2026年9月15日火曜日

アナイス・ニンとボーヴォワール

1992.1 モロッコにて

「アナイス・ニンの日記…(略)…非現実です。現実喪失か。でもそれは悪いことじゃないでしょう。私は理解できないまでも現実にそういう女の人はいて、行動できず生活できずにいる。閉鎖的な空間にこもってしまう。いやなものには目を向けない。審美主義っていうのかな。前向きなのは良いものだけを考えようとすること。しかし故意に無意識に切り捨ててしまった現実がきれい事じゃないことを突きつけてくる。そのギャップ。ボーヴァワールが怒り、私が好きになれない女の人であったとしても現実にいる。女の人が悪いわけじゃない。また非現実であって悪いわけもない。…」(90.103

1932年に至り、最初のアナイスの印象は変わってきた。彼女が変わったとおもいます。「強くなりたい」という叫び——ほとんど同じように私も言ったことがある。今も叫んでる。同じ。似てる?」(90.10.10

「現実の生活なんてありはしないのかもしれない。女性に現実の生活がないというけれど、男性にだって都会人・文化人はすでに現実の生活なんてしてないんじゃないかと思う。狩りや農耕もしないでしょ。ルールばかりで成立する経済生活は現実の生活じゃないと思うんだ。ならば閉塞してもいいじゃないか。想像力があればなおいい。自己充足で充分じゃないか。それじゃつまらないのは人と比べてでしょう。でも比べるってこと(競争の原理だ

)は経済の方法なんだから、比べる意味なんかないじゃありませんか。」(90.10.17)——<いく子「はるみNOTE No2」から>

「…別離は、いわゆる円満な別離であっても、女を傷つける。女が昔の恋人について友情をこめて話すのを聞くのは、男が愛人たちの話をするのを聞くよりはるかに稀なことなのだ。

女のエロチシズムの性質と自由な性生活を送るむずかしさが女を一夫一婦制へと向かわせる。」(シモーヌ・ド・ボーヴォワール『『決定版 第二の性 Ⅱ 体験』 新潮社)

「スペンサー …『日記 第四巻』で、「D・H・ロレンスは、こういう融合には反対だと言っているが、私が望み、探しているものは、この融合なのだ」と書いておられます。他者に融け入って、一体化することと、女性が女性特有の心理学を追求することとは矛盾しないのでしょうか。

ニン 女は、他者と融合するというより、他者に沈殿する、沈み込んでしまうのです。女たちは、ずっと長い間、相手の男性とは、そうした関係にあったのです。これは危険な関係です。相手にもよりますがね、あるいは、女には、自分の生長を妨げないような、弱い人格の男をパートナーに選ぶという選択もありますが、これは、消極的な自由の獲得法ですね。

スペンサー あなたが愛についてお考えになる場合、この融合は、時として、必要不可欠なものでしょうか。

ニン そうなのですが、融合という言葉の意味をきっちりと定義しておく必要があります。感情移入、同情、相手の気持ちの直観的理解など、さまざまなものが含まれますから。そこには、複雑に絡み合う感情のリズムが介在します。常時、相手と一体化しているわけではないのです。女も男も独りでいなければならない時がある。ロレンスもそのことに言及していますね。それぞれの魂を見据えるためにです。」(p146)・(『アナイス・ニンとの対話—インタビュー集—』 アナイス・ニン研究会訳 鳥影社)

 

いく子は、和歌山のはるみさんの薦めに応じて、アナイス・ニンの日記を読み始めた。どの翻訳で読んだのですか、とはるみさんに問い合わせると、原真佐子訳だという。読んでみると、たしかに原の後書きに、ボーヴォワールにニン批判があると言及されていた。要は、女性という後天的(構築的)な特質を自明視、鵜呑みにしているという、フェミニズム的な批判になろう。いく子も、読みはじめは、そう批判しているわけだが、読んでいくうちに、どうもそうでもないと気づき、適格にも、こう推察する。——「精神分析の上で、結婚とかセックスの話を必ずしているはずなのに、きれいに削除したんですね。作品を出版する段階で削除したんでしょうが、語らないこと、または目を向けたくないものに向けないこと、私は持ってない資質です。」(90.10.31)——実際、のちになって、無削除版の日記が刊行され、そこではあからさまなことが書かれていたのだ。

 

しかし、対称的なボーヴァワールとニン、唯物論者と審美主義者と便宜的に区別されえるのかもしれない二人が、上で参照引用したように、似たような認識に到達しているのである。(私自身はまだ、二人の文献を探索中なので、結論的な考えは持てていないが。)ボーヴァワールの文学人生は、神(規範)の死のあとでどう人間あるいは女性が生きるべきなのかの、下劣なまでの探求だったともいいえるような気もするが、そんな左翼な彼女が、「一夫一婦制」に向かうというのだ。むろんボーヴァワールが、「最初のトランスジェンダー」としての複雑なエロスをもつ女がそう欲望することは、「頓挫する絶対」に陥り「崩壊」する憂き目にあうのが人間存在の条件前提なのだ、とジジェク的に認識固定するならば、リベラルな哲学者の思想をなぞることになろう。(ダンス&パンセ: スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社 中山徹+鈴木英明訳)を読む(1)/ダンス&パンセ: スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社)を読む(2)

一方、ニンは「一体化」という。しかしこれは、男女の「一体化」ではない。それを越えていくものである。このインタビュー記述からはその思想の詳細はわからないが、私はここに、高群逸枝の「一体化」、宇宙との融合的な憧れと重なるものを読みとるのだ。そしてこの高群の思想を微分的に説いてみせたのが、森崎和江(『第三の性』)となる。

