2019年12月8日日曜日

映画『ジョーカー』とハロウィン騒ぎ


佐藤 ただ、自分で「エリート教育」をやっていながら思うのだけれど、このアクティブ・ラーニングについていけない人たちがどうなっていくのかというのは、深刻な話だという気もするのです。詰めこみ教育同様、新しい学び方の現場でも「落ちこぼれ」は生まれるはず。面倒なことに、今度はそこにAIが絡んでくるわけです。
池上 前におっしゃった、AIリテラシーを備えた人間のところに情報やお金が集まっていく、という問題ですね。選ばれた人たちは、アクティブ・ラーニングによってそういう能力を獲得していけるけれども、そこからこぼれ落ちると、以前にも増して悲惨なことになりかねない。」(『教育激変 2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ』(池上彰・佐藤優著 中公新書ラクレ)

映画『ジョーカー』が、若者の間で好評だという話は知っていたが、自身で見てみたいとはおもわなかった。がvideonewsでの宮台氏のコメントを聞いて、このブログで書評した河中氏の中上論を想起し、確認してみたくなったのである。また、子供の教育にハイになりすぎていきそうな女房に気分転換させるためにも、風呂敷広げたハリウッドの大衆映画に連れていくのはいいだろう、と考えたのだ。月曜日の天気は雨という予報だったので、前日の日曜日からその心構えでいた。二人で見るのは、『スノーデン』以来だろうか?
が、見続けていくうちに、私は、“超”がつくぐらい、女房のことが心配になってきた。やばいんじゃないか、と。この映画は、母親殺しがテーマになっていたからである。そして、そのテーマを本人に意識させるような成り行き、下地の上で、この映画を見ることになってしまったからだった。私は、日曜日に、試みに作ってみたYouTubeでの自作動画、女房と幼稚園児時代の息子のコラボになってしまったようなダンス・シーンのアップを、二人のラインで紹介していたのだ。私としては、二人にもこんな共作になるような仲があったんだよ、と思い出してもらえたらいいな、という感じだったが、実際の狂気のような女房のダンスと、背後の音響装置の破損から偶然に生じた破壊的なノイズ音の連続によって、私の思いやりは正反対へのメッセージにもなりうる、両義的な意味を含ませたトーク投稿になっていた。でこの『ジョーカー』は、私の希望とは正反対の方の意味の露呈へと後押しさせていたのだ。

橋本治が遺作にもなった『父権性の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』で、アメリカのヒーロー映画を題材にしながら、まさにその新書タイトルにあるような話題を提出していたのを、私も村上春樹をめぐって言及した。が、私自身がここ数年、このブログで主張してきたことは、むしろ「母殺し」をめぐるもの、いわば、日本の文脈だった。それを、トッドの核家族論や、柄谷氏の双系性議論で補完していったのだが、その以前は、中上健次を題材にしていたのだ。本当に相手にすべきなのは、父である龍造ではなく、母であるフサなんだと認識しなおし、「死のれ、死のれ、マザー、マザー」と若者に歌わせた『地の果て至上の時』以降の認識をとりあげて、である。
ジョーカーが立ち上がるゴッサム・シティーとは、宮台氏が指摘しているような、善悪の彼岸(「法の外」)である「地の果て」であり、そこに放たれた「火」が象徴させるものとは「至上の時」の出現であっただろう。資本家でもあるだろう父の殺害は、ジョーカー本人ではなく、それに感染した他の者が代行したという設定は、自らが手を下すまえに自殺してしまった父・龍造という秋幸をめぐる状況とも重なる。しかも、目の前で両親を殺されたヒーローとなるバットマンは、ジョーカーと異母兄弟であるかもしれぬという設定も、家族関係の入り組んだ、双系的現実を前提とした中上の設定と重なるだろう。が、『地の果て――』での秋幸は、まだ母の殺害の想定にはいたっていない。が、この洋画では、中上の『地の果て――』以降の認識が、『地の果て――』にすでに織り込まれているような構成をとっているのだ。トッドや柄谷の理論で敷衍していえば、核(双系)家族や高次元で回復されるべきだという交換A(互酬)の基礎を突き崩していくような衝動の前景化である。父の向こうの、母の存在、脱構築派が隠れたテーマとして問題としてきた欧米の抑圧された地盤が、テーマとして提出されていたのである。

私は「やばい」とおもいながら、一度ならず女房の様子を斜視でうかがった。さらに、ジョーカーが、息子とだぶってきた。女房は、息子から殺されるという母親の物語を、どう受け止め、その映画を観に連れてきた私を、どう思い始めているのだろうか? 私は、秋葉原事件を起こした青年のこともおもいだした。息子が小学生の時に発生したその事件をめぐって、このブログでも「小さな過去」と題して考察したが、私は最近YouTubeでみた動画のことを想起した。犯人として捕まえられた青年への、母親の過干渉がクローズアップされていた。さらに不況というか、クライシスになっていく社会状況の中で、若者は、息子は、どうなるのか、他人事のようには、この映画をみられなくなってきたのである。このブログを書く前に、『ジョーカー』の映画評を検索して、いくつか読んでみた。劇団ひとりの、自身の若い頃を振り返っての感想は、なお息子が入っていく、入っていっている世界をめぐって、私を深刻にさせる。
この映画の若者の間での好評、という巷の話題からは、私は、渋谷でのハロウィン騒ぎを連想していた。その現象をめぐって、私はフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にかこつけてブログ考察したけれど、なお客観的対象としてだった、ということになろうか。私はそこで、江戸時代中期以降の、若集宿のような伝統的な中間団体の機能不全からの現象と、集団(仲間意識)を養育していくための唯一の機関になってしまったような現在の義務教育・高校までの下部的なシステムの不全状態を重ねてみたのだった。江戸後期から明治へとは、この不全を強権的な父権性導入によって解消させた時代、とも言えるのだ。

