宮崎大祐氏が、黒沢清氏の助監督を経験することから映画界に入っていったような経歴があるので、なにか影響関係があるのか、と黒沢氏の作品を借りてビデオ鑑賞しはじめたのがふた月まえほど。若い頃も黒沢作品をみてなかったわけではないが、よく知らなかった。そんな家での鑑賞中に、黒沢氏のヴェネチアでの銀獅子賞のニュースがはいった。ちょうど、『旅のおわり 世界のはじまり』をみて、『TOURISM』と同期しているのではないか、と感想を抱いていた矢先だった。若い女の子が旅をする、一方はウズヴェキスタンへ、もう一方はシンガポールへ。驚いたのは、そんな女性主人公の着る衣装の同期的対称性だ。『旅のおわり―』では赤い体育着のようなスボン、『TOURISM』では、青い体育着のようなスボン……そこまで似るのか、と思わせるところが随所にありながら、どこか、決定的な、いや対立的な差異が感じられる。当初、私は、宮崎氏のほうが、黒沢氏への批判意識があって、意図的にそうでもしているのか、と勘繰ったが、撮影時期が重なるというより、宮崎氏の方が先行しているのだ。2019年公開の『旅のおわりー』に対し、『TOURISM』は2018年である。いやさらに、助監督にはいった2008年の『トウキョウソナタ』から4年後に、宮崎氏ははじめての長編映画『夜が終わる場所』を撮っているのだが、これは、黒沢氏の『クリーピー』を先取りしている。となると、この同期と差異にみられる影響は、師弟関係的なものとは別次元にあるといわねばならない。
そう推定されてきたところに、今回、黒沢氏の『スパイの妻』、そして宮崎氏の『VIDEOPHOBIA』が、ほぼ同時公開された。私は、興味深々だった。そして案の定というべきか、両映画のテーマやシーンなどに、同期生と差異性が、顕著に顕れていた。そこにあるのは、両者の、歴史や世界にたいする対応性の鋭さを共有しながらの、そこでのスタンスにおける、政治的、階級的な立場の自覚的差異、ということになるのだろう。
たとえば、『スパイの妻』は、会社に勤める男たちの風景によってはじめられる。『VIDEOPHOBIA』は、家にいる女たちの前景によって開始される。主人公の女性は、前者がブルジョワの令嬢であるなら、後者は、長屋暮らしを家族とともにしている在日の娘だ。令嬢は9ミリ半で撮影され、娘は8ミリで被写される。ハンサムな社長は、理念を奉じるコスモポリタンとして女性をだます。ハンサムな自称化粧品会社の社長の息子は、欲望に奉じる詐欺師として女性をだます。だまされた女は狂う。令嬢は夜の浜辺を走り、娘は夜の繁華街を走る。前者は亡命を、後者は整形を試みる。男女ふたりが一緒に映画をみるシーンがありながら、資産家のみるドラマと庶民のみるお笑い系の時代物なのか、も対照的だ。もちろん、住んでいる家も、ともに関西が舞台でありながら、一方は神戸の有産都市を、もう一方は大阪の雑居市井を背景とする。劇中劇で作品を構成しているともいえる両者の共有性と差異性は、こうあげていくだけでも驚くべき照応がある。
しかし、私がいま話題にしたいのは、以上のような作品構造レベルの話ではない。より主題的な事柄である。『スパイの妻』が臨場感をもってみえてきてしまうのは、その映画の時代背景、素材背景と現代との偶然的な同時性が発生してしまったからだ。もちろん、コロナ禍といわれるものと、日本軍の931部隊がやったとされる照合性だ。日本軍は、ペスト菌を使った化学兵器をばらまき、感染した中国人患者を収容して人体実験に使用したとされる。主人公の会社社長は、その極秘情報の証拠をアメリカへ引き渡して国際世論を喚起していく企てをたてたわけだ。これは、現在、中国や香港の研究者がアメリカに亡命し、新型コロナが、中国人民軍が中心になって作成した化学兵器であると証拠をあげて告発している様とだぶってくる。自国民がワクチンの被験者として利用されているブラジルの大統領は、われわれはモルモットではない、と告発している。その真偽は不明なままでも、私たちが巻き込まれているグローバルな状況が、昭和時代を舞台にしたこの映画鑑賞に緊張感をもたせてくるのだ。
