文芸誌『群像』10月号の「創刊75周年記念号」にて書かれた柄谷行人のエセー「霊と反復」が、物議を呼んでいるというような話を知って、図書館から借りて読んでみた。
私自身は、このエセー自体から、特別な感想を抱かなった。「交換」を「霊」と言い換えてみる曖昧さのほうが気になって、すぐには腑には落ちてこなかったからだ。
が、すぐ次に、蓮見重彦の「大江健三郎『水死』論」があったのでそれも読んでみて、その「曖昧さ」がはっきりしてきたので、ブログにメモしておくことにした。
蓮見が、この「創刊記念号」にて、自身の文章が柄谷のそれと並べて掲載されることを知って、敢えて、『水死』を選んで大江論をのせようと思ったのかは知らない。しかし私には、この大江論は、最近までの柄谷の思想への、そしてそれが伴うかもしれない社会的な動きへの批判として提出されたもののように思えたのである。
蓮見がこの大江論で言いたい論点は、一見マッチョにみえる大江文学を作品内部から批判・脱構築させていくような、女たちの視点の喚起である。大江とおぼしき主人公は、実父の思想態度にうかがわれるかもしれない、「昭和(明治)の精神」を継承していくかにみえる。が、その夏目漱石経由の作家の思想などは、「男たちの「幻想」」にすぎないとみる「女たちの優位」の「重要さ」を蓮見は指摘してみせているのだ。「それが『水死』の作者たる大江健三郎自身にふさわしい読み方だと断言するのはさしひかえておく」と留保されながら。
柄谷の「交換(霊)」論は、この「明治(昭和)の精神」が言い換えられてやってきたものである。柄谷は、交換Dという理念系の在り方を、柳田がとらえた山人の「遊動」的な在り方とだぶらせる。では、なぜ「遊動」がいい価値なのか? それは、「誇り高い」からであり、抽象的な物言いでは、それは「高次元」とされるのだ。そこには、「明治の精神」に殉じた漱石の「こころ」の先生を評価した柄谷の漱石論が伏在している。(参照ブログ<柄谷行人著『世界史の実験』を読む>)しかし、蓮見が読む大江の『水死』論では、そんな男たちの「精神」を茶化すような、「犬の縫いぐるみさながらに、「『メイスケさんの生れ替り』の御霊の縫いぐるみを飛び回らせる……」女たちの芝居がピックアップされる。
つまり、交換Dの国家(定住)に抵抗する誇り高き「精神」を「高次元(霊)」とみなす思想など、男たちの「幻想」にすぎない、と蓮見は言っているわけであろう。
この蓮見の批判的視点を、私は共有している。
が、それは、だから男が悪く、女性に「優位」があると措定してみているのではない。そこに、検討の余地がある、と私が見ているということだ。
たとえば、柄谷は、交換を四つの形態で抽出する。本当に、それしかないのか? もっと、いろいろな交換がないのか? そう単純化して、いいのか? 柄谷が参照しもしたエマニュエル・トッドは、その四つに構造化させる定義を、「ピタゴラス的幻想」であり、「デカルト主義の呪術的宇宙」への退行だと、自己批判的に学術方を修正した(ブログ<トッド『家族システムの起源』ノート(1))。
要は、柄谷の四象限、幾何学的構図は、男性的とも呼べるだろう、ということだ。
が、演繹法から帰納法的な学術態度に変更したトッドのやり方とは、いわば交換(家族形態)にはたしかおおざっぱに20種類ぐらいあって、その組み合わせヴァリエーションで対象を理解しようとするものになるだろう。つまり、基本の四つの家族形態で構図化できても、それは、ベクトルの図になる。基本要素の組み合わせ割合によって、濃艶や強度の変化がでてきて、四象限のどれかに在るか、ではなく、具体的にどの点にあるのか、が示唆されるのだ。交換ABCD、のどれか、ではなく、それらの要素の組み合わせバリエーションによって、縦軸A3と横軸D1の交点、として交換の強度が指示される。
『群像』でのエセー「霊と反復」では、柄谷は、「四つの交換様式A・B・C・Dのどれが主要か、それらがどのように組み合わさっているかによって違ってくる」という言い方をしているが、このような言い方でその交換様式を示してみせたのは、柄谷では、はじめてではないだろうか? もちろん、柄谷の理論からではなく、そこから常識的に推論して、私は、要するには組み合わせになってしまうのだろう、と推論してもいたわけだが。以前の交換はなくならず、とか、国家と資本が結託する、という物言いから、四象限の図を安定的にではなく、ベクトル的な動的な図としてみることもできるのだろうと。
となれば、蓮見の批判は、あくまで男性と女性の差異(区別)に依拠しているということで、批判としては弱いものになってくる。性差が、区別ではなく、組み合わせ割合であり、グラデーションの濃艶であったら、どうなるのか? という理解前提になっていることになるからだ。実際、最近のLGBTの現実の露呈が示しているのは、染色体レベルでは明確に区別される男女差の根底に、RNAレベルでなのか、多様な遺伝要素の組み合わせが様々な性的傾向を現象させているのではないか、ということではないだろうか?
