2019年2月10日日曜日

世界システム論で読む少年サッカー界

「「長期の一六世紀」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションは、近い将来か、あるいはすでに進行中のこととして、自由な交通空間の開拓や実験という志向性に屈折がもたらされ、管理された全体性の空間へと求心的に凝集し、その帰結として構築されたシステムは、なんらかの独話的な普遍性によって理念的に閉じることになるだろうという見通しだった。
 対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。
 二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。
 重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社)

参加している少年サッカー・チームのコーチとして派遣されている、その地区の連盟理事会から、2年で退くことになった。サッカーから身を引く前段階準備であると同時に、なんとかして所属チーム自体を改善させていくための、内輪コーチ間での政治的駆け引きの前手段という機能もはらませているが、どうにもならないだろう。結局は、目先結果主義のために修行のような練習を積んで、いま見かけ上手な運動能力高い子供たちを先発固定として出場させていくという、いわば古典的な日本部活動方針に、私が屈服した、ということになるのだろう。私が息子たちと最終学年代をやっている時には、まさに政治力でそうした考えのコーチを追い出したり黙らせたりで、東京7ブロックの40チーム中40位くらいからはじめて、10位くらいまで成績をあげ、理事会でもちょっとした騒ぎになったのだった。が、それがどうしてなのかわからないコーチ陣は、その結果勢いに乗じて、なおさらのように部活動主義でやろうとした。その際の激論で、コミニュケーションをとれば解決できると私を諭していた、相変わらずの方針に楯突いた東大サッカー部出身のコーチは、息子と去っていった。池上正論に共感しているコーチは、調停役として黙り、私はそれでやってみろ、と現場の一線から身を引いて、理事に引きこもった。そして案の定、チームは自壊した。桑田選手が去ったあとのPL学園を連想する。勇ましかったコーチたちは、世間体な顔だけは保ちながら、逃げようとしている。後からきたパパコーチに、後をまかせたくとも、自分たちでチームを仕切りたくて排除していたのだから、今更なそんな暗示に乗って来ない、どころか、よその強豪チームに移籍していく。運動能力の高くないモチベーションのはっきりしない子供たちは、低学年の頃から「見放され(あるコーチ自身の言葉)」ている。だから、すでにやめていっている。来期は、全学年で、十人に満たないのではないか?

しかし、どうしようもない。が、このどうしようもなさには、一チームの内輪もめを越えて、世界システムの変換期という歴史事態が、反映されているのではないか、と思えてきた。

もし、いまなお、日本サッカー協会の少年サッカー大会への指示方針が、私が結果を残した時期のままだったら、私一人の政治力で、チームを建て直すイメージ、方策は実現できた。が、少年サッカー大会で手始めにはじめられた「リーグ戦」初年度の当時とは、もう状況が変化、その「世界(リーグ戦)」化へ向けての方針が、実務的に徹底化されているのだ。

・リーグ戦二十試合(約半年程で)程度の確保の徹底化。つまり、リーグ戦参加チーム数の確保要請。及び、都リーグから各地区内A〜Dリーグ差別化のほぼ固定化。(初年度は、リーグ戦10試合に、トーナメント予選の全日本大会があり、その予選勝ち抜いた10チームが、決勝リーグを争い、上位4チームが都大会へ。つまり、チーム力のないチームは、年10試合程度の本大会ですんだ。)
・ホーム用、アウェー用ユニホームの保持の義務化。
・ベンチ入りコーチ2名のコーチD級ライセンス所持の義務化。

上規定が現場に降りてくるとはどういうことか? 4月の春休み早々から大会はじまり、ほぼ毎週土日に正式資格を持ったボランティア・コーチ数名が試合に帯同しなくてはならなくなる。もちろん、4級審判資格を持って試合数だけ審判する。相手チームの顔ぶれはいつも同じになり、下剋上の道筋は細くなっているので、モチベーションもあがりにくい。しかも、成績反映は去年の学年のものを受けてなので、たとえ今年粒がそろっていても、一気には上へ這い上がれない。専属コーチに運動能力高い子供が集まる地域を越えたクラブチームが、安定的に優位になっていく循環構造(子供もそこに集まる)ができあがる。
ゆえに、現場では、「コーチが重労働になり、資格更新や大会参加費の金もかかり、地元の弱小クラブはやってけねえぞ」、と不満の声があがることになる。

これは、本当に、日本サッカー協会の方針なのだろうか?

