2020年11月22日日曜日

よる


 知らない道ではなく、ときおりは通ってきた駅前の商店街ではあるのだが、いざ近所に越してきょろきょろしてみると、はじめて気にとめるような風景や店の並びであるように感ぜられる。めっきり早くなった夜の暗がりばかりにそう映るだけともいえないようだし、いつもは自転車でだったが、いまはゆっくりと歩いてみているからという、その速度の違いともおもわれなかった。やはり、通りすがりの者と、そこに身を落ち着けて暮らし始めた者との、心の有り様の違いが、眼にうつる世界を変えてしまっているのではないかという気がしてくる。行きずりの者にあっては風景でよかったものが、暮らす者にとっては、より具体的な知識である必要があった。ここに、花屋があり、煎餅屋があり、寿司屋があり、バーがあり焼きトンを食わせる飲み屋がある。いまは夕食のために家からでてきたのであるから、食い物をだす店へと目がさぐっていくが、そのうち、違う用で通り過ぎるたびに、違う目的でうろつくたびに、果ては用も目的もなくただぶらぶらさまようはめになってさえも、風景はより必要な情報となり知識となって、眼というよりは脳内を走り回った抽象物となっていくのだろう。しかし、そんなにも、ここに居ついているつもりはなかった。すくなくとも、私にとっては。
 心臓の手術をおえ、血液の硬化をふせぐ薬剤効用の切れるひと月後、今度は盲腸の手術をする手はずになっていた女房は、持病のほうの潰瘍性大腸炎の悪化にともない、その悪性の液腫の可能性もあるという虫垂の切除が11月にまで延期されると、その期間中にと、引っ越しを断行したのだった。ちょうど住んでいた団地の物件を紹介した不動産屋から暑中見舞いのはがきが届いて、手数料が半額になるとも印字されていた。それをもって不動産屋を訪れた女房は、いきなり息子が通っていた小学校の脇にある崖下の中古物件に目をつけて、この家をどうリフォームしたらいいかを説きはじめたのだった。「ほんとうに、ここがいいのか?」おもいこんだらやめられないような性分の彼女の気を、どうなだめたらいいのだろうと、私は思案した。引っ越しはいいだろう、息子が、食卓下で寝ているのだから。早めに実行するのもいいだろう、来年は、受験をむかえるのかもしれないのだから。しかしいくらなんでも、わざわざ再建築不可物件の、崖上の墓下の、洪水時は水没するかもしれない地帯の物件を、格安だからとわざわざ購入する必要があるのか? おそらく、隣地の空き地は、ここから立ち退いていった家の跡地だろう。残りは、突き当りの2件、ひとつは伸び放題の植木のなかにうずもれた二階家、もうひとつは、だいぶ昔の都営アパートによくみられたスレート屋根の平屋で、住人が外壁や物置のようなものを増築させていた。その2件と空き地と女房が目を付けた二階家で、四角形な澱みを作っていた。まるで、最近ヴェネチアで賞をとった監督の映画にでてきた、猟奇的な殺人犯が暮らす映画の背景設定みたいだな、と私はおもった。その映画の犯人は、一家皆殺しの決行の前提として、そんな四角形な空き地と一体となった家並みにこだわるのだった。いやさらに、4メートル幅にはたっしていない路地道の下は、川がながれているのだという。その暗渠となった道は、近所の火葬場の下をくぐり、関東大震災でのがれてきた下町の地区名をもった商店街を抜け、昭和初期まで江戸染め物をこしらえていた職人たちが集まっていた小川へとつづいていた。私の勤める植木屋も、そんな下町風情があったかつての商店街の一角にあるのだが、その職場の二件隣は、「なめくじ横丁」と無頼派の作家、檀一雄が住んでいた長屋を称して呼んだところだった。川沿いのほうには朝鮮人部落があり、崖下のほうには乞食部落があったと、そんな界隈の住人だったもう一人の作家、林芙美子は書き残していた。私たちが住んでいた団地が、地元の人たちが声をひそめていう「乞食山」にあたるのだ。住める隙間があるならばそこに潜り込んで、地を這うようにして生きる……私自身は、そんな世界でしのいできたことになる。おそらく、崖下のあの平屋の住人も、現場の人間だろう。親方の話では、地区でも一番に狂暴だった「火葬場の連中」はいなくなったそうだから、墓守ではないだろう。女房は、そこにある雰囲気に妖しさを感じてとって、惹きつけられるのかもしれない。しかしそのこと自体が、そんな世界と隣接して生きていくことの無理をあかしている。私にも、なお理解できることではないかもしれないが、三十年もそこで生きていれば、認知できた。