ジェンダーとは、セックス(男女)という生物学的な性差を超えた、社会・文化的な獲得形質を肯定していく思想、ということだったはずだが、性の多様さは、実は生物学的な、身体的な現実であって、その自然の多様さを、実は男と女という文化的・社会的な区別が抑圧してきた、という逆転の真実を、現今の科学が露呈させてきている、のではないだろうか?
だとしたら、「贈与」という一つ言葉で要約されるその交換にも、実は、多様性がはらまれているのではないか、ということになる。まずそこには、おおまかな傾向割合としての、男女差があったりするかもしれない。――「男の贈与が建前に縛られた、いわば<硬い贈与>であったとすれば、女の贈与は――これもけっして本音を語っているわけではないが――はるかに融通のきく<軟らかい贈与>であった。」(桜井英治著『贈与の歴史学』中公新書)硬い⇔軟らかい、の様々な度合いが発生する交換実践……そういう理解前提から問われてくるのは、「誇り高い」「高次元」を想定する発想の是非であり、それが本当だというなら、その担保とは、根拠とは何か、ということである。個人的な趣味で、というのは、思考約束事上、とりあえずどけて考えてみなければならない。またそれを示せないならば、そんなのは男たちの「幻想」であり、「観念的な力(霊)」などとは男たちの「形而上学」にすぎない、とそれを「犬の縫いぐるみ」のように放り投げる女たちからの批判に答えることにならない。
しかしまた一方で、ならば、色々あるよ、グラデーションだよ、レインボーだよ、という態度は、実際には、どんな実践になり、どんな意味方向を持ってくるというのだろう?
私は、わからないので、両方を、考えているわけだ。
最後にヒントとして、私が考えさせられている私のブログに、リンクをはっておくことにしよう(<切腹といいね!>)。また、もともと以上の問題点への想起は、2週間まえぐらいの朝日新聞での女性学者の未成年への性的暴力に関するエセーからあったものだったのだが、柄谷・蓮見のエセーを読んだので、これは「交換とジェンダー(1)」として先に書き、女性学者のエセーからの思考は、(2)として、時間できたら、例題として、追記してみようかと思っている。
『地の果て至上の時』の冒頭すぐ、秋幸が高校同級生の友永と以下の会話をしていますね。
返信削除「六さん見とったら山も面白いもんじゃと思うな」
「山は水と日があったら育つんじゃさかの。水も日もここはふんだんにある自然環境じゃけど、水も日も自然じゃけど、六さんのような人間がちょっと手を入れ、杉や檜の苗を植え、水が根を吸うて日が枝を受けるといつの間にか資本になって、売り買い出来るんじゃさかの。自然というもんが資本をつくるんかいの。それとも資本というもんが自然をつくるんかいの。われわれの売り買い出来るという構造が杉や檜の姿から資本をつくり出すんかいの。六さんみたいな人間出てくると出面が何日かかった費用がいくら、収益率がどれだけという事では帳簿づけ出来んさか、昔、学校で習うた事を思い出しもて考えるけど、だんだん分らんようになってしまう。それで斎藤さんに会うたついでに、あの人、ヘーゲルの美学やっとるさかと思て訊いたけど、酒を飲むだけ飲んでそんな事知るかと色白て男前で教授の卵やし騒ぎが好きやから女の子がきゃあきゃあと喜んで、話にならん。浜村さんにも訊いてみたんじゃけど、問題の立て方が悪いと言われ、あえて言うなら霊じゃ、と言う」
「材木の意味が霊じゃと言うんかい?」秋幸は口の中に霊という言葉が渋く残っている気がして立ちあがり、浜村龍造らしい言い方だと思った。(後略)
柄谷行人の立場は多分この龍造と同じと言ってよいでしょう。するとやはり、正樹さんは秋幸か。
