2020年4月13日月曜日

あさ


まぶたをあけて目覚めるまえ、ほんのまえのひと時に、いま自分がおきようとしているとの意識に目覚めるときがある。いやそれもまた、眠りのなかでの意識、夢のつづきかもしれないとしても、その私は、目をあけて目覚めようとすることをやめて、瞑ったまま、まぶたの下の瞳だけをゆっくりとあけようとこころみるのだ。すると、うまくいくと、いまみていたであろう夢の画像が、みるみるとあらくなって、点描のざらついた世界があらわれてみえてくることがある。そしてそれにはふた通りの現れかたがあるようで、ひとつは原色的な輝きを背景にした、それこそまばゆいくらいにかがやいた緑や白光のなかで、なにやら、絵文字のような、単純なパターンをもった黒い線描の模様が、くっきりと浮かびあがってくる。パターンは何種類か、おそらくは数十種類はあるようで、もしかしてそれが、生きものたちがはじめて宇宙に放りだされるようにあらわれたとき、その混乱とうかがえた混沌から逃れるために解釈してみせた原記号で、あとからヒトの形として遣わされた私たちの脳みその奥にも蓄積されていて、結局のところ、私たちがみているものは、すべてこの幾種類かの文字記号に焼きなおされて展開されているのではなかろうか、という考えにたどりついたこともあった。その想念は、眠るまえからの観察によっても、みちびかれてきた。眼をつむったまま、瞳だけをあけてみる。光のさえぎられた暗い景色を背景に、モザイクをした模様がばらついているのがみえてくる。それは、目の焦点のあわせどころによってあちこちに揺れ動いているが、暗闇になれてくれば、赤っぽい紫いろに発光した、点の集まりであることが知れてくる。さらによくみれば、といっても、ここからは注意深い訓練が必要になるのだろうが、その点、ドットのひとつひとつが、幾種類かの形、パターンによって編まれているのがみえてくる。暗闇のこの部分の模様の点は、指紋のようなパターンで描かれた点の集合だし、あちらの模様は、音楽のシャープのような記号で小さな点が描かれてある。ではあすこは、と瞳をこらしてみようとしても、目の焦点をあわせようとすることによってその模様たちは波のように動いてしまうから、とらえどころはない。そうこうしているうちに、意識は遠のき、その暗闇のなかの点描が、その模様の形の組み合わせが、緊張のほどけてきた私の記憶からなんらかのイメージを呼び出してあてはめていくのか、れっきとした絵となり画像となり映像となり、そして連想ゲームのように連なり動きはじめ、おそらく、夢の物語へとはいっていかせるのだろう。子供のころから不眠症のある私には、それが眠りにつかせるための、羊を数えていった昔の言い伝えの代わりであった。