「この一帯は、この間みた映画にそっくりだよね。」私は言ってみた。「更地になった一角に三件が向き合っている。俺の実家も、そうだよね。空き地があって、裏には元軍人の屑屋が掘っ立て小屋を作って住んでいた。」女房は、私の実家と自身が選ぼうとしている敷地が似ているとされる評価が生理的に受付けられなかったのだろう、「ババをつかまされたのかもしれない」と、すんなりその物件をあきらめた。そして次に、高台へとかけあがった。川向うの、大会社の社長やかつての総理の邸宅がつらなる一帯の物件である。官僚たちの居住も多いことを、新宿区の少年サッカークラブの理事会にも参加していた私にはわかっていた。息子と一緒に目を付けた物件を見学にいき、「一億円をこえてたよ」と報告する。結局、高台の方面ではなく、水の流れる方ではあっても水没の危険指定ではない一角の借家にはいることになった。それでも、路地の突き当りであり、入り組んだ住宅地だった。

 博多ラーメンを食べて家にもどると、奥のリビングで、女房がなお夕食をとっているらしかった。スマホ操作で、UberEatsから唐揚げ弁当の二人前を頼んでいた息子はみえなかった。なお空けられていない段ボールの山でうずまったキッチンやダイニングの向こうにあるリビングから、テレビの音声がもれてくる。知り合った金持ちからもらったという大画面のテレビは、息子がリモコン操作で設定をすまし、映るようになっていた。その息子は、二階の自室にいって、団地から運んできたテレビの方をひとりでみているか、スマホをのぞいているのだろう。山間の谷間を蟹の横ばいのように進んでリビングまでいってみると、これまた金持ちの知り合いからもらったという八角形の木目のはいった食卓に、ほとんど食べきれていない弁当が残っていた。テレビでは、再選された都知事が、家庭での料理も小分けにして、座席も正面に対面して食事しないようにと呼びかけている。家具のような椅子に腰かけた女房は、持病の具合はよくなってきているらしかったが、この秋になってからぶりかえしてきたウィルスのため、また偽粘液腫の疑いある手術が来年へと延期されたのだった。頼まれていたパン屋からの食パンと、おいしそうにみえたメロンパンやカレーパンのはいったビニール袋をテーブルに置いた。まだ財布や金のはいった封筒が、どこの段ボール箱にあるのかさがせないので、弁当も、明日の朝食も、息子や私がだしていた。いつになったら、片付くのか、もうこちらに来てから二日たっている。病気で力の持続しない彼女では無理があるのはわかるが、このまま山のなかにうずもれて暮らしていくような気がしてくる。まともに動けないのだから、お任せ便にすればいいのに、と私はおもったが、引っ越しは段ボール箱への詰め込みはこちらでする節約便にしたのだった。家を買うとかいっているのに、なんでそこでケチる必要がでてくるのか、私にはわからないのだが、おかげで、とにかく箱に詰めろ、と言われつづけた。「あんたは引っ越しをしたことないのでしょ。熊本から移ってくるときにはそうしないと、もっていってくれないのよ!」と追い打ちをかけられる。いや駅前の長屋住まいみたいなところから団地へと引っ越すことだってやったではないか、あのときは、草野球仲間の運送屋に頼んだのだった。今回は、パンダマークの一番の大手だ。見積もりに伺うという連絡が一番に早く、電話した数時間後の夕飯時に営業マンがやってきた。仕事をおえての風呂からあがったばかりの私は、熱燗を飲んでいた。近所への引っ越しなので、二トン二台が二往復できる。人員は三名。値段をきくと、それ以上やすくなったら人件費がそうとうたたかれるみたいになるから、つまりはすでに相場通りになるのだから、他の業者からも見積もりをとって根切り交渉をするなんてことはやめて、いま段取りを組んでもらったその安上がりになる値段でいい、即決しようと酒を飲みながら女房にすすめる。妹からは、大手は高い、と助言されていたようだが、いくつもの業者と話すのが億劫になるのだろう女房は、すんなりと私の勧めを受け入れた。
