2025年9月4日木曜日

スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社)を読む(2)

 


「恋しゅうございますわ。私のスフィンクス。して胸と肩との恋人。花なすお方。この上忍べとならば小鳥でも鳴いて仆れるでございましょうに。まして前の窓も壁もぼんやりしていること!」<「郁子より」『高群逸枝全集 第9巻』 理論社>

 

ファインマンが量子力学を理解できるものはいない、と言ったように、ジジェクの理論の根本を理解することは難しいのかもしれない。ジジェクはその量子力学においてのアポリア、観測問題こそを人間理解のための根底に導入する。アインシュタインらによってEPR問題として論理的な矛盾として提起されたそこは、矛盾であろうが現にそうなっていることとして受け入れられ、実用応用化されている。が、その矛盾を理解することが解決されたわけではない。定説的には、ボーアらの波動の収縮というコペンハーゲン解釈ということになるのかもしれないが、その現象をなぞって述べただけのような仮説に対し、まだ見つかっていない隠れた変数があるとする提起、波の世界も実在的によそで存在していっているという多世界解釈、分子同士が観測しあって収縮すると説くデコヒーレンス論、あるいは波世界の不可知さを物自体として遠ざけるカント主義的な見方、そして波も粒子も同じ「コト」として一元化する情報論、等があるのだろう。

 

    私流的な問題把握は、『陰謀論者はお客様』(BCCKS 電子出版)によって要約提出している。

 

ジジェクは、それらどれをも退ける。「素朴実在論」ではないが、あくまで「実在」を手放さないので、つまり情報(「コト」)世界として割り切った態度はしないので、物理学上のアポリアを引き受けるのだ。そして、「崩壊」(収縮)それ自体に着目する。その崩壊過程を、フロイトやラカンの精神分析によって仮説構築してみせる。

 

人間という自然自体が、根源において崩壊(敵対)を抱え込んでいるのだ、というのが、定理Ⅰ(「存在論の視差」)、になる。

 

この定理を、日本の思想史的な文脈でいうなら、吉本隆明の『共同幻想論』と対比させてみるのがよいのかもしれない。吉本は、自己幻想、対幻想、そして共同幻想は、心理的に対立的な機構と思想性をもっているので、それらが衝突すると「逆立ち」するような関係になると言う。がジジェクによれば、それらは同じ形式に従っている。「狂気(自己)、性(対)、戦争(共同)」との関係は、逆立ちするまでもなく、同じ強迫反復という享楽の形なのだ。それらは、両立する。どころか、過剰な相乗効果だってもつかもしれない。それらの思想は、狂気と和解しようとするのではなく、その深淵に呑み込まれてゆくのだ。

 

ジジェクが引用したニーチェの「虚無の沼地(深淵)」をめぐるアフォリズムには、次のようなものもあったはずだ。深淵を覗き込むものは、自らが怪物にならないよう気をつけなくてはならない、と。しかしこのニーチェの格言は、だから深淵(狂気)に近づくな、ということではなかった。自ら深淵を覗き込む怪物のごとくなって、その縁にとどまれ、ということである。その実践だけが、狂気や性、そして戦争との和解の在り方なのだ。

 

ジジェクも同じように、深淵を覗き込むことをやめない。そしてこの深淵(「絶対」)に一番近づきやすい現場が、「性」という現象の発生場所なのだ。

 

それが、定理Ⅱ「人は性を通じて絶対に触れる」、となる。

 

根源的には「崩壊」があるのだから、それは砕け散っている多数過剰、+だ。これはどちらかというと女性的、とされる。がこの混沌を収める二次過程として、主人(男性)が必要とされてくる。そしてその男性への対は欠如であるがゆえに、その穴埋めとして、女性をはじめ多様な文化的工夫が導入される。「崩壊」は、歴史を超えた普遍的な相であるが、この二次過程以降は、歴史的な事態となり、文化集団によってもそのやり口の内容は変わってくる。だからこそ、ここにおいて、介入の余地、深淵を覗き込んでではどうするかの実践の可能性がかかわってくる。「唯一の解決策は、「人間の本性」は今日も変わり続けているという事実を受け入れ、この変化の危険性と可能性にわれわれ自身をさらすことである」と、ジジェクがいうのは、そのことだろう。

