2024年2月6日火曜日

山田いく子リバイバル(14)


(1)2002年3月3日 「トランスアヴァンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー

 NAMの地域通貨プロジェクトであった、Qイベントでの一幕。辻信一やナマケモノ倶楽部が運営協力していた国分寺のカフェスローでおこなった。

 2002.3.13「トランスアバンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー (youtube.com)

     音声はVHSが古いからか、録音されていない。

・いく子は、芸名を、「いくこ」から「GO子」と表記変更している。おそらく、彼女の反応には、意識などしていないだろうが、正当な反射神経があったとおもう。

いく子は、ピナ・バウシュに傾倒していた。97年には、香港にまで行って、その公演をみている。いく子のノートには、1995年『ユリイカ』「ピナ・バウシュの世界」特集号のなかの、渡辺守章・浅田彰・石光奏夫による対談「ピナ・バウシュの強度」がはさまれている。いく子が傍線を引いていたところではないが、私は、いく子は、私との出会いで、次のような浅田彰の発言に対応するような応答をみせたのだ。

 

<浅田 (略)ここでとつぜん関西人として断言すると、ぼくは吉本が分からなければピナ・バウシュは分からないと思う――もちろん吉本隆明じゃなくて吉本興業のほうですよ(笑)>

 

いく子は、私との関係のなかに、自分だけでは引けない線を見つけ出したが、それは、「ギャグ」だったのだ。このカフェスローの公演で、コントラバスを引いている方は、たしかタチバナさんと言って、すでに著名な方だったと記憶する。机の上にのぼったいく子は、自らギャクを演じるように、後ろからマジでひっくり返る。最後私がいく子をみあげて、笑いながら何か言っているが、机がぐらぐらして字が読めないよ、と言ったのだとおもう。私たちの次は、学生系の代表をする関本さんが、ギターをもっての引き語りだ。このイベントを主催した蛭田さんからは、なんでこんなことをやるんだ、と顰蹙を買ったが。しかし、「切断」倫理=身振りのやり合いで解散へと突入していく線しかなかったような上世代のなかで(柄谷自身はギャグを意識していたと私には思えたが)、実質的な中心であったろう私と同じ当時30代前後の世代には、「ギャグ」モラルがあった。両者の中間世代にあたるいく子は、その後の付き合いからしても、熊野大学経由の世代よりも、一回り若い世代に呼応している(葬儀には、当時10代ではなかったかと思う関口くんがかけつけてくれた)。頭の中で思想内容をくるくる「転回」させるより、自らの身体の扱いを変化させるほうを選んだのだ。そこには、アーティストとしての、彼女の感性の発揮があっただろう。結婚後、夫婦喧嘩の最中に、いく子がよく私に言い返した文句は、「あなた見てると、(マンガの)こち亀の両さん思い出す。ほんとにそっくり!」 私は、今でも「両さん」であるだろう。植木屋として独立したそのチラシ広告に、「千葉市は都町の植木屋さん」と表記したが、東京の感覚でなら、「大手町の植木屋さん」と言った時のニュアンスが、千葉市の中央区近辺ではつく。しかしソクラテスも、両さん、ひとつのギャクだったはずである。哲学的には無知の知のイロニーとして形式化されるが、実際には、街で見かけられたソクラテスは、笑い者であったろうし、そこに、ソクラテスの根源的な政治性があっただろう。

 

     いく子に関わることとして、また浅田彰の発言を追記しておく。――<彼女自身、「あれはベルリンの壁の崩壊と重ねて読まれるから、しばらくやりたくない」と言っていた。それくらい無関係なものなんです。とにかく、壁が倒れた後のゴミだらけの廃墟の空間で、身体がいかに残酷にして甘味な自由を生きられるかということだけが問題なんです。/しかしまた、ベルリンの壁が崩れることではなく、それこそが本当の<政治>なんだとも言える。人々が身体的なレヴェルでどういうふうに動いているか。カンパニーの中でも、一応コレオグラファーである自分とパフォーマーたちとの身体を通じた関係こそが<政治>なんで、それ以外の政治というのはないと思うね。>

 

(2)2002421日 「トランスアヴァンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ

 

2002.4.21「トランスアバンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ - YouTube

 

・まるでいく子は、ノラ猫である。よくブロック塀の上に座りこんで、じっと通行人を見ているネコに出会わすが、そんな感じであろうか。私は、まったく覚えていないが、最後、二人で、私が読んでいたコピーをとりあうようになった、その時のイメージは残っている。がまるで、他人をみるようである。タイトルに、なんかとの<巻>までついている。

 

(3)2003年6月29日 「トランスアヴァンギャルド 愛についての巻」 ダンスパスにて

 

・録画もあるが、割愛する。この年の4月に、私たちは役所にいって籍を入れた。NAMは2002年の末から2003年にかけて、解散手続きに入り、解散している。

 

(4)2003年9月15日 「トランスアヴァンギャルド 希望の変」 ダンスパスにて

 

2003.9.15「トランスアバンギャルド 希望の変」山田GO子&菅原正樹 (youtube.com)

 

・肩の力が抜けて、幸せそうに踊るいく子。幸せのあまり、泣いてしまったのだろう。私は、まったく覚えていない。出産一月前の公演である。カメラ手前で赤いスボンをはいて腰かけている観客は、摂津さんだ。

 