「こんなの、段ボールにはいるのか? 入れる必要があるのか?」自分の書籍は、箱に詰め終わっていた。というか、そもそも大半が押し入れに押し込んでおくために、ミカン箱などに詰めこまれていた。子供のサッカーをみていたころに買っていたサッカー関連の本は、近くのブックオフへと売り払っていた。おそらく、この引っ越しをきっかけに、箱に詰めたのをよいことに、大半が古本として出されるだろう。移動が重くなることに、抵抗を感じた。身軽になりたかった。だから、家を買い、定住をしていくという考えの前提も受け入れがたかった。女房は、なお家を購入することを意欲しつづけている。そこに住まなくなったら、売り払えばいい、という。だから、中古の物件を買って、リフォームをしておくのだと。そんな成長が、これからの若い世代での購買力の反復も、私には信じがたかった。高度成長期やバブルのような時代が、近い将来も安泰だというのか? そう信じたい、というより、自分にはその破綻は降りかからないというバイアス的な希望観測にうさながされているように、私にはみえた。その傾向は、藁をもすがる信仰に似た印象を受ける。だからそれは、あくまで個人的な人生上のきっかけが支えているはずだろう。彼女の場合、それは病であり、死の近さであり、その予測からくるあがきなのかもしれない。だとしたらそれは、家族といっしょに過ごしたい、ということになるのだろうか? テレビでは、アメリカの大統領選からIOC会長来日のニュースにかわっている。女房の隣の椅子で、メロンパンを食べ終えた私は、食卓をたつ。手術入院中に、女房と同じ持病を悪化させて、歴代就任記録を更新した総理は自らやめていった。かわってなりあがったばかりの新首相が、東京オリンピックへの決意だか疫病対策だかのような話をしはじめている。病の進行と処置の延期とともに、どたばたと、時代もが動いている。同期している。それは、どちらのほうへ向けてなのか、死か、生きていくことへなのか……。

 11月も半ばをすぎるというのに、暖かい日がつづいていた。仕事でも半そでになったほどだから、掛布団があつくるしく感じられる。ようやく、公共的な産業労働から解放されて、例年どおりの、年末にむけての庭の手入れになって、心の状態は落ち着いてきているはずなのに、なかなか寝付かれない日もつづいていた。新しい住居に、慣れていないせいがあるのだろう。寝室になっているこの部屋も、段ボールの山だ。駅や線路に近いのに、電車がレールをたたく音などは聞こえてこない。静かだった。実家のある群馬の子供部屋では、1キロは先にある電車や県道を走る自動車の空気を切っていく音が、なまあたたかい風とも金属をこすっておきる波動とも伝わってきて、それが不気味に、とくには増築して二階家になったばかりのまだ小学生のころは、不眠をながびかせるほどだった。古い平屋の家がなつかしく、悲しくなった私は、家の間取り図になにほどかの詩をしたためて、腐りにくい鉄質のお菓子の箱にいれて、押し入れの天袋によじのぼり、その天井の薄べニアをもちあげて、開けた屋根裏の暗さ、むきだした柱や梁が不思議な形をつくった空間のひと隅に、そっと置いてきたのだった。いまでも、それはあるはずだった。もしかして、地震で二階の屋根裏から階下へと転落し、中身がちらばっているのかもしれない。そこには、家への思いだけではなく、私の初恋の人への告白した一文もがまじっているだろう。私は結婚してからの、地元での同窓会で、その人とあった。レストランの会場からトイレへいく途中の、窓枠まえの荷物置き場に、中年になりかけのふたりの女性が座っていた。ひとりは、すぐにわかった。そのわかったほうの女性が、隣の女性を指さして、「誰かわかる?」ときいてきた。「わからない」私の返答は、即座であっただろう。一瞬、わからないといわれた女性は、はっとしたような表情をした。私が彼女を思いでの女の子と一致させることができたのは、数日後であっただろう。