今朝は、いや、まだそんな時刻なのかどうかはわかってはいないのだが、その眠りにつくまえのなりゆきの逆の現れかただったようだ。これから目をあけておきると気づいたとき、目をあける反射をかろうじてとめて、ゆっくりと、瞳だけを開いてみる。夢が崩れて、粗く沈んでいき、モノクロの光景があらわれる。その変化をゆっくりとすすめることがうまくいったからか、残像として、さっきまで見ていた夢が、おそらく切りたった山並みの映像が最後だったのだろうと意識されてくる。私はもういちどその画像を確認しようと、脳の緊張のネジを静かにゆるめなおして、点描をなめらかな絵画へともどしてみる。どこの山だろう、なんでこの山をみたのだろう……何度か、ネジの緩み締めのような作業を繰り返しているうちに、意識がはっきりしてきたからか、眠るまえのあの暗闇の中のモザイク模様の世界からでられなくなった。私はあきらめて、観察してみることをやめて、目をあけることにした。しかしすぐにではなく、右目からあけるのか、左目からあけるのか、と自身の癖をつきとめてみようという思わくがおきて、さて、どっちだ、と身構えてみる。それはさらに意識をはっきりとさせてきたので、もう無理だろう、意識せずには目を開けられなくなったのだからと、ふっと目を開いてみたのだった。右だ、と私はおもう。白い光がすっとはいる。もう一度、目をつむってみる。ほんとうは左からか、と目尻の筋肉加減を感じながら、そう思う。同時かなあ、と目を、ゆっくりとぱちくりさせる。飛び込んでくる白い光になれてくる。早朝なのだろう。いつもの時間だ。目覚ましが鳴らなくとも、その10分ほどまえとかに、しぜん体が目覚めるようになっていた。左横向きで寝ているのだから、左目はつぶれるように体重がよぶんかかっているから、右目が開いたのか、とぼんやりカーテンの向こうの白い世界を眺めながらじっとしていた。目覚まし時計がなる。すぐに切る。五分後には、スマホの目覚まし機能が作動することになっている。ここ数年はないのだが、すぐに起きると眩暈があったためと、腰痛ですぐには起きあがれないこともあったため、それらの予防にと、布団の中で正座のように膝を折りたたんで、イスラム教徒が祈るときの姿勢のように上体を折って両腕をのばして、しばらくしている。アラームがなる。人差し指を画面うえでスライドさせて切る。起きあがる。

さて、目を瞑った世界の現象を観察していた意識がなお夢のつづきであるのならば、果たして、いま起きてみた私の意識は、いや私という意識になるだろうそれならば、私はなお、夢をみているのか? 窓の外の光景は、白いままだ。晴れていないからだ。天気ならば、青い空の輝きが飛び込んでくる。昨日の予報どおり、今日は雨なのだろう。濡れたアスファルトの水をはじく自動車のタイヤ音が、部屋を閉めきったままの団地の六階にまでひろがってくる。雨の日は、鳥の鳴き声はきこえない。都心部に近いこの地域なのに、近所には、にわとりをたくさん飼っている家がある。日の出のだいぶ前から甲高く鳴きはじめるのだが、苦情で騒がれたとはきかない。そのにわとりも静かだったから、私も静かに夢の世界を観察できたのかもしれない。

台所にいって、まずはコーヒーの用意をする。沸かし器からはずした水入れの容器に、水道の水をいれる。蛍光灯のスイッチはつけてないが、うす暗やみの中でも、メモリをたしかめずに、蛇口のひねり加減で二杯分ぴったりの量にあわせることができる。私と、女房のぶんだ。同じ部屋に寝ていた妻は、私がトイレをすませ朝食の準備ができはじめるころか、もう少しおそくなってから起きてくるのが常だったが、雨予報だった今日は、弁当をつくる必要もないから、あと二時間は寝ていられるだろうかと、すでに私の気配をうかがっているはずだ。作業着に着替えにまた寝室にもどってくるか、着の身着のままでトーストを食べ、朝刊を読み始めるのか、と。ほぼ昼と夜とが逆転していた。高校へ入学した息子に勉強をさせるために、夜半まで取っ組み合いがつづけられるのだ。ぐったりしたように、二人は眠る。息子は、台所のあるリビングつづきの隣部屋の奥に、布団をひいて寝ている。私が天井に垂木を張ってカーテンを取り付けたが、飯を食いテレビをみ読書する居間の窓際の隅、自分の勉強机や本棚に囲われた下で、芋虫のようにまるまっているだろう。食パンに乳化剤をつかっていない硬いマーガリンをぬって、トースターにいれる。軽いラジオ体操をする。トイレからでてくるころには、コーヒーも、トーストもできあがっている。無駄がない動きになるのは、植木屋で鍛えられた職人の合理性ゆえか。