このダンスパスを運営する長谷川六さんにはじめてあったとき(六さんも去年亡くなった。その姿が映像で伺える)、私はいきなり言われたものだ。「なんでこんな女と結婚したの?」「波長があったんだとおもいます」「すぐ離婚するよ。」――いく子は、NAMの運動の高揚のなかで、仕事をやめていた。組織が解散し、メンタリティー的な拠りどころも、なくしてしまった。彼女は、またもやのどん底のなか、ほんとうに「保険のおばさん」をやりはじめた。私のところへも、自動車保険の話にきた。たぶんそのとき、この女性のことが、本当に心配になってきた覚えがある。いく子が13歳でなら、私は16歳で、人生の時計はストップした感覚があったので、感情的な想いは遠くなってしまうのだが、だいじょうぶなのかな、と言葉では思わなかったが、そう感覚が発生していた気がする。そしておそらく、この年の春先だろう、切羽詰まったように取り乱した電話が突然かかってきた。私を非難しているようにも聞こえたろうか。そんな話というか、聞き役のなかで、私が突然言ったのだ、「結婚すればいいんじゃないの?」 いく子は絶句し、また何かわあわあ言っていたと思う。がたぶん翌日にも、東中野の私のアパートにやってきて、一緒に暮らしはじめた。私が日給で生きる、日雇いみたいな者だったので、「二人で、マンションの住み込みの管理人でもやりましょうよ。」とも言われたが、当時すでに年収500万くらいは稼いでいたから、この大家さんの敷地にある、家賃の安い長屋住まいみたいなところにいるぶんには、別段いく子が働かなくてもだいじょうぶだった。そこに、京都から、コンピューター系に所属し、京都事務局も手伝っていた渡辺さんがやってきて、しばらく三人で暮らしもした。岡崎乾二郎の軽井沢での展示会を見に行く前日なのか、NAMセンターの事務局長をやった倉数さんや摂津さんも、一晩とまっていったことがあるような気もするが、もう記憶も曖昧だ。いく子と私は、つきあいはじめて半年もたたず、たぶんダンスの公演を何度かみにいったことしかなかったとおもうが、結婚したのだ。そしてその後で、もう何年もたってからだが、あの突然の電話で泣きついてきたのは、彼女は自分が妊娠したことに気づいたからなのだと気づいた。いく子は45歳になっていた(私は年齢も気にしてなかったので、知らなかったけれど)。

 

いく子にとって、私は、小柄谷として現れたことだろう。10歳近く年下の私は、彼女の幻想の核である、同性愛に通じる少年愛的な慰撫を壊すものではなかった、同時に、自分よりかは知的な蓄積のある私を、畏怖すべき父としての像ともみることができただろう。しかし結婚すれば、そんな幻想は崩れる。「違う!」と、まるで中上の「秋幸」のように、畳の上に座りこんだいく子が見上げて言ったその抑揚と顔を、私は思い出すことができる。が、その違いの中でも、リアルな性愛は成立する。そして子供が親離れし、私たちがいっそうの歳を経れば、いたわりあいのようなものに移行する。大西巨人は、歳とともに性愛はよくなっていくこともあるのではないかと、エセーに綴ったが、理想的なものとはほど遠くとも、そのような成り行きを私たちも歩んだような気もする。亡くなる十日ほどまえだろうか、心内膜炎で一月半もの入院をやっと終えてまだ半月しかたっていないとき、私はシグナルというか、気配を感じた。それから数日後の朝方、私は、いく子の布団に潜り込んだ。もう定番なように、髪をなで、おでこに長いキスをするところからはじめる。いく子は、ぐったりとした。胸に張りが出てきて乳首が立ってくるのとは逆に、蛸のような軟体状態だった。今からおもえば、もしかして、彼女は、失神していたかのかもしれない。

 

息子が生まれ、体が落ち着いてから、いく子はダンス活動を再開した。最後のものが、葬儀の時に流した「あいさつ」とタイトルされたものである。おそらく、この三部構成は、私小説的な文脈にあるものではない。あの佐賀町のソーホーでの、ホロコーストでバラバラになって崩れ落ちていった個人の、その後の世界の立て直しへの模索として、反応したのではないかと思う。「友達屋~、ともだちはいらんか~」と叫び、狂ったように笑い歩く終幕は、苦渋にみちている。しかしそれが、次の世界へむけての、「あいさつ」だったのだろう。

 

いく子のたどった軌跡は、彼女に特有のものというより、女性一般が追い込まれる現実であるようにも思う。男は、ドロップアウトできる、しかし女性は、はじめからアウトな位置にいたら、そこに入っていく努力を強いられる。息子が小学四年になって、ちょうど東中野の長屋アパートから、公営団地に移ったころから、子供への教育過程で、虐待に近いところまでいった。もう手がかからなくなったのだから、もっと自分のこと、踊ればいいのに、と私は思った。「あのさ、もしピースってアートしているオノ・ヨーコが息子をぶん殴っていたら、そのアートは嘘だよね?」と言う私の言葉に、いく子は、「わからない」と首を振った。当初は、わかりたくないという否認の身振りなのかな、と思ったが、その心底わからないという表情が、記憶に刻まれて、私は、ずっと考えていた。そして、彼女の最期をみとることになったとき、私は、葬儀の喪主の挨拶でも述べたように、自分が間違っているとの認識がやってきた。ピースと虐待は矛盾しない、それを矛盾とするのは、男の論理を成立させる公理系でであって、たぶん、それを矛盾とさせない別の公理系が存在するのだ。その公理の現実性を理解できないと、いつまでたっても、男の論理で戦争を繰り返すのだろうな、と。

 

もしかして、古井由吉は、その公理系を手繰ろうとしていたのかもしれない。

 

いく子が、私に残してくれた宿題は、まだまだあるだろう。がとりあえず、山田いく子リバイバルとされたこの覚え書きは、ここで終える。

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