 

では、だからどうするというのだ? 具体的な方策は提示できないが、より詳細な分析を通して、ヒントは提示できる。

 

それが、定理Ⅲ、「三つの向き付け不可能なもの」、である。

 

「崩壊」というのは、「無」に帰すということではない。「無未満」とよぶべき波の、可能性の群れが砕け散っているということだ。それらは、「崩壊」後の、モノ化した現実の内にも潜勢している。モノ化しても、自己不一致にしかならなず、崩壊への不安を抱えこんでいる。集合体への欲望は、その不安(敵対)ゆえであり、各要素が自己同一性を頓挫させる否定性を抱え込んで在る、ということなのだ。しかし資本主義が他の生産様式と違って生き延びてゆくのは、この不安、危機によって衰退に向かうのではなく、それこそを常態として抱え込んで生かしている、ということだ。それは強迫反復(死の衝動)という不死の循環運動をなぞるのである。それは強い享楽ではなく、この循環運動(失敗・失恋-危機)を反復するそのこと自体が弱い享楽(剰余享楽)として嗜好される。これは、ヒッグス場でのボーズ粒子発生のパラドックスと厳密に構造的に一致しているとジジェクはみる。システムが完全な休止状態(無)よりも、繰り返し欲動の円環で動いていたほうが安上がりであり、エネルギーがいらないのだと。

 

だから、ならばこうなる。

資本主義に収斂された各要素、歴史にも、否定性を抱え込んだ敵対がある。日常現実に空いた深淵を覗き込み、その潜勢を認めたもの、それと関係しその力を引き出そうとするものは、安上がりなシステムに亀裂をいれるエネルギー浪費者だ。それは局所的な強い享楽でしかありえないかもしれない。しかしその否定性の力だけが、深淵に呑み込まれることを回避させ、和解させるのだ。

 

以上が、私流の、ジジェク解釈である。

 

ジジェクは、ヒッグス粒子というボーズ粒子に分類される物質の原理的性質に注目した。が、私が着目しているのは、もうひとつの原理的性質をもつと分類される、フェルミ粒子である。これは、二つ以上の粒子が同一の量子状態を占めることはできないというパウリの排他原理に従う。だからもし電子がフェルミ粒子でなく、ボーズ粒子だったら、エネルギーの一番低い軌道にみんなで入っていけるとなってしまうので、モノの形が成立しなくなる。が排他・単独的なフェルミ粒子も、群れるボーズ粒子に支えられている。陽子も中性子も、その内のクオークもフェルミだが、無数に飛び交うボーズ粒子を共有することで存在できる。なんで物質は、そんな関係にあるのだろう?――私がここで思いを巡らすのは、高群逸枝の婚姻史だ。まず群婚制がある。次に男による通い婚が生じる。そして、男性支配の父権制になっていく。この仮説には、物質的条件と前提がふまえられていないか? 私は(作家の赤坂真理も)、性は内省・現象学的には、男女を両極とするグラデーションの現象にみえる、と言ってきた。もしかしたら、このスペクトラム現象も、エネルギー準位が飛び飛びの値をとるように(パウリの排他原理があるので)、量子的なのだろうか? ジジェクは、男性は「高次元」を導入する力学的崇高で命をかけるまでゆくが、あくまで感覚内部にとどまる女性は数学的崇高に従うので、歯止めがききそこまでいかない、という。内省的に、もっと突き詰めたくなる示唆だ。

 

またもうひとつ、量子力学で気になる点は、ゴミ問題だ。ボーズ粒子は、波に質量を与えて物質化、つまり無未満な状態をから物質を発生させる。が、その際における波(可能性)の消滅には、廃棄されたエネルギーが残るはずなのに、それがどこにいったのかわからない、というのである。もしその在りかがわかったら、つまり消えてしまってもエネルギーが残っているとわかったら、実は、ジジェクのいうように、安上がりなシステムではない、ゴミをどこかにおいやっているだけだ、みたいな話にならないのだろうか? 