 

ニンは、フロイト的な精神分析から、ユング的な心理学へと思考を転回していっているようにみえる。河中郁男の中上論の中での指摘によれば、ユングの対象は一次大戦という戦争期であって、そこで兵士の見る夢がユング的なものになるという現象が出現するのは、<「個」が平和時に機能していた近代的な「個人」としてではなく、「個」を集団の中に埋没させる非近代的な意識体制を取らざるを得なかったのであり、抑圧されていた非近代的な「個」に対応する潜在意識内容が、被分析者に現れたのである>(ダンス&パンセ: 河中郁男著『中上健次論』(鳥影社)と。)と仮説している。が、それが、「抑圧」ではないとしたら? 「解放」へ向かう獲得条件だとしたら?

 

私は、自身の『中上健次ノート』(BCCKS / ブックス - 『中上健次ノート』菅原 正樹著)で、その現象を、エマニュエル・トッドを援用して違う解釈にもっていったが、すべてが近代という後天的(構築的)な制度性に呑み込まれ固着されてしまった、と推論するのは、早とちりなのではないかと思う。

 

いくつか、上のニンのインタビュー集から抜粋してメモをする。(傍点、振り仮名等は割愛)

 

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ニン …(略)…それと、皆さんが言及されているマルクス主義的考え方を私たちの考え方に活用していくことに、私も確信を持っています。何故なら、皆さんのその視点は社会という外界の状況を把握することでしょうが、それを私たちにもできるようにしてくれたからです。しかしながら、過去においてマルクス主義たちが社会的影響だけを視野に入れたことによって、私たちが多いに失望を迫られたことは確かです。今日我々の指導者たちを見れば、その状態が分かります。つまり、彼らが何て破壊的な事柄を成し遂げてしまったかということが。そして延いては、そういう状態にある社会を私たちは論破して来れなかったということが。私は本当に、社会という大きな外側の世界だけから物事を見たくないのです。それはどうしても、私たちの内面の成長を挫かせていくからです。私たち女性が携わっている団体活動が何であれ、今みんなが構成しつつある個々の内面は、とても力強いものでありうるのです。この外部と内部の融合が必要なのだという見解で私たちは意見が一致しているようですね。

レイズ そうですね。私たちは本当に同意見を持っているのですね。フェミニズムの根幹にあるのが、まさにこの外と内の融合なのです。

ウィリアムソン 将来的に見て、男女それぞれの良い特性が融合して、もっと両性的な人間としての良い特質を持つように変わっていく時がやって来るとお考えになりますか。

ニン はい、そう思います。ユングはその両性性(アンドロギュヌス)について本を書いています。確かに、アメリカ男性は自分の女性である一面を否認してきましたね。ボードレールが言うように、一人の人間というのは男性であり女性であり子供でもあるからです。この事を認識すれば、男女関係、人間関係がもっと良く関わり易くなると思いますよ。(p45)

 

ニン そう、男性芸術家は自分を人生から切りはなしていました。子供たちの泣き声を聞きたがりませんでした。家庭で起こっていることを知りたがりませんでした。現代の女性がそのことで不満を言うのを聞いたことがあります。知人の夫婦がニューメキシコへ引っ越しました。夫は自分のアトリエを建てて、家のことには関わりませんでした。妻はしょっちゅう邪魔が入る家で仕事をしなくてはなりません。でもこういった制約、こういった女性の生活上の制限が、ある意味では女性のすばらしさにもなるのです。

シカゴ ショーの後電話してきた女性は、すばらしかった、私たちに制約を課す人生の側面、障害と見なしてきたまさにそのものが、実に今百八十度転換するとは考えたことがなかった、と言っていました。こういった障害のおかげで私たちには高度な人間らしさがあるのです。今この人間らしさを社会全体に汎用すれば、文化を人間味あるものにする上で非常に役立つでしょう。

ニン 本当にそうだと思います。

シカゴ 私もそう思っています。

ニン (近所の人、子供など他者の要求を思いやる)女性の人生の連続性に、私たちは(ちなみに私は腹をたてたことはありませんが)邪魔されていると感じていました。そうではなくて、連続性は作品にある特質を加味しているのです。

シカゴ もし連続性が女性にとって価値があるなら、男性にとっても価値があるということになります。その場合男性は役割条件のために疎外されていた人間らしさに、どうやってまた関わっていくかを学ばなくてはならないでしょう。そう思われますか。

ニン まったくその通りですね。ミラーやダレルとの当時の議論の要点は、創作などのとき彼らがプライドや孤独を口にし、神のようにふるまうと私が言ったことなのです。違う、女性はそんなふうに創作しない、思い上がって、一人きりで孤独に、創造のために一切の物事から離れて孤立したりしない、と言いました。そんなのは間違っているとわかっていました。

 

ニン 初期の日記を書いた時期は、私は「男性たちを通して」世間に抵抗しようとしていました。たとえばヘンリー・ミラーがピューリタリズムと闘う様子を描いたり、オットー・フランクをフロイトに対抗させたり、アントナン・アルトーが斬新なアイディアを演劇にもち込むところを描いたり。私はそのとき単にお手伝いしてただけだったのね。アシスタントとして(笑)。でも、そのあとだんだん意識するようになったの。自分自身が反逆者だ、ということを。周囲の男性たちを通して、反逆行為をしていたのよね。それからやっと、自分のための抵抗運動をするようになったのです。

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