

それから、サッカー評論家の杉山茂樹の解説。

・「U―24日本代表がメダルを逃した3つの理由。そのほとんどは指揮官の采配に由来した

 

この英国人記者の指摘は、そのまま少年サッカーチームでのあり様とも重なる。そのことを、私は、息子のチームのパパコーチになりながら、同時進行的に、このブログでも再三とりあげ考察してきた。一応、子どもへ教えるためのD級ライセンスなどの講義で、プレイヤーズ・ファーストだの、勝敗を超えた選手育成を理念として提出していながら、それでは世界では勝てないと、それは草の根のスポーツとして別個な活動枠にして、実際の大会に直接する、ホーム&アウェーのユニホームも用意できるクラブチームのエリート選手育成の徹底へと舵を切ったのだ。その結果どうなるか? 選手のテクニックはうまくなっていくだろう。が監督は? サッカーをはじめてやりにくる子どもたちの能力は多彩である。ひとりひとりが違う。その子たち全員を使って試合に勝て、というのが命題だったならば、監督はピッチ上のチーム力をキープしていくためにも、様々な組み合わせを試験し鍛え上げていかなくてはならない。が、はじめから、運動能力の高いような子、監督の指示に理解力のあるような子だけを相手にしていればいいのなら、頭の使い方も単線的になる。

 

本田圭佑は、オリンピック総括として、選手育成にではなく、指導育成に問題があることが露呈した、と指摘している。

「選手たちのレベルがあがっている一方で、課題に挙げたのは「指導者の力量」

 

おそらく本田選手の指導者に期待するものは私とは違うだろうが、今の日本のサッカーが突き当たっている壁が、そこにあるという指摘は同じであろう。そして本田が言うように、たとえば、ベンチに呼んだ選手を全て使って、リーグ戦からトーナメントへと試合を続けていくことが前提されたら、監督の戦術面での思考方もが変わってこざるをえない。が、これまでの、日本人代表監督のあり様はどうであったか? いつも同じうまいとされる選手がフルで出場しておわる部活動そのものだ。それしか考えられないのか? と、私は少年サッカーでも、他のコーチのことを思っていた。「昔の野球だってそうだったでしょ? なんでサッカーではそうしちゃだめなんです」と、問い詰められたこともある。その時は、そうだったっけかな? と考え込んだが、たしかに、中学時代、地元県では一番の優勝回数を誇る名門で、いまの高野連会長や、おそらく次期会長も出していくだろう中学校の部活ではそうだった。同学年部員が30名総数100名ぐらいの部員がいても、試合はおろか、練習でバッティングに参加してボールにさわれるのは、10名ぐらいだった。しかし小学生の育成時代、空き地や草っぱらでのボール遊びからはじまった少年野球チームに集まるパパコーチたちが、まず考えていたのは、道徳的なことだったろう。だから、野球はキャッチボールができないと、スリーアウトがとれず終わらない試合になってしまうので、誰もが途中交代とはいかないけれども、それでも、最終回には、ベンチにいた選手は代打で出されたものだ。そういう、みんなでやろうぜという雰囲気というか、教えがあった。うまくても、「天狗になるな」と妖怪話がだされたであろう。しかしそんな文化作法は、たしかにまだ少年野球では残っているが、学歴の高い親御さんの子どもたちが多いように見受けられるサッカー界では、なくなってきているというより、伝統にはならなかったのかもしれない。しかしそれでも、世界で戦えた選手は部活あがりであり、クラブチームがメインになっていた以降の若い選手たちは、テクニックこそ秀でているものの、部活出の先陣を超えていないどころか、下がってきているのではないだろうか? 68年オリンピックの釜本が一番すごくて、カズ・中田ときて本田ぐらいまで、あとは、個人という感じがしない。ビッグマウスとか、そんな話ではない。本田は下手くそなのに、決定的なところでは奇跡的な上手さをみせゴールを仕留めた。今回オリンピックでの、久保の右サイドから中央バイタルエリアへのドリブル侵入が何度もあったが、ごり押しで優雅さや説得力を感じさせず、無理しているがゆえの個人技、という評価にとどまっている。日本の指導体制が、本当に、選手を強化してきた、と言えるのか? さらに、代表の監督になっている者が、そこまできた選手を鍛えられる采配をしているのか? その采配の基礎になる、集団性を志向してきた昔において個人がで、個人を志向した現在において集団性(の体たらく)がでてきていることの認識のうちに、自分たちを変えていく思考の力量を広げていこうという気があるのか?

 

ブラジルから来た闘莉王も、疑問を呈している。

「なぜもっと早く…」闘莉王が“采配”を一刀両断

 

私は、区の少年サッカー連盟の理事にもなっていた。Jリーグ創設にもかかわったという80歳にはなるかという引退した重鎮がいて、ゴットファザー的な存在であり、サングラスをかけたらまさにそのものだが、もう胡散臭がられていた。理事会を仕切るのは、パパコーチあがりなのだろうが、国家官僚や民間でも大企業の人たちだ。だから、ボスは何かというと、「あの官僚どもが」「やり方が官僚だ」「官僚はだめだ」と口から出てくる。しかしスポンサー相手や複雑になった日程を組んでいくには、そうした事務能力がなければこなせない。もう鶴の一声ではすまされない。ボスと話しができるようになるのに数年かかると噂されていたが、現場あがりの私には親近感がわくのか、向こうから話かけてきたりした。

