2023年5月13日土曜日

中上健次ノート(3)


 3 詐欺の群れ

 

 中上がしかし、まず遺作となってゆく作品群で模索したのは、北方へと続くユーラシアへの経路ではなく、より周辺からの南方への経路である。『地の果て―』以降、すでに起点が東京へと移っていたそこから、また西域(路地へと)、そして南方へと降下する。

 

 東京・東国が、父系の強い直系家族の価値基盤であることを踏まえれば、その生地への帰還と、その向こうへの超越は、郷愁や後退ではない。路地での認識に、武士的な暴力性もが所持アイテムとして付加されていることになる。

 

『熱風』という作品では、南米から東京へとやってきたタケオ、移民した中本の一統「オリエントの康」を親に持つ日系の青年が、その東京で詐欺集団を営んでいたもと路地の者たちと出くわし、解体され開発された親の生地である路地へと復讐のためなように乗り込んでいくことになる。詐欺集団には、産婆だったオニュウノオバの親類「九階の怪人」や、徳川家に毒見係として勤めた中本一統の一人(折戸という名字)を祖先に持つ「毒見男」、そして徳川御三家のお姫様と呼ばれる徳川和子なる者たちがいる。

 

 詐欺とは、言葉たくみに相手をごまかす術だ。路地とは、あることないことが噂され、渦まく地帯であった。中上はその路地の現実を描く以前の青春小説群では、詐欺電話をかけまくり脅迫する若者の犯罪のことを扱ったりしていた。路地育ちの過程で体得する話術に、現実を編んでゆく言葉の糸の絡みと力加減を読解する認識洞察が、路地解体と開発の現場で暗躍する自らの家族を巻き込んだ土建世界で鍛え上げられる。そこに、徳川将軍に連なる侍の武力と判断力が付加されたのだ。

 

『異族』では、その武力は「空手」となる。我流の空手を覚えて路地出身のタツヤと夏羽は、東京へと出てくるが、右翼団体の道場の師範格となっていくタツヤと違い、中本(折戸)の血を引く夏羽は、その血に飲まれるように自殺した。沖縄からフィリピンへと凱旋する前にだった。夏羽は、毒見男の腹違いの兄弟であり、「この間、死んだらしい」ことが『熱風』の毒見男の口から説かれており、二つの作品が、平行していることが示唆されている。

 

 いや平行はそれだけではない。解体されてゆく路地出身の若い衆らが、オバたちをトレーラーにのせて脱出し皇居へと旅立つ『日輪の翼』では、『聖餐』で「死のう団」を組織していた中本一統の半蔵二世が、すでに一人東京へと抜け駆けしていて、売れっ子歌手としてデビューしているエピソードが挿入されている。それらの続編になる『讃歌』では、『日輪の翼』での中心人物ツヨシは、源氏名をイーブとしてジゴロ稼業をしながら行方不明となったオバたちを捜していたが、作品最後では、ツヨシという出身名に還っている。

 

 つまりは、路地出身の若い衆たちが、東京で得た新たな武器をもって、西へ帰り、さらには南へと目指し、東京に残っている若い衆も、武士政権崩壊後の戦後社会を覆すことを企んでいるような、不穏な潜在的な動きをみせているのである。

 

 が、それらが向かっている先は、日本ではない。その日本の土壌をそうたらしめている地政学的に枢要な、文明の中心地、中国である、ことが、作品群の全体像から示唆されているのだ。とくには、詐欺犯罪を素材とした『熱風』と、暴走族右翼『異族』との重なりを思う時、一頃のオレオレ詐欺から現在のアジア広域にまで拠点を広げて世間を騒がす、日本の犯罪組織の地下潜伏と、マフィア化の現実を先取りしているようにも見える。さらに、ロシアとウクライナとの戦争で喚起されたアジア領域での地政学的緊張の浮上も考慮すれば、『異族』で沖縄や台湾、フィリピンを巻き込んで構想される「台湾・琉球連邦共和国」、南沙諸島をめぐる「南海洋連邦」など、空想的な話ではなくなってきている。沖縄の血を母方に持つ佐藤優は、日本政府がウクライナ情勢にかこつけて、石垣島や沖縄の防衛強化への具体に県民の積極的協力を自明的に推進化するのならば、沖縄人は台湾や中国との独自な外交関係をのぞむようになるだろう、と忠告している。

 

 しかしならば、かつての文明大国の再興台頭を、どう受け止め対応すればよいのか?

