2022年5月27日金曜日

『未完の敗戦』(山崎雅弘著 集英社新書)を読む

 

「日本人は、なぜ死ぬまで働くのか。

 日本の経営者は、なぜ死ぬまで社員を働かせるのか。」(「まえがき」)

 

そう現代に生じる日本社会での疑問を、戦時中の「特攻」に代表される「大日本帝国の精神文化」(考え方)、「自己犠牲」の美学的倫理が戦後も生き延びている連続的なものだと考察し、「本物の民主主義」を実現していくために、その思考態度を理論的につぶしていく作業一環、とこの新書は言えるだろう。

 

ウクライナで戦争がはじまり、三度の世界大戦か、とも騒がれはじめたので、その戦争のことをよく知らないなと、山崎雅弘氏の『第二次大戦秘史』(朝日新書)を読み、勉強になったので、他のいくつかの作品も読んでいたものの延長として、この新刊を手に取ることになった。

 

大枠では、私も山崎氏の主張に賛成である。そもそも野球馬鹿だった私が思考を開始したのも、まさに「死ぬまで」させられるような日本部活動はおかしんじゃないか、という具体的問いからだったと言っていいから、問題意識が重なっている。が、大学は出たけれども社会からドロップアウトしたような私が生きてきた右翼的な現場労働、息子といっしょに関わった少年サッカー・クラブ活動、そして靖国神社の植木手入れの手伝いにも狩りだされたこともある下っ端労働者としては、やはりこの山崎氏の考察は、いかにも学者的な、教条主義的な枠におさまってしまうようで、本当に、現場で生きる日本人に説得的な緻密さをもつことができるだろうか、というと、私としては疑問におもえてくるのである。

 

たとえば、西側民主主義の国家群が応援しているウクライナの戦場、とくにはそのマリウポリ製鉄所での民間人と兵士が入り混じった攻防戦まで行きついた様は、「本物の民主主義」に近い事態なのだろうか? 国連の調停にプーチンロシアがとりあえずのって、民間人は脱出でき、兵士も投降できた。が、ほぼ硫黄島の戦いみたく「玉砕(全滅)」を甘受していく成り行きだった。硫黄島の司令官は最後は突撃特攻したが、製鉄所の地下にこもったアゾフ連隊の司令官たちは助けを求めつづけた。この差異をみるのは大切だが、そのまえに、類似するまでに至ったそこに、今の日本人が何を感受していたかを内省してみることが重要だ。

 

たとえば、そのアゾフ連隊、プーチンからは「ネオナチ」と呼ばれるもと私設軍隊は、サッカーのフーリガンだったと言われる。何年かまえのチャンピオンズ・リーグの決勝会場が、キエフのスタジアムだったりしている。ヨーロッパのサッカー場は、コロナ禍といえども、人だかりと熱狂がものすごい。マスクなどもしていない。死をおそれていないのか? これが、本場の民主主義ということなのか? いったい、民主主義ヨーロッパは、どうなっているのか? 全然わからない! それが、日本人の疑問なのではないだろうか?

 

「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマは、ワールドカップをめぐるサッカーが、戦争の代わりになったのだ、と指摘していた。両者は、死を賭けた真剣勝負に人間の「気概」というアイデンティティーがみたされていくものだから同期的になるという。そしていま、本物の戦争そのものの参加にあって、民主主義の人々が熱狂している、かにみえる。

 

ひと月前ほどの、外国機関の統計調査によれば(「憂国呆談」で田中康夫も引用していたが)、ウクライナに親近感を抱く人の割合、日本人は80%をこえ、他のヨーロッパ諸国は6割ぐらい、アメリカにいたっては、この戦争で悪いのはどこかと問われて、アメリカ、と答えたアメリカ人が2割をこえていた、というのも新聞記事にあったから、本当に冷静なのは欧米民衆、ということも予測できるが、その推論はどけておこう。

 

熱しやすく冷めやすい、昨日の敵は今日の友、となりやすいのが日本人の集団特性とも思われるので、私は今は、前回ブログでリンクをはった大地塾での佐藤優の分析を首肯している。つまり、日本人の大半は、もう戦争の熱狂についていけていない、とくに、官僚や経済界が疲弊している。岸田総理はもっと支援参加したいようだが、そうはなっていない。ウクライナ側が提出した支援感謝を示す国名リストに日本ははいってなかったが、それはいいことだ。結果的に、ロシアは日本を西側敵対国だと評価しえなくなっているだろう。が。疲弊して成り行きでそうなるのと、戦略的にそうするのとでは、全然ちがいますからね、と。私もこの意見を首肯する。西側民主主義国家群は、気違いじみてきている。距離をとったほうがよい。が、佐藤の指摘にあるように、成り行き自然でそうなってしまうというのは、いわば『未完のファシズム』(片山杜秀著、新潮選書)の続き、ということだ。

 

とにかくも、マリウポリ製鉄所での長引く戦闘の模様をみるにつけ、日本人の大半は、より好戦性をあおられたのではなく、もううんざりして、ついていけなくなった、と私はみる。特攻だの玉砕だのと、もう本心から共感できる状態ではない。だとしたら、これは、敗戦後遺症として、戦後に、そうなったのか? 山崎氏の『1937年の日本人』(朝日新書)などを読むと、特攻に通じる美学倫理は、戦時中も現在も、そのまま続いている、と見立てられている、ということになるだろう。私には、よくわからない。戦時中、軍隊教育を受けてきたものたちが、会社経営、部活動などで、その経験を広めたので、戦後にこそ戦時中の教育倫理感が普及一般化したのだとは、文学者や作家の方から指摘されてきた。しかし、頭ではそうだが、もう体がついていけなくなっているのでは、というのが私の認識だ。

 