(長々と引用ですが、今、上の箇所をキーボードで打ったわけではなくて、もう十年近く前からテキストデータとしてあったものをコピー&ペーストしました。つまり、自分が書いていた文章でこの霊[価値]の問題を考えはしていたということではあります。しかし、かつての時点だと、柳田國男を論じる柄谷行人と私自身の考えの違いがよく見出せないままま、六さんはまさに「山人」だよな、とかパズルのピースを当てはめた感だったかとも思います。ただ、柄谷がいずれ「霊」(anima)と交換を結び付けて立論し出すのは、『世界史の構造』等から、かつてこちらが先に予想していた通りです。そして今は、自分の霊(差異)が、十年前よりはわかった気もします。)
安里ミゲルさんが死体派唯物論ミゲリスモ哲学の立場から霊魂を否定しつつ「生命」を語っていることも、もちろん、参照すべきでしょう。
「地の果て」に、そんなやりとりがあったんですね。文脈関係なく友永の論理を追うと、まず、杉や檜を植えたのは、六さんではないだろうな、と。といっても古い地帯だから、杉檜材木が天皇や将軍への税納めであった時代からなのかもしれないが、昭和戦後では、材木育ったところで輸入材におされて価格暴落、収穫できなかった杉が花粉症をばらまいたとなると、「自然の狡知」みたいで。石炭でも石油でも、いまはそうなってきている、ということですね。六さんは、そうなる以前から、そこにいた、と見るべきだとしたら、その作業の本来は、ボランティアであり、贈与関係ということになる。その以前関係が、搾取されるようになっている。とこれは、今の労働現場でも、実はよく見える話になる。暗黙に、労働者のボランティア的心性を利用してますからね。恐らくとくに日本は。
削除友永の論理的につめられていない世間話を前振りに、やはり作者中上は「霊」という言葉をだしたかったのだろう作品構成に伺える。それを、主人公の秋幸が突き放してみていることで、中心としての作者が消えて、多声的になってくる感じなのでしょうか。
ただ、浜村のいった「霊」はアニマかもしれないが、柄谷のは、漱石経由かもしれないスウェデンボルグのスピリットとか、亡霊(スペクター)、なのでは。「地の果て」では、霊も、多義的になってくるわけだけど。
上にある通り「六さんのような」ですから、もちろん「六さんではない」です。上の引用のさらに前には、六さんと山を歩く秋幸が切り株の年輪を九十五まで数えて止めた場面もあります。《秋幸は不思議な気がした。確実に九十五年以上年輪の数だけ前に人の手がその杉を植え、杉は生長しつづけてまた人の手によって伐られた》 「六さんのような」山人は昔からほとんど現金を受け取らなかったでしょうが、のみならず、山人に対して、95年後に木を伐ってからその報酬を支払うことは物理的に不可能であるという意味での「搾取」が<根本>にあるということです。仮に何かしらを山人に支払うとしたら、信用というか、むしろ信仰としての資本主義が「山」だということになるし、実際には支払わず、山の神を信仰するおつとめということにするのも資本主義である。そして、その「山」という自然=資本は価値の形態なのか流通の過程なのか、同定不能であるる。河中郁男氏は、価値形態論を押し出す柄谷行人に対して、流通過程だ、と『地の果て至上の時』を論じた章で繰り返していますが、伐られて流通する前に一つの場所で「九十五年以上」育つその形態、その過程とは何か?ということを中上が問うていることを、何も読んでいない。そして、『地の果て 至上の時』の冒頭すぐから以上の議論の明記があるのだから、河中氏に取材もしようかと言うのなら、菅原さんもまず読まなければなりません。ご返信から中上そのものを読み直してはいないとわかるので、再返信も面倒になっていました。私が読んだものは、もうすぐお渡しします。
返信削除また、柄谷行人はanimaという語を『世界史の構造』から既に導入しています。それはもちろんspiritやspecterと区別がないでしょう。そしてspiritといえばもう一つ、The phenomenology of spirit、ヘーゲルの『精神現象学』ですね。一本一本の多数の霊(価値)がただ一つの(精)神に収斂していく形態なのか過程なのか、いずれにせよ<総資本>としての山でのおつとめは精神の労働です。それを、柄谷は語りえません。