 

 中上の未完となった作品群は、まさにそのことこそを追求している。おそらく、ヴェトナムという「中華帝国」の「前進前線」への潜伏から登場するアキユキは、「中国の帝王」の身代わりとなる鉄男と、もう一度、戦う羽目に陥るはずである。もう一度、というのは、この父殺しに邁進する後輩と、母殺しの認識の根底的な肝要さを洞察している先輩の秋幸は、『地の果て―』においてすでにやり合っているからだ。その時は、秋幸が人質のように監禁され、銃で脅され、なぐられた。

 

 二人は、ともにレベルアップしている。しかしその過程で、日本や中国の大企業家族をたぶらかしてゆく詐欺集団の一員となった『大洪水』での鉄男は、中国の怪奇さに直面し、その差異から、秋幸と似たような洞察を共有しはじめているのだ。

 

「日本の批判はいい。僕は中国や中国人に関して言っている。いいですか? 話を展開する前に了解してもらわなくちゃいけない。というのは僕は、リー・ジー・ウォンという人間だという事。蝋人形を父親として生まれていても、ジンギスカンの血を引いていてもいい。ミスター・ヤン、あなたの弟は、中国という巨大な国のそばに位置する日本に育ったんだ。

 僕はその日本でうろうろ歩き回った。日本にいて日本人でいる限り、他からどんなに言われようと条理がある。というのも日本の中心には天皇がおられる。天皇が難しいと言うなら、富士山でもよい。その中心を核に物事は動いている。

 しかし、そこから中国を見ると、一切が変形する。リー・ジー・ウォンならなおさら、中国が不思議に見える。あの古い歴史と広大な国土と膨大な人口を持つ国は、まず中心がない。天安門があるじゃないか、中国共産党があるじゃないか、と言うが、それは中心だろうか? そう考えているだけで日本にいると混乱する。」(『大洪水』(『全集13』p428

 

 『かぐや姫』の物語の最後に登場する富士山は、常に私たちを見ている。葛飾北斎の『富嶽百景』から伺えるのは、私たちから富士山が見える、という感覚ではない。常にどこかから、富士山に見られている、見守られている、という感覚である。京都においても、天皇は、そういう自然体として存在している、飛鳥山みたいなものなのだと、鉄男は認識しだしたのだ。が、広大な中国、帝国では、そうはいかない。帝王は、むしろ、全てを見ることはできない、そこで暮らす人民も、自分が見られている、見守られているという安心感を持つことはない。ゆえにそこでは、人工的に、監視カメラ的な管理と、帝王の恣意が、命令が「条理」の代わりとして強制される。それは、自ずから受容される自然的な道理ではない。自然な中心(富士山)がないかわりに、人為的な中心、天安門や共産党が構築される。しかし鉄男は、それが「中心だろうか?」と、問うのである。「鉄(刀)」という文明の武器でと闘う「侍(男)」と設定されていても、中国を前に、路地の認識に立ち帰るのだ。そして、「混乱」する。

 

 シンガポールから香港へと拉致された鉄男は、そこで「中国の帝王」と呼ばれるミスター・パオに直面した。その姿形は、「肩や胸、腹についているのは人間のまともな肉でも脂肪でもなく、石くれや木ぎれだというように全体がでこぼこの塊であり、それに硬い毛が生えている」と描写される。人間離れした豪傑の登場である。『異族』が、江戸の戯作『八犬伝』を下敷きにしていたというなら、『大洪水』では、その「水」という文字の媒介を孕んで、豪快豪傑な物語『水滸伝』が射程に入ってきている。自然的な寄り集まりの群れとしての「八犬伝」から、あくまで人工的な寄木細工としての構築物語、『水滸伝』との対峙に作家は迫られたのだ。しかし、この人物描写のところで、作品は中断した。

 

おそらくアキユキは、この鉄男の「混乱」の隙に乗じ、豪傑と対峙するだろう。「路地」の、双系家族の、核家族の中枢を潜り抜けてきている秋幸は、自然と文明をめぐる<真理>を、ヴェトナムにおいて深めている。いや作家中上自身が、中国とは何か、文明とは何か、人間の、自然の真理とは何か、とその地をさ迷いながら考えたのだ。

 

しかし中上が、その<真理>をつかみ展開しようと試みたのは、まずはここ日本の東京、新宿においてであった。さまざまな地からやっきてきた外国人が群れる歌舞伎町。完結した作品としては遺作となった『軽蔑』の「真知子」が、女性として遣わされた「秋幸(かぐや姫)」の真意を裏書きしていくのだ。

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