最近、高校サッカーの強豪校で、顧問の暴力が発覚し問題となった。もともと日本でのサッカーは、岡田元日本代表監督が回顧していたように、軍隊のような野球部がいやで、その脇でサッカー部が楽しそうにやっていたから始めた、というような、民主主義的な流れがあった。少年サッカーでも、ヨーロッパの、プレイヤーズ・ファーストの方針が、コーチ・ライセンス講習などを通して教育される。が、それは頭だけで、現場はトップダウンの指導だ。だから、比喩的にいえば、命令によって、選手は特攻する。日大のアメフト部事件がその典型だ。が、ヨーロッパのプレイヤーズ・ファーストでは、子供のころはチャレンジして失敗してもよくやったとほめられる、コーチの指示がおかしいとおもえば意見し、コーチも一人の人格者として子供に対処する。日本では、言われた通りにしないからそう失敗するんだろ、と叱られる。観戦者の親からも、そうしつけられる。だから、黙って従うようになる。また上手な子は、小学生の頃から強いチームへと移籍していく。ヨーロッパでは、それはペットの犬を可愛いく高く売れるからと赤ん坊の頃に親元から離すときゃんきゃん鳴く犬になって躾ができなくなるから生後すぐには販売禁止というように、小学生まではホーム・チームからは移籍できないと法的制限ができている。そうした文化・科学的な養育の結果、比喩的にいえば、自発的に特攻できる選手が育っていくのだ。ワンプレーワンプレーがチャレンジ精神に満ちて真剣勝負、肉弾をおそれない。練習の時から。その様が、大リーグや本場ヨーロッパのチームに移籍して覚える日本人選手のカルチャーショックになる。が、それは、小学生のころから、自分が大人(人間)として認められていた、批判してもOKだったという体感からきているのだ。セルジオ越後は、もし指導者が選手をぶんなぐったら、選手から殴り返されるだろうし、そういう人は指導者になれない、と上の事件について言及している(秀岳館高校サッカー部で起きた暴力行為にセルジオ越後「もしブラジルで監督が選手に手を上げたら、逆に殴り返されるだろう」(週プレNEWS) - Yahoo!ニュース)。

 

だから、そもそも、「特攻」という、死を前提とした作戦は、本場では成立しない。たとえその試合で負けても、次がある、チームや国が滅びるわけではない。投降し捕囚となっても、リーグ戦的に、戦闘はつづくのだ。次がある。あきらめない。そういう「精神文化」として、サッカーが、戦争がある、ということだろう。

 

だけど、それが、本当に、いいことなのか? 息子とのサッカー経験を通して、私はこのブログでも、ワールドカップでの勝利など第一に目指す必要はない、と言ってきた。自分たちの筋を通した戦い方(私はそれを「居あい抜き」の美学、刀を抜かない引き分けの試合を理想とする美学)で、結果的に好成績が残せればいい、と主張してきた。というか、本場のサッカーチームは、実際にはそうしているのだ。流行にまどわされず、イタリアはカテナチオだし、スペインやオランダはいくら点をとられても攻撃的な優美なサッカーを志すし、スェーデンなどは4-4-2のシステムでの防戦を崩さず隙があったときだけのカウンター攻撃に徹しているかのようだ。だから、最近なくなったオシムは、日本人の戦い方を編み出すのだ、と説いたのだ。

 

私たちの筋とは、なんであろう? 戦争に疲弊してしまうこと、ついていけないこと、そこに、あるのではないだろうか?


※柔道では、全国大会を中止したそうだ。勝利至上主義に、子供たちがついていけず、楽しむ、という基礎が壊されてきたからだ、と井上康生が説明していた。共感だ。野球甲子園も、再考したほうがいいだろう。(ロッテの佐々木投手の活躍を見よ!) さらに、慶応大のブラックジャックとか呼ばれる教授が、入試をなくしたほうがいい、と発言していたが、私も賛成だ。子供の好奇心だけで自家発電できる。自然は、神秘に満ちている。

 

が、最近、陰暴論を取り込んだような保守政党が躍進的だときく(「参政党」というそうだ)。アメリカ情報筋からの資金提供などもうないであろうから、かつての従米右翼な勢力の中から、反米右翼という、眠らされていた本心感情が目を覚まして復活してくるのか? 日中戦争の最中に、アメリカを本当の敵とした太平洋戦争でも、またおっぱじめようというのか? しかし、そうなっても、もう、自衛隊員は、ついていけないだろう。最近のYouTubeでも、閲兵式でばたばた倒れて担がれていく自衛隊の模様がアップされていた((187) 【自衛隊】式典中に次々と倒れる自衛隊員 何があったのか? / 一般客も苦痛な来賓祝辞・来賓紹介・祝電披露 / 第3師団創立61周年・千僧駐屯地創設71周年記念行事 Japanese soldiers - YouTube)。しかし、それでも、好戦に利害のある人はやるのかもしれないが、もう日本人全体がついていけず、みっともないことになるだけだとおもうけど。そしてもし、そのみっともなさ自体が反復なのだとしたら、つまり戦前も実は日本人の大半は戦争に疲弊しついていけてなかったとしたら、その弱さこそをクローズアップし、言語化し、組織化しなくてはならない、となるはずだ。(しかしこちらのほうは、そう指摘する文学作品などもないようだから、やはり、敗戦後遺症なのか?)

 

しかし、そうした事態を予測してくる以上指摘してきた問いに、山崎氏の教条主義は、答えていることになるのだろうか? 私としては、説得論理として、あまりに大枠すぎると思われる。勉強家の優等生だけが、そうだよね、と頭で受容するだけなような気がする。そもそも、本を読まない人には説得もなんもない、かもしれないが、思考としては、そうした他者に向けてこそ、緻密さが要請されてくるものだろう。

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