最近のスマホにひっかかってきたニュースで、「情報は消すとエネルギーになって漏れていく――情報の物理性実証に成功」という『ナゾロジー』での記事があった。こうした研究発見は、どうジジェクの哲学と関わってくるのだろう?

 

ジジェクは、その哲学から、政治的に発言し、近未来を予測する。EUの理念を擁護し、ウクライナ支援を要請する。演繹法だ。経験実証的な帰納法と言えるかもしれないエマニュエル・トッドの主張とは、正反対、になる。また具体的な主張の前提となる現状認識も、日本での情報とジジェクのそれは異なっていた。私はこの違いは、ロシア(とウクライナという戦場)との距離の違いなのか、と以前のブログで理解してみた。いわばロシアに近すぎて、要はこわい、ということではないか、と。がウクライナ支援をもっと、とはいっても、ジジェクは『戦時から目覚めよ』でこう言っている。――<ロシアとの全面対決を引き起こそうとする連中にとっては、新たな戦争が起こる可能性は実際に存在する。彼らの意見を要約すると、「ついに、われわれを分裂させている女性の権利擁護や反人種差別主義といった偽の闘争が終わり、資本主義の危機に関するくだらない議論が脇に押しやられ、男たちが再び男らしく戦うときがやってきた。女子どもがウクライナを逃げ出す一方で、男たちが使命を果たす祖国ウクライナに戻っているのはそのためだ!」となる。>……しかしウクライナ支援の実際において、マッチョなものとそうでないものと、区別できるのだろうか?

 

またもうひとつ。

 

もしかして、このジジェクの唯物論哲学に一番近い日本の作家は、埴谷雄高のような気がしている。ジジェクは、唯物論に立つために、「動物によるニュルンベルク裁判のようなものを想像してみよう」(p85)と言う。これは、埴谷の『死霊』だ。ドストエフスキーの「大審問官」がカント哲学によった人間立場の堅持と懐疑を提示したのに対し、埴谷は、「自同律の不快」を根底に、よりヘーゲル的な過激な読みをして、人間を超えたアニミズム的な裁判をブラック・ユーモア的に提示してみせた、ともいえそうだからである。

ジジェクは、資本主義の次に訪れるかもしれないポスト・ヒューマンな世界(バイオテクノロジーによるような)を、その危険と可能性をもって肯定しなくては、と述べるわけだが、その話を聞くと、私は、苫米地英人が佐藤優とのAI議論でのべたことを思い出す。人間は、脳みそだけなら200年生きられる、そうなっていく……私は、脳みそだけで生きたいと思わない。バイオ技術が、生体内に投与するAI機能付きナノ・チップで健康や情緒管理がオートマチックにできるようになっても、それで健全で平和な人間なるものになりたいと思わない。が、そうしないものは、近代的なヒューマン観に立つ野蛮人、不健全で、怒ったり悲しんだりする情緒不安定な危険人物、保険も高くつくよ、みたいになっていくのだろうか?

 

最後に、ジジェクのこの書より、十年ほどまえに書かれた、大澤真幸の『量子の社会哲学』から引用しておく。

 

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量子力学にあっては、真空でさえ単なる無ではない。真空もまた、「それ以上の何か」であって、そこでは、ゆらぎを通じて物質が出現したり消滅したりを繰り返している。これと対応することを、われわれは、親しい<他者>が亡くなったときに体験する。この部屋には、もう彼/彼女はいない(真空)。ただ、彼/彼女が使っていた万年筆やベッドがあるのみだ。このとき、ますます、われわれは彼/彼女の現前を感じてしまう。無に対する残余として、<他者>の実在をむしろ強く感覚するのである。

 量子力学では、普遍性は、だから、「これですべてではない」という消極的な残余の形式で暗示されるのである。「これ」の向う側に、積極的に、全知の神を想定しようとすれば、ここまで論じてきたように、逆に、ある種の無知を――<他者>の生についての無知を――代償にせざるをえない。とすれば、われわれは、次のように言うこともできる。量子力学に至りついたとき、人間は、それについて無知である限りで、神とその下にある人間界の秩序の安寧が保たれるような、恐ろしい深淵を垣間見てしまったのだ、と。

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