 

日本サッカー協会はどうだ? 早稲田派閥か? 少なくとも、日本人の代表監督は、岡田―西野―森保という早稲田出身者だ。というか、協会長もそうか? 東大サッカー部出身のパパコーチの話から類推すると、そこをサポートするように、東大人脈みたいのもあるのかもしれない。静岡出身の高卒の監督や、海外選手の経験もあるJリーグ監督もいるが、代表監督への道筋は開かれているのだろうか? なにか、つまらない閉鎖性があるような気がする。そういうものどもを改革して、次にいける覚悟があるか? 軍人つきあいで、先輩―後輩派閥で、人事も、本当の戦争の戦術も決まってしまった旧日本軍と、同じあり様になっているのではないだろうか? その結果、勝てる曲面を失い、若い者たちが無駄に死んでいった。疲れ果てて…。

 

しかし私は、このブログで、これまで少年サッカーを通して言ってきた以上のことを繰り返したいわけではない。

 

・ダンス&パンセ「世界システム論で読む少年サッカー界

 

私は、むしろ、オリンピックの決勝戦、スペイン対ブラジル戦での確認のほうがしたかった。まだ見ていない。しかし、確認というのは、日本の成れの果ては上のようだが、世界の成れの果ては…、という予感。ブラジルは、ヨーロッパの合理精神に管理された戦術サッカーを通り抜け、本来の創発的な、縦横無尽な自由奔放な集団同期なアートを、若いブラジル青年たちが描いてくれたろうか? ネイマールが出てきたとき、ブラジルはブラジルのサッカーを捨てようとしていたと言われた。4-2-2-2というおおざっぱな伝統的布陣から、4-2-3-1というような緻密な組織サッカーを導入することを迫られていた。その後、路地裏での子どもたちのサッカー環境もなくなっていき、少年の頃から青田買いがはじまり、まだブラジルらしいサッカーを体得するまえに、ヨーロッパの世界へと買われていく選手たちが多くなった、と指摘されてきた。その後、どうなっていったのだろうか? オリンピックでは優勝したみたいだが、その勝ち方というより、ピッチのあり様は、どうだったのだろうか?

 

大枠が変わっていないのだろうから、変わるわけもないが、変わりうる可能性が蠢いていないか、それを確認したかったのである。

 

とりあえず、世界での憂慮とは、次のようなものだ。

 

<サッカーは、それにかかわる権力者や受益者たちにとって、いまや莫大な利益をあげるためのビジネスであり搾取システムにほかならない。そしてそれが商品として成立する絶対条件は、自チームの勝利である。現代サッカーにおける勝利至上主義は、単純に言えばこの条件によって不動のものとなった。…(略)

 しかも選手たちは、経済原理の犠牲となっただけでなく、いまやテクノロジーの奴隷でもある。ブラジル大会からゴールラインテクノロジー(GLT)がワールドカップにも導入され、七台のハイスピードカメラがゴール周辺を撮影しながらボールの軌跡を電脳の鷹の目で捕捉しつづけた。この「ホーク・アイ」などとも呼ばれるテクノロジーが、もともとミサイル追尾システムの応用によって生まれたシステムであることを意識する人は少ないかもしれない。サッカーのデジタルな公正性といわれるものが、実は軍事技術を遂行するための軍事テクノロジーによって支えられているという事実を知ったとき、私たちはサッカーの判定の公正性がデジタル装置の導入によって保たれたといって真に喜ぶ事ができるだろうか?

 さらにいまや選手たちはスタッツ(統計)と呼ばれるデータの奴隷でもある。選手とボールの動きを捕捉する監視カメラと、スパイクに埋めこまれたデジタルセンサーと、身体機能を瞬時にモニターするデジタルブラジャーによって、選手たちのパフォーマンスは即時にデータ化され、数値化されて、戦術構築のための素材として管理されていく。即興と偶然性とノイズによって、思いがけない運動性と奇跡的なゴールの瞬間的顕現としてあるべきフチボルのリアリティが、合理的に勝利をめざす精緻なデジタルデータのアルゴリズム体系へと変貌させられているのが、いまのサッカーなのである。ドイツ・サッカーがいかに強かろうと、私は、このチームの背後に、人間の可塑性にみちた身体の自然編制への動きを感じることができない。そこにあるのは、徹底的に合理的に調教され、詳細なデータから組み立てられたアルゴリズムに則ってその戦術を忠実に行使する、デジタルアバターのようなプレーヤーたちの群像である。>(今福龍太著『サッカー批評原論 ブラジルのホモ・ルーデンス』 コトニ社>

 

しかし上は、サッカー選手だけの話ではないだろう。

私たちは、人工的に設計された遺伝子ワクチンを打つ。この体内に組み入れられていく自然まがいの薬品は、マラドーナが服用した、身体の未知の細部を未知なる全体性へと解放していく麻薬とは真逆なものだ。それは、人間にわかっている範囲での効用だけをみ、他の系と結びついた全体なるものへの目配りには目隠ししながら、ただ結果としてでてくる統計数値だけで、なおもわかったこととして処理しえると高をくくったような産物である。麻薬は、わからない世界へと開く。新型ワクチンは、わかっているとされる世界へと閉じようとする。

 

次回は、ワクチン接種の問題になるだろう。

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