2024年1月19日金曜日

山田いく子リバイバル(1)

 


VHS形式のアナログ・データを、ネット上で公開できるよう、デジタル・データに変えたいとは、いく子の希望だった。

段ボール箱40箱くらいが、リフォームした2階の廊下に、山になっていたので、まず元データを見つけるのが面倒そうだったので、ほっといたのだった。私にはさわるな、とも言われたし。おそらく、本人では、いつまでも、片付かなかったことだろう。

 

二十年まえ、ダンス&パンセのヤフージオシティーズでのホームページを作ったさい、いく子自身で抜粋した、自身のいくつかのダンスを紹介した。その一本を、カメラのキタムラに、YouTubeアップのためのデータに変換できないかともちかけてみた。工場に送ってできたとしても、仕上げにひと月はかかり、お金もかかるというので、ふと、夜中にカーテンしめてテレビで再生したものをスマホで撮ればいいのではないか、と思いついた。

 

やってみたら、記録保存データとしては、まあいける。ので、少しずつ、スマホでデジタル化したデータを、YouTubeにアップし、公開し、そして記録として伝えることにした。マイナーではあれ、ダンスのある批評家からは評価と支持を受けたことのあるダンサーである。

 

とくに、いく子の生きた若い時代、女性たちが、社会との軋轢を思いきりこのジャンルにぶつけている様が、共有されていたのではないかと感じる。踊るわけにはいかないのに、踊るしかない、と二律背反に引き裂かれていく構成が、共通に抽出されえるかもしれない。バイトや派遣労働をしながら、バブルがはじけたあとは、それすらの求人も少なくなっていく中で、彼女たちは、金銭を度外視したような活動に身を費やした。いく子の日記でも、死と隣り合わせのあがきであることがうかがえる。

 

保管されていた一番古いものは、1992年の、深谷正子先生のダンスカンパニーに所属していた頃の、公演会のものである。

 

スマホ撮影しているうちに、データー容量が大きくなるためか、スマホのフォトアプリがおかしくなっている。ので、撮影できたものは、随時バックアップのため、YouTube上にあげはじめているが、私自身がいく子の歴史をたどってみたいので、おそらく古い順にアップロードしていくことになるだろう。

 

1992920日 深谷正子ダンスウィング『Dance Performance NOMAD』>より、船橋勤労市民センター。34歳のときの作品。

 

(1)「ガーベラは・と言った」……いく子が振付を担当し、自ら出演したもの。このタイトルのものは、年をこえて、何度か使われている。が、これが一番最初のものらしいので、(1)とした。

 どこか、退廃的な感じを潜ませた作品である。が、小道具のアイデアは、斬新なのかもしれない。赤い洋服の女性ダンサー5人が、ゴム紐のようなものにつながれている。それは、マリオネットのような、操り人形なのか。彼女たちの舞いは、優雅な一方で、ピノキオのような動きもみせる。5人が、それぞれ、その起伏をずらしながら発現させていく。反対の袖まで到達すると、そのゴム紐は、まるで音階の五線譜のようになる。音は楽しいのか、哀しいのか、バックミュージックも、その両義性の間で揺れていて、ダンスと融合する。彼女たちは、その五線を、まるで琴の弦のようにも弾きはじめる。がそう舞えば舞うほど、五線はからまり、まるで蜘蛛の巣にからめとられた蝶のように、かそけき羽ばたきをみせる。彼女たちはついに、まるでもがくことをあきらめたように、ひとつところに佇みながら、片腕をもがれたように折りたたみながら、静かな上下運動だけにおさまってゆく。それはまるで、これから生贄として食べられてゆくことを許しているような。静かな覚悟と悲しい優雅さのなかで、彼女たちは闇に消えてゆく。

ガーベラは・と言った(1) (youtube.com)

※ アップしてから、ふと、タイトルの意味がわかった。「ガーベラ」とは、花の名前である。花の蜜を吸いにやってくる蜂や蝶の運命を「・」と言った、ガーベラは、彼女たちを見守っているのだ。その花言葉は「希望」「前進」「辛抱強さ」であり、赤色のものは、「神秘」「チャレンジ」「常に前進」という意味を持つそうである。おそらくいく子は、現実を超えていく、自己分裂した視点(「希望」につながる)から、自分を含めた彼女たちの行く末を優しく見守っているのだろう。が、彼女たちの現実は、「・」としてしか、論理化されえないのである。

 

(2)「AからZへ」……いく子のソロダンス。二十歳くらいからバレーをやっていると、履歴書にあった。だから、オーソドックスな訓練も受けたのだろうし、その様が伺える。足腰が強いんだな、とも。が、作品最後、反対の袖前まで走り滑り込んだ彼女の脇から、突如、ハット帽にコートで身を包んだ黒い影のような男が過ぎり、彼女の後ろに、横顔のまま立つ。はっとしたように、彼女は上空をみつめる。鋭い視線。……この黒い男の影は、彼女が葛藤していた父の影と、精神分析的にみるのは、間違いなような気がする。いやたとえそれが契機であったとしても、彼女は、自分自身の中に、暴力的な何か、自分を突き上げてくる衝迫を発見し、そのもう一人の自分と葛藤しはじめた表現ではないかと、思われる。ピカソのデッサンなどでも伺えるが、よく分裂病者が描いた自身の絵の中に、もう一人それを見ている者、顔を描き込まずにはいられないのに、似ている。その発見、気づきは、彼女にオーソドックスなダンス構成をさせないのだ。そんなのでは、我慢できなくなっていったのだろう。もしかたしたら、その移行が、「AからZへ」ということなのかもしれない。何か暴力的なものが、以後、噴出してくると予感させてくる、初期作品である。

AからZへ (youtube.com)

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