新聞をとってきて居間につづくカーテンをあけると、すぐ脇にある水槽のなかで、金魚が飛び跳ねる。四ひき飼っている。お祭りの金魚すくいでとってこれるような小さなものは、すぐに死んでしまってかわいそうなので、生きのこった一匹と同じにしたので、鮒のようなものばかりだ。魚が泳いでいる、と勇ましい風景になるが、むしろ違和感がなくなってくると、面白くなる。息子が小学生の低学年まで何度か飼ってみた、インコをおもいだす。赤ちゃんから飼育して手乗りにし、放し飼いにしていた。だから、人の動きとはちがう、斜めの動き、斜めの線が部屋の中を横切り、描かれるのだ。水槽の中とはいえ、活発に動き回る魚も、こちらの感性を異化してくれるような、新鮮な線を部屋の隅に描きだす。餌をくれと、水槽の角の水面にみなで顔をあわせ口を突き出しているが、ばらまかれた餌をついばみおわると、底に敷かれたジャリ石や、水槽のガラス面にでもできたコケでも食べてお口直しをするのか、その間、仲間とじゃれあうように、お互いが邪魔をし合い、鬼ごっこでもするように遊びはじめる。その急な、素早い動きは、鳥も魚も獣であることをたしかめさせるが、それゆえにこそヒトを懐かしくさせる、人懐こくさせる共感が、私のほうにこそ芽生えるのだ。異質を意識させるものへの感動が、ヒトである私をして近づかせる。

トーストをのせていたからの皿を流しへ運ぶと、食卓に残したコーヒーカップだけを手に、スマホを確認してみる。パリのニコルから、メールがとどいていた。

Bonjour Masaki san,

Genki desu ka? kazoku mo genki desho ka?  Ima kodomo wa gakko yasumi na su...

Coronavirus, Nihon de sonna ni taihen ja nai, France no yori, Fransu jin shimpai takusan shinimashita. Ima wa minna dôfù shimashita....

Watashi wa soto ika nai, itsumo uchi imasu.

Kiotsukete....Dewa mata ne.

Ima Tokyo yuki kire hana iisho. Watashi no nihon go hen! comenasai!

 三月の終わりころ、桜が咲いてしばらくたった東京に、雪がふったのだった。その雪と桜のいっしょになった光景を、スマホの写真でとって、フェイスブックに投稿していた。リマからマリオが、しばらくまえまでニューヨークへ家族旅行しておそらく仕事場のある六本木に帰ってきているはずのナポが、いいね!ボタンをクリックしてくれていた。ニコルの娘のナタリも、返信していたかもしれない。そのナタリは最近、フェイスブックを通して、世界のひとびとが一緒になって瞑想をして祈れば、この危機は乗り越えられると訴えていた。タロットカードのようなものをひきだしながら、おそらく家にこもりきりでいる友人たちに、気晴らしのひと時を過ごしてもらえたらと。

 食卓のむこうで、息子が寝返りをうつ。いびきがきこえる。すきま風が、音をたてる。車の走りすぎる音が伝わる。金魚がはねる。私は新聞から目をはなして、窓の外をみる。物干しの向こうに、白い雨模様の空がひかる。家々が、かすんでいる。ビルの連なりが、曇り空に重なっている。

 目を瞑れば、またあの暗闇のなかで、紫いろの斑世界が広がるだろう。光がロドプシンという色素にあたると、そこに組み合わさっている膜タンパク質をふくんだレチナールが反応し、その形が変化し、紫から黄いろへと変色する化学反応がおきる。目を閉じて暗闇にもどれば、またもとの紫いろにもどる。私が見ているものは、細胞の発光ということなのかもしれない。その細胞の能力は、菌類や藻類にもあるそうだ。私は、他の生きものたちといっしょに、光合成をしているということなのだろうか。新聞を読むという私の行為の本当は、原文字をなぞるというそういうことなのか。

 コーヒーを口にしている私は、もはや目をつむらない。まばたきをするだけだ。この目を閉じて開いた瞬間、私が夢の世界から本当の世界へと行き来しているのかどうか、私は知らない。新聞のページをめくる音は、人の暮らす静寂を増していくばかりだ。息子がまた、寝返りをうった。金魚が、はねた。

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