「コジェーブが、そのような「最後の人間」の類型例として、注記して、物質的欲求の追求に自足し、いわば動物化したアメリカ類型と、スノッブ(形式的洗練と疑似の高貴さ)的あり方に淫する日本的類型をあげたことは、よく知られている。またフクヤマ自身がこの空白を埋めるものとして、プラトンの人間の三要素、欲望、理性、気概から引いて、その著の後半を気概(テューモス)の大切さを強調するのに費やしていることも、周知の通りである。でも、著作の後段を占めるこの気概をめぐる議論を、私はそれほど有効な議論であるとは受けとっていない。(略)ここでフクヤマがいいあてようとしていた「歴史の終わり」とは何の「終わり」か。/それは、東西冷戦の終わりでも、初の共産主義国の試みの破綻でも、マルクス主義思想の体現する未来の終わりでもない。近代の終わり、ヘーゲルのいう世界史の終わりですらないかもしれない。いまになってわかるのは、それが、これらをささえていたもっと長い射程をもつ世界の考え方の、「終わりのはじまり」だったのではないかということである。」
「水野が理由としてあげているのは(『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書にて――引用者註)、一六世紀からはじまった資本制システムが、五○○年をへて、とうとう空間的にも時間的にも「外部」を搾取しつくしてしまい、もうそこから利潤を生みだすべき「フロンティア」を失おうとしているということである。議論は、本文にふれた柄谷行人の「人間的資源」の限界の説に一部重なるが、もっと徹底している。したがって、結論としていわれるのは「革命」ではない。その代わりに、資本制システムが、いわば内的な理由から終焉を迎えようとしている以上、われわれは、これが世界の混乱へと進まないよう、新しい考えに立って、新しいシステムを構築すべきだとする。」(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』 新潮社)
参院選挙が終わり、予想通りの自民圧勝となった。それに与党化した野党を加えれば、戦後民主主義の底が抜けるとかいうよりも、日本の何ものかが盤石なままだ、と想定すべきだろう。まだ未熟な新規政党らの出現がなんらかの症状を呈しているとしても、それをあげつらうことに意味がでてくるとは思われない。が、日本の何かが揺るぎない反応で凝り固まろうと、世界の底は抜けていく。ワラをつかんでいるにすぎないことを、認めるのが怖いだけだろう。安倍元総理の死は、投票率を押し上げたかもしれないが、祖先の墓仕舞いをし、自身は子供らに迷惑をかけたくないと、無名的な共同墓地ですましていく親子たちが多くでてきている。そういう事例を鑑みても、私たちの底自身もまた底抜けになりつつあるのが、誰の目にも明白になったとき、民主主義的観点からはいかがわしく思える者たちが、どう機能していくかは未知数だ。私たちが、もし存続していくのなら、わけのわからない世界に入っていくのだろうから。
しかしとりあえず今は、わけがわかりすぎる。ウクライナ戦争にせよ、自民圧勝にせよ。「歴史の終わり」のフクヤマが言っていたように、「気概」が復活してきているわけだ。人間とはそういうもんだ、みたいに。この攻撃欲動的なものに対し、というより、その否定は人間の条件上できないのだから、それを外にではなく、内に向かわせる、という二つの世界大戦の後遺症から、9条的な実行に転換しようと目論まれてもきていたわけだが、もうそんな仕掛けだけではもたないのかもしれない。ロシアの作家は、現状のロシアについて、その思想を説きもしているけれど。(ミハイル・シーシキン「プーチンは皇帝か」朝日新聞朝刊7月5日)
ソ連崩壊後に起きた湾岸戦争への国内での反戦運動について、冒頭引用の著者・加藤典洋は異議を申し立てたわけだ。「平和憲法がなかったら反対しないわけか」、と。が、3.11の経験を受けて、あるいは息子の死もあってなのか、反戦の著名活動の中心でもあった柄谷行人の世界認識を受け入れて近づいている。一方、その柄谷本人も、加藤の批判的論点、「ねじれ」という内的現実=歴史を受け入れ熟考しはじめた。キリスト者としての自覚は後から来るという内村鑑三論や、たしか中野重治についての論考が、加藤の批判への応答になるだろう。たしかに、「ねじれ」ているかもしれない。が、あとから、それが真実で真正な態度になるのだという精神分析的な現実性で説得論理を構築してみせたのである。柄谷の、押し付けられたものであるからこそ真正なものになっていくという9条理解の論法も、その延長上にあるだろう。
しかし柄谷と加藤とは、お互いが歩み寄ったとはいえ、懸隔はそのままとみるべきだろう。柄谷用語で言ってみるなら、柄谷の論理は他者の外部(出来事一回性)にこだわるがゆえに反復(更新)という時間仮説になり、加藤のはあくまで異者という観念を保持しようとしているので、その時間は線的、物語的になる。いわば、マルクス的かヘーゲル的かという差異だ。しかし、ヘーゲル的だからといって、思考の問題としては、わるいわけではない。フランシス・フクヤマは、プーチンによるウクライナ戦争への見立てを見事にはずしたが(「プーチンは完敗する――私が楽観論を唱える理由」『ウクライナの未来 プーチンの運命』講談社α新書)、そのシンプルな思考や着眼点は、そう容易に否定できるものではない。