 まだ時刻は八時をすぎたばかりだろう。普段よりは、幾分か床につくのが早いかもしれない。目をつむって、先週まで住んでいた団地の寝室の、天井を脳裡によみがえらせる。白い壁紙。今年にはいって、糊がだめになってきたからか、つなぎ目から剥がれはじめていた。それを、白い養生テープで補強してある。さらに、団地のまえに住んでいた木造アパートの天井。もう、しっかりとは思い出せない。さらには、と、実家の子供部屋の天井。薄暗い真夜中の闇のなかで、板がはめこまれている。最初は、弟と一緒に寝ていた部屋のもの。そして、兄が進学のため上京したあとにはいったほうの勉強部屋。布団から、ベッドになった。そのベッドに仰向けになってみつめていた、板天井の木目。眼のようにみえる。私は、見られていた。地元の進学校にはいってまもなく、私は高校にゆけなくなった。夜、天井をみていた。朝、台所で母が用意する食器の音が子守歌にでもなるように、眠りについた。ある朝、父が、呼びに来た。「どうしたんだ?」その父の瞳は、どこをみているともしれず狂っていた。父は、入院した。いまごろ、私の息子は、この西側の寝室とは向かいの東側にある子供部屋で、何をしているだろう?
 私は目をあけて、枕元のスタンドの灯りをつけて、読みかけの本を手に取る。最近この学者は、ノーベル賞をとった。ブラックホールの研究成果によるという。<私は、一つの状態ともう一つの状態の重ね合わせを、不安定な状態――それは崩壊しかかっている素粒子やウラン原子核などに少し似ている――と見なしたい。素粒子などは崩壊すると別のものになるが、その崩壊と結びついた一定の時間スケールが存在する。状態の重ね合わせが不安定だというのは一つの仮説だが、この不安定性は、私たちが十分に理解していない物理学の存在を暗示しているはずである。>(『心は量子で語れるか』ロジャー・ペンローズ著 ブルーバックス)――量子コンピューターでも利用しようとされている「もつれ」という量子の現実は、「不安定」なのだとみる。ということは、あくまで、この「収束」した私たちの現実が安定している、ということだ。量子的な世界では、生きている猫と死んでいる猫が重ねあわさっているという、多世界解釈を受け入れた方が理論的におさまりやすいと指摘されもする。そう理解されてしまうのは、まだ、私たちが宇宙を知らないからだ、生を知らないからではないか……生まれること、それ自体が量子のもつれの収束であるとしたら、問題となる猫とは、まだ生まれてない猫と、生まれている猫との重ね合わせになるはずだ。死は、ありえない。水も記憶し、金属も記憶形状するように、生まれた私たちは生きていく、まだ生まれていないものたちといっしょに。物質が、変化するだけだ。つまり、生が、変化するだけなのではないか……。弟が、父が終末期にはいったようなので、自分が施設長になった老人ホームへと移動させるとラインをよこしたのは、昨夜だった。母は、納戸となった階下の奥まった寝室で、眠りつづけているだろうか。薄闇のなかで、白黒の眼たちが、山になった段ボール箱から漏れてくる。ぎょろぎょろと、見開いた目を、重ねてくる。いくつも、いくつも……押しつぶされるような圧迫が、睡魔に変わる。



*これは、ブログ上で発表しはじめた小説、仮題『いちにち――他ならぬこの世界で』の一部になる。これまでアップしてきたものは、「桜の木の下で」「あさ」「ひる」「買い物」「散歩」「『世界史の抗争』(時枝兆希著 トランスミッション出版)」「ふろ」「夕飯」、になる。おそらく、第二部になる「ゆめ」となるだろうその後は、ブログ形式では無理なので、とりあえず発表せずに、書き溜めていくことになるだろう。

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