『VIDEOPHOBIA』も、このコロナ情勢を予言していると指摘されている。しかしそれは、どうも主人公の女性が、化粧マスクをしているシーンがはさまれていたかららしい。しかし私がそこにみるのは、マスクをしない庶民の姿のリアルさである。もちろん、この映画の撮影は、コロナ禍以前、映画中のセリフからは、平成最後の年、とされているのだが、公開がコロナでのびて、その被害状況の最中で大阪の市井の人びとが活写されていくのをみるとき、私は、マスクをしない庶民の姿と重ね合わせてみざるをえなくなる。植木職人の私の身の回り、東京の山の手の新宿でも、その庶民街では、マスクなどつけないほうが自然な風景だからである。世間が騒いでいる最中、親方の家の玄関先の路地道の空き地では、平然とバーベキューをして騒ぐ近所の親子連れの集いが、毎週のように見られた。子供から親まで、マスク姿などない。食っちゃべる。いいのか、と私など驚いてしまうが、そこに、政治性などまったくない。うかがえるのは、ただ生きている力だ。『VIDEOPHOBIA』での祭りに精を出す男たちの姿、世界……それは、マッチョなようでいて、そうは解釈しきれない何事かが蠢いている。それは、在日の主人公アイが暮らす長屋の女たちの、混沌を生き延びてきた母親が語る心底に通じているだろう。
『スパイの妻』はどうか? もちろん、映画では、マスクなどつけてはいないが、マスクをつけていく社会になるだろう。それは、女たちの世界ではなく、男たちの世界である、ということだ。妻夫二人での亡命のはずが、男の練りに練った策略で、貨物船の木製コンテナに潜りこんだ妻は憲兵につかまってしまう。おそらく、夫が密告し、それをおとりに、自分は漁船で逃げ延びる手配だったのだ。妻の方が隠し持っていた、931部隊の蛮行の隠し撮りフィルムは、夫によっていつのまにかすり替えられていて、証拠実見のさい、それは夫が監督をし妻が主人公となったメロドラマの上映会となってしまった。証拠はなくなったが、事態を悟った妻は幕へとよろめき、「お見事!」と叫びたおれ、そのまま精神病院へと処置された。私は、「ありえない」、とおもった。もし、自分の妻が、たとえ愛によるとしても、そのような策略にはめられたとしったら、どう言うだろうか、と考えた。「ふざけんじゃねえ!」、であろう。映画は、神戸空襲の最中、浜辺を走りたおれる女の姿に、「終戦」という字幕、そして、アメリカで生き延びているかもしれぬ夫をおうようにしてか、戦後、女がアメリカへ渡ったことを告げる字幕が現れておわる。こうした最後のシーンは、『文学界』11月号における、蓮見重彦氏をまじえた脚本担当・濱口隆介氏との対談では、黒沢氏本人が脚本に付け足したシーンであることが告白されている。たしかに、絶望感ではおわらない、黒沢氏らしい挿入なのかもしれない。が、これは、とってつけたように、私には感じられた。そもそも、この女の設定が、錯誤だったのではないか? 私は、『死の棘』の島尾敏夫とその妻ミホの間柄のことをおもった。たしかに、映画でも、女性の一途な、献身性が喚起されている。が、それに愛する男がこたえないとき、それでも女は男の考えに従属するようについていくのか? 演歌で歌われる女のように。私には、島尾の妻ミホのように、狂いながら、男を告発していくか、違う生活を決然と作っていこうとするのが、女性的な力として一般的なのではないかと認識する。『文学界』の対談では、この女の狂気もまた、戦時を切り抜けるための芝居の可能性もある、そう曖昧な解釈の余地を残して制作されていることが話されていたりする。しかし、そんな賢しらな男たちの態度など、一顧だにしない盲目性が、女性の力なのではないか?