コーチD級ライセンスの取得講習会で、最後に協会作成のDVDを見せられる。講習講義では、池上正理論・方針で熱烈暴力的コーチを抑制させていくような内容なのだか、DVDの最後は、確かヨーロッパの著名監督の名言、「名コーチとは、選手の魂に、火を焚き付けられる者のことである」、と字幕がでる。これは、矛盾ではないのか?

もちろん、池上風楽しむサッカー基盤からも、子供に火を焚き付ける道筋はあるだろう。が、そのままの結合は、現状では、説得的な理論としては、短絡的になるのではないだろうか? 楽しむと火(戦う/勝利)を結びつける理論文脈が、もう一つ二つ必要になろう。が、私がここで問題にしたいのは、その統合的な理論ではなくて、その矛盾そのものだ。果たして、サッカー協会は、この矛盾に気づいているのだろうか?

考えられる状況は、いくつか論理的に出てくる。
(1)官僚主義的な部署住み分けとしてある考え方の違いの、単なる並列同居。子供への育成部門、グラスルーツとしてのサッカー普及部門、日本代表に連なるトレーニング追及部門、とかの折衷的な教科書(方針)作成。
(2)うえ(1)の、子供への育成方針と代表育成方針との、まだ決着のつかないヘゲモニー争い途上としての矛盾表出。たとえば、岡田元代表監督は、子供の育成方針に対し、ヨーロッパでは勝つこと目指さないプレイヤーズ・ファーストだなんて日本ではいってるけど違うよ、あっちはガチガチだよ、というような発言をTVでしていた。それは、あきらかに育成部門方針に関与していた、池上基盤への批判ではないだろうか? 協会内部に、ヘゲモニー争い、イデオロギー闘争はあるのか? または、方針を理論・哲学的に追求・フィードバックしていく部署・人材はいるのか? ない、いない、となると、(1)の現状でしかない、ということになる。

私は、おそらく(1)であろうと推定しているが、その現状が、歴史の推移に押し流されて、(3)になろうとしているのではないかと認識する。(2)が現状であるならば、歴史の進行を利用して、戦略的に(1)の住み分けを徹底化させて、価値方針としては代表に絞っていかせる(3)の途上としての矛盾。