加藤の『人類が永遠に続くのではないとしたら』も、歴史が反復(永遠回帰)ではなく、時代的な変遷、進行方向を持つという時間仮説が濃厚である。思考の素材の解釈について、柄谷教養の私とは違ってくるが、その取り上げられる材料や着眼点は、このブログで追求してきたものと重なってくるだろう。しかしそれらをいちいち追求して論としてまとめてみるという、学者というか批評家的な欲望と暇を私はもっていない。私は、小説家として考えているだろうから、前方に実践して、賭けて認識する。
もし、人類がこの今のわかりきった苦難を乗り越えるなり、やり過ごすなりして存続するならば、次の対談引用に伺われるような、もはやこれまでの人間や自然観では定義できない位相に入っていくことになるのだろう(それが、水野和夫も16世紀に起きたという「釜の底が抜ける」ということだ。ダンス&パンセ: 現状を考えるための引用 (danpance.blogspot.com))。それは、人間(精神分析)としての反復ですらないのかもしれないが、他者との固有性が更新されるものではあるのだろう。
《「鈴木 …そうすると、最終的に行き着くのは、ナノロボットの類を脳に入れて、一個一個のニューロンに付着させるというやり方でしょう。それをやらないと、深い構造まで情報が取れない。だから、研究者はそれを目指すに決まっています。…(略)
もう一つの方向性は、医療ですね。医療と、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の延長上としてのナノロボットという二つの方向性で、これから数十年間のうちに計算パラダイムが、おそらく生体システムの中に取り込まれていきます。それは、人間かもしれないし、人間ではない動物や植物なども含んでいく可能性もある。人間は、認知能力を拡張したいという欲望と同時に、生体システムだってコントロールしたいと考えたいはずです。/それを生命の進化としてどういうふうに解釈するかは、ここ数十年というタイミングで絶対に問われるところです。森田さんの好みではないかもしれませんが、必ず出てくると思います。
森田 健さんのおっしゃる、インターフェースを消し去っていく方向には不安を覚えます。たとえ、生命が計算に類似したふるまいをしている面があるにせよ、それはあくまでいま見えている範囲のことであって、現時点で見えているだけの理解に基づいて、どこまで生体の作動に介入していいのか。/医療の分野でそういう方向に進んでいくことは容易に想像できますが、そもそも僕たちは生のことも死のこともほとんど理解できていません。技術によってこれからいろいろな方法で寿命が延びていくにしても、死ぬことの意味や、よりよく死ぬことについての探究は深まっていない。このままではあまりバランスが悪いのではないでしょうか。/最近の研究によると、一般的な家庭のなかでも二○万種くらい生き物がいることがわかってきているそうです。(ロブ・ダン『家は生態系』白揚社)それこそPCR法とかを使うことで、給湯器や冷蔵庫、オーブンの中にもたくさんの細菌や古細菌が棲んでいるとわかってきた。そういう生物の多様性そのものが、人間の健康にも少なからぬ影響を与えていて、ある意味では、とっくの昔から神経系の外で行われている膨大な計算が、生命を支えてきたわけです。すでに土の中でやっている計算とか、空気の中、冷蔵庫の中の古細菌がやっている計算みたいなものに気付いて、これに耳を傾け、長大な歴史を持つ自然の営みを受け止めることの方にもっと知恵を絞っていく必要があるのではないでしょうか。」(「数学と生命の関係をめぐって」『新潮』2022年1月号)
*参照引用
対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。
二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。
重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社) ダンス&パンセ: 世界システム論で読む少年サッカー界 (danpance.blogspot.com)>
<『「大崩壊」の時代』のすぐあとに刊行された『人間の終わり』の冒頭でフクヤマは、悲観的な予言を示す。「これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほと強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない」。それにつづいてフクヤマは、人間本性とバイオテクノロジーについて興味深い議論を展開している。さらには、バイオテクノロジーの発展は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で「監視社会」として描くものよりもさらに恐ろしいとまで論じる。>(『「歴史の終わり」の後で』 フランシス・フクヤマ 中央公論社)
世界が終り、人類が壊滅的になろうと、引っ越しはする。次の準備に忙しくなる。
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