「お見事」? そんな認識は、男たちの錯誤が前提とされているのではないか? そのセリフが、女優本人からの即興であったとしても、それは女性としてというより、映画構成に拘束された女優としての演技にしかならないのではないか? 真実に迫るためのフィクションというより、はじめからの、お芝居に近い。神戸に設定しながらロケ地は千葉県だったり、有馬温泉が、群馬の四万温泉、ジブリの『千と千尋の神隠し』のモデルとなったとされる旅館だったりする。予算とかの現実的都合上、そうなり、特定の場所、時代を志向するというより、象徴的な場所としての映画を試みることにした、というような解説もなされている。なるほど、その象徴性が、コロナ禍の世界へと一般化されもするわけだが、虚構としての強度は弱くなってしまっているのではないか。しかし宮崎氏のドキュメンタリー手法は、逆に幻想としての強度を持つことに近づいているようにみえる。映画が提出してみせるネット社会とは、リアリズムというよりは、どこか形而上的な世界である。ヴァーチャル世界に流布された彼女の淫らなシーンは、ありえない角度からの画像であふれだしはじめる。男に抱かれながら棚におかれた8ミリカメラをのぞいたその一瞬の視線もが、あらぬ視覚から活写される。誰がみていたというのか? もはや、男が隠し撮りしていたという推定は、揺らぎ始めてしまう。ありうるとしたら、神か、幽霊か……いや画像をこえて、映画自体が幻想的、幻覚的な趣をもちはじめる。スマホから突然出現した男の声に、街中にはりめぐされた監視カメラを越え、上空をみあげたアイの十字路での立ち姿は、『TOURISM』での、神隠しにあったニーナがようやく女友だちと再開できたシーン、その背後にながれた子供(妖精)のくぐもった声とが重なってくる。これは、人間の物語なのか? しかしカメラは、うつつと幻を区別しないように、ただ大阪の街並みを連写しつづける。
この不気味な日常のリアルさを支えているのは、『スパイの妻』では錯誤とみえた、女(たち)をめぐる宮崎氏の洞察にあるのではないか、と私は推察する。
『VIDEOPHOBIA』では、アイは、整形をして新しい男との生活をはじめる。この決意は、自分を隠そうとした女性の被害者意識がそうさせた、ということではないだろう。女たちは、そこに心底通じた庶民世界は、そうやって生きてきたのだ。精肉工場に入っていったアイが、もぐりの整形屋なのであろう男に、パスポートとなけなしの現金を提出したとき、私は、彼女が朝鮮へと亡命しようとしているということなのか、と推論した。『スパイの妻』とは違ったわけだが、アイにとっては、整形は、亡命と同義的な決意であったろう。スパイの妻は失敗した。アイは、成功した。それは前者が、あくまで、国を代える他人本位な決意なのに対し、後者は、自分の身体を変えていこうという決意であるからだ。マスクをして、自分に変革を迫る他者を排除しようとするのではなく、それを受け入れざるを得ないのっぴきならない場所で、自分の体ごと変えることができたものだけが、新たなる他者、次なる世界を作っていける。最先端のテクノロジーと、(大阪)庶民の取り残されたような市井の雑居性が同居している。男たちの賢しらな都構想は、一昨日、敗れ去った。テレワークなど実践されようがない日常であっても、自らの身体を変革しえた、遅れ抑圧されたものたちこそが、次なる世紀を作っていくのだ、社会を受け継いでいくのだ――宮崎氏の洞察のなかには、そんなメッセージがたくされているように、私にはうかがえた。
しかしこのコロナ禍、女性の自殺率の急激な増加が統計されている。宮崎監督の、ある意味古典的な、柳田国男のいう「妹の力」のようなもの、ラカン的にいうならば、「全てではない」me too的な連結の力、女たちのネット社会は、はたして、どこまでその潜勢力を保持しうるのだろうか? リアルの根底もが、ゆらぎはじめているのであろうか?
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