佐藤優氏のような論客も、こうした若者たちの現象に、ファシズムへの兆候をみるようである。最近の舛添要一氏の『ヒトラーの正体』への書評も、その一環態度だろう。私も、そうした歴史の反復性に言及したこともあるが、息子が成長するにつれて、国家機能を前提にしたファシズムが、本当に成立するのかどうか、疑問に思い始めている。スマホ導入の資本主義の現実を見据えた河中氏の中上論を読んでからは、なおさらだ。カリスマ的人物、なる集団的幻想が成立するのか? 橋本治が言ったように、もう「指導者はやってこない」のではないか、そしてそれは、ファシズムよりも危機的で壊滅的な、「地の果て至上の時」を、この現世に出現させてしまうのではないか……映画『ジョーカー』は、そんなカタストロフィを現実のものとして、私に想像させてきた。

観賞後、女房が、「もうやんカレー」を食べようというので、googleマップで探して、映画館のあったゴジラヘッド・ビルのすぐ隣下にあったその店へと、迷ったすえにたどり着いた。たしか、何かのテレビ番組で紹介してたな、とおもう。で、その漢方調味料入りだとかいうカレーを食いながら、女房がきいてくる。「なんで、父親は精神病院にはいったの? そこがいまいちわからないのよ。」私は、一瞬、なんの話をしているのかわからなかった。「えっ、病院に入ったのは、母親だよ。」「違うでしょ。ジョーカーの本当のお父さんが入ってたんでしょ。」「違うよ。ジョーカーの父親は、市長だよ。そう母親がその市長に書き送ったを手紙を盗み見てジョーカーが気づいて、あのでっかい父親の屋敷に確認しにいったんだろ。で、市長のほうは、母親が子供を虐待していたからその子、つまりジョーカーを幼いころ養子として受け入れた時期があって、その間だか、母親を入院させていた、という話をしたんだ。もちろん、それは女中に手をだした金持ちの言い逃れかもしれず、本当は、どっちなのかはわからない。母親の妄想なのかもしれない。が、この映画ストーリーは、それでも市長が父だ、ジョーカーは隠し子だというバイアスのもとで作られている。主人公は、そういうおもいにかられ、殺人を企てていこうとするんだから。」「そんなこと、言ってないじゃやない。」「そこまで説明したら、面白くなくなるから、文学でもなんでも、はしょって、観衆に推論させる、つなげられるところで作っていくんだよ。」私は、唖然とするより、イライラしてきた。ハリウッド映画のストーリも追えないものが、偉そうに子供の勉強を教えているのか? おそらく女房は、この映画に、母殺しのテーマをみてはいないだろう。おそらく、父殺しも。いちいち、文字で、字幕やセリフで説明していないから。文字通りな論理で展開されていかないと、論理がつなげられない、なんという優等生か! 私は、共通一次試験に変わるという、新テストの国語問題を思い出した。新聞で掲載されていたそれを解いて、要は、官僚を育てたいのだな、とおもったものだ。マニュアル書や図との関連など、書かれたことを読み取るテクニックに秀でた者たち。女房も、高校までは勉強ができたと豪語する。が、言外に構成される本当の論理、真意まで想像が、推論がいかない。これでは、あの教育改革では、忖度もできない官僚ができあがるだろう。忖度とは、思いやりの一種である。それに従うかどうかは別にしても、その下地がないならば、索漠とした人間関係、いや文字通り言わないと理解しあえない、堅牢な人間関係があるだけになるだろう。つまり、救いがなくなるのだ。

冒頭で引用した対談で、佐藤優氏と池上彰氏は、この新テストを評価している。私のやってみた感触では、以上のように、否定的だ(アクティブ・ラーニングという概念提起は、このブログでも子供のサッカー指導をめぐって、肯定的に言及してきたが)。それは、「論理国語」という用語分類で収れんされていく発想につらなっていく。なんと狭い、狭義な「論理」という言葉であることか。小室直樹氏は、「論理」を日本語で訳せば、「有言実行」になるのだと言っていた(『数学嫌いな人のための数学』東洋経済)。それは、言葉が通じない相手、他者へ向けての説得のための態度が前提なのだ。佐藤氏は、「共感」という人間能力を教育の基礎として提示しているが、「論理国語」の前提とは、島国的な、言わなくてもわかりあえる内輪世界での論理、言語ゲームである。が、人が外へ向けて言葉とともに実践する態度には、「忖度」が前提としているような、家族的な、核家族(双系)的な非権威的な密着度、とくには母子関係が大切なのだと私は洞察・理解している。周縁的な位置にいた核家族的小集団が、文明化された父権的な帝国に対し、皆殺しを免れるための行動を伴った論証である。まずは相手をみて、殺られる、と忖度できなくてはならない。ジョーカーは、秋葉原事件を起こした若者は、中上の秋幸らは、その基盤を破壊していく切実さを露わにさせた。理論的には、もはやファシズム(全体官僚主義)もが成立しえない地点に、私たちは立たされようとしているのではないか? 「地の果て至上の時」という時代に。……女房への心配が杞憂だったように、そんな言葉が実現されないよう、有言実行されないよう、私は希望している。

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