(3)暴力的に要約すれば、池上理論とは、敗戦後日本へのGHQ政策の延長にある。二度と世界へと戦争しかけないようにと、サムライ魂を骨抜きにしていこうとする教育部門での占領政策である。池上氏は、学生指導でぶん殴った反省(反動)として、その後の考えを確立したのである。一方、野球部からサッカー部へと転向した岡田元代表監督に象徴されるように、サッカーには反軍隊方針、いわば戦後民主主義的な価値が挿入されているわけだが、ロシア・ワールドカップから森保ジャパンで見えてきたのは、まさに部活動主義である。岡田ー西野ー森保、と早稲田大学サッカー部の先輩ー後輩関係だ。そしてこれからのワールドカップを乗り切っていこうと提示された戦術例が、先発ー補欠のような選手起用である。6人交代枠があるキリンチャレンジカップで、経験値のある相手監督は今の時期だからかは知らないが、みな使いきるのに、未経験なはずの森保監督は、二人ぐらいしか代えない。「なんで?」と乾選手はきいたそうだ。これはおそらく、世界には稀な特異な事例なのではなかろうか? そうではない、と事例で反論する記事もみかけたが、その検証はおいて、ソフトな軍隊主義なのではないか、という私の見立てで論を進める。
そうだとすると、対立するかに見える二つの価値は、同じ価値のポジとネガだ、ということになる。
が、(3)として私が言いたいのは、そうした認識前提に立った上での、その先にある。これまでは、戦時(軍隊/部活)体制のポジとネガ、それを矛盾のまま同居させていてもすんだかもしれない。が、少年サッカーの大会規定徹底化への動きとは、もうそんな曖昧な誤魔化しのままではやっていけないのではないか、という危機の現れなのだ。小学高学年では最低二十試合しなさいという要請は、そうしないと世界に追いつけないという切迫さからきているのかもしれない。「リーグ戦」文化の導入自体は、まだヨーロッパの模倣教育、敗戦への反省段階だった。生きて虜囚の辱めを受けず、という玉砕的トーナメント思考から、捕虜の人間的扱いという国際ルールへの転換、島国日本よりも血なまぐさい大陸史の論理、負けても次があると規定しないと本当に絶滅されてしまう現実回避のための倫理的要請、命題。が、ロシア・ワールドカップに当たり、次会の参加枠拡大方針などを目の当たりに、ヨーロッパの監督から学びながら、などという余裕を失ってしまう、なんらかの現実情勢をサッカー協会は感受したのだ。その新しい歴史転換に乗り遅れまいと、なり振りかまわず、手っ取り早く遅れを解消するかもしれぬ戦術として、先輩(先発)ー後輩(補欠)という使い慣れた方策が採用されたのではないか? だからそれは、もはや根底となる価値(イデオロギー)ではなく、手段に過ぎなくなったのだ。根底の価値とはもはや、おそらく、そう迫ってきたEUとしてのヨーロッパ資本世界そのものなのだ。そしてそれとは別個に、グラスルーツとしての、幅広く楽しんでやるサッカー普及がある、とした。現状の少年サッカー大会方針が行き着かせる先は、池上的にやる地元チームは大会からは辞退してもらってグラスルーツ枠へゆき、代表に連なる本大会は金銭的にもしっかりしたクラブチームに絞っていく、そうした明確な区別である。草サッカー的な価値方針の世界とは、言ってみれば、プレイヤーズ・ファーストとしての、アメリカ(イギリス=アングロサクソン的な)・ファーストな鎖国的世界である。CO2削減のために世界的枠組を作ろうとするヨーロッパとアメリカの対立は見えやすい事例だが、もちろん、アメリカがヨーロッパ中心のFIFAを裁判に訴えてサッカー利潤を分与させようとしたかのような事件も生々しい。つまり、日本の末端の街クラブでさえ、生き残りをかけた世界情勢に振り回されているのではないか?

冒頭で引用した山下氏の「世界システム論」が、その理論的な把握となる。敷衍的に単純化すれば、サッカー界の中での曖昧な住み分け(誤魔化し)ではなく、別なルールに従う別なサッカーとして、お互いが不可視化=無交流化される、ということだ。従う世界自体が違ってしまうのである。しごかれてサッカー(スポーツ)が嫌になっていった者たちや、オリンピックやワールドカップに反対する民衆の世界も露呈している。彼らの抗議があるということは、なお交流が前提とされているということだが、もはやそれもなくなり、自ら従属していく世界の外が、見えなくなるほどにまでゆくというのである。しかもその世界は、一国に閉じられていく趣味的なものではなく、複数あるうちの一つの帝国に従う現実政治的なものなのだ。江戸時代の鎖国が、実は中華帝国内での交通に開かれて閉じられていったように。が「新しい近世帝国」とは、地政学的な住み分けにはとどまらず、「「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された」ものになってゆく。なっていったとき、なお私が少年サッカー・クラブにたずさわっていたならば、私の周りには、運動が得意でなくとも笑顔で頑張る子供らしい子供たちの姿は、もう見当たらないのかもしれない。

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