2020年4月26日日曜日

買い物




『かりにそうだとしても、ちよにやちよに、むしたコケにもぐりこんで、生きのびていくっていうじゃないか、チェっ!』島原は、にぶい咳をした。あげた手はまた、コートのポケットに突っ込んで、下を向いて、歩いていく。信号待ちの人混みがばらければ、ひらいた傘の間隔はひろがり、まばらになった。『カンブリア紀から生きてるってからな。クマムシみたくすがた隠して、陰であやつりつづけようってか。けなげなもんだな、ウィルスといっしょに消毒しちまえばいいじゃないか。微生物も無生物も、細菌も、芋虫も!』ぺっとまた、まえに広くなったすき間をうめでもするように、勢いよくツバを吐いた。『そういえば、』と、また頭に渦巻く考えをすすめた。『さっきもニュースで大統領が言ってたってな。(アパートを出る前までみていたテレビのことを思いだした。)感染者に消毒を注射してしまえってな。(それからふと、子供のころの、青い空を思いだした。林に囲まれた瓦屋根の向こうの、青い空。少し、薄雲のまとまりがあるかもしれない。そこに、ヘリコプターの音が聞こえてくる。低空で飛んでくるそのばたばたというエンジン音は、先に流されていたであろう、「外に出ないでください」というアナウンスのこだまも呼びおこしてきた。ヘリコプターが屋根すれすれに走りすぎると、白い霧のようなかたまりが上空で発生し、花火のように消えた。爆音が、史郎の住む家の真上でおきたときには、少し音が遠ざかったあとで、ばらばらという雨音が屋根をたたいた。)ああやって、ばらまいちまえばいいじゃないか! アメリカ毛虫を殺したみたく、どうしてまたやらないんだ? スペインじゃやってるって話しだぜ。爆弾みたく、アメリカシロヒトリを、いやヒロヒトリを、ヒトリヒトリを、あいつもこいつも、みんないっぺんに、殺菌しちまえばいいじゃないか!』

 島原史郎は、歩くのもままならなくなった妻にたのまれて、買い物へと外にだされたのだ。4月にはいってから、妻は咳き込みはじめた。熱はないので、近所のかかりつけの医院にみてもらった。レントゲンでは、肺炎をおもわせる影はないが、心臓が肥大していて、肺を圧迫し、そのために呼吸が苦しくなるのだろうという。詳しい検査はしたほうがいいが、症状が激しくないのならば、いまは病院にはいかないほうがいいという。
 そのうち、史郎にも咳の症状がでてきた。『けっ、おれにもとりつきはじめたってわけか、イボイボの王冠が? めいよなことさ、にわかキングだとしても、分身の術で繁殖していくクマムシ・テンノウだとしても! コケのむすまで培養してやるさ、さあやってきやがれ、子どもたちよ、王子さまよ!』そして足を止めると、大きく腕を伸ばして、深呼吸のように、息を吸い込んだ。細かい雨粒が、鼻の穴の下をくすぐった。ごぼっ、と、また咳こんだ。『まあ70日もすれば、かってに自滅していくって話もあるけどな。感染した一億総赤子たちも、しょせんは人為の即席ザーメン、お湯いれ3分いっちょあがりで、自慰みてえなもんで想像妊娠したんだろう。それとも自家受粉の近親相姦か? いやミツバチってのは、同じ花の蜜はすわないし、花のほうだってあたしゃもう犯されましたって、色かえて知らせてやるってじゃないか。草に木をついだボタンかい? 地べたにはいつくばって生きる雑草に寄生して、汁吸ってのさばって冠を咲かせて70日、またかえります、あなたのもとへ、草むすかばねとなりはてて、シャクにさわるかシャクヤクさん、いいきなもんだね海ゆかば、山ゆかば、ウサギおいしいふるさとにホバリングするオスプレイ、ばたばたばた、自然にかえる、おのずからかえる、死んでもあなたについていくってか!』

 島原はまた足を止めて、空をみあげた。スロットマシンのような灰色のビルが、灰色の曇り空ととけあっているが、雲に切れ間ができて、うす日がにじみだしていた。この役所のある駅前は、再開発がすすんで、名前の知れた私立大学のキャンパスなどが誘致されてきた。斜めにスライスされてあるような、この地区のランドマークとなったビルも、新しく建て替えが決まっている。投資の対象になっているだけではないかといわれる、タワーマンションもできあがった。通り抜けてきたかつては路地のような道も、きれいに拡張ずみだ。そのあたらしくなった大通りの西側には、戦時中、スパイを養成していた警察学校があった。跡地には病院ができて、残った敷地は区民の災害避難所のために、ひらけたままにした公園とするか、開発するか、という議論がある。その開発途中の広場を右手に抜ければ、駅へと向かう直線の幹線道路となって、雑居ビルに入る店の幟や看板の彩りのにぎわいが目にとびこんでくる。駅からは、猥雑な臭いもする大通りを逃げるようにまたいだ、歩道橋がかけられた。まばらだった人は、駅や繁華街のビルの隙間にすいこまれるように集まってきて、重なる。雨にぬれた桜並木は黒くひかって、さしてきた日の光は、ではじめた緑の葉を輝かせた。『ちきしょう、マスクマンどもめ…』島原は、人混みのなかへとはいっていった。『ひかえひかえひかえ! コロナマンの登場だぞ、そんな使い捨てだの手作りだので、おれのばらまくバイキンをふせげるとおもうのか? この菌タマが目にはいらぬのか!(肩を切って、歩きはじめる。)へっ、いい子いい子しててえやつらはしてりゃあいい。おとなしく、ひきこもってろ、マスクの繭のなかでまどろんで、いつまでもサナギマンでいればいい。みにくい蛾となったおれはコロナ鱗粉を世界に羽ばたかせて、ばたばた、ばたばた、太陽までのぼりつめる。地球では日食がおきる。モスラの影がドクロマークのように大地にきざまれる。黒点が、最大になる。コロナが最大規模で舞い上がり、最大の太陽風が地上にふりそそぐ。すべての生き物たちが、最大の光の風に感謝する。あまてらすおおみ神になったおれは、みなから、すべてから祝福されもとめられる命の源、菌タマになったのだ。アーメン、ザーメン、もっとふれぇ……え~い、やんじまったのか?』天気雨となったのか、細い針のような流れが頬をさした。火照った顔に、気持ちよいすがすがしさがはしった。がすぐに、それは寒気にかわった。ごぼっ、ごぼっ、と島原は咳きこんだ。アーケード通りの入り口にあるカステラ屋に並んでいた客が、あとずさりした。『けっ、そりゃてめえらにはむりだろうよ、ひきこもりの訓練うけてるわけじゃねえしな!(島原はコートの袖で、口をぬぐった。)サナギにもなれないで、よちよち、でてきたってわけか。パパママボクの3人で休暇養成してたって、虐待DVなんでもござれにしかならんしな、いい気味なもんだ、なにが核家族だ、核爆弾だ、角さん助さんだ、見ろ肛門の門どころ、そこにナニがある? 見てみろってんだ、なんにもねえじゃねえか!』駅から街のほうへと出てくる人はちらほらだった。またまばらになった歩道の赤っぽい敷石の上に、ぺっとツバをとばした。『地下鉄にサリンばらまいた連中は理科系だったからな、だからなんもねえご託にはまっちまったんだろう。ウサギ小屋からいっぽでればジャパン・アズ・ナンバーワン。わんわん、犬みてえに吠えてたしな、うるさくってしょうがねえ。世界を瞑想の冥途につれてってやるからヘッドギアつけろって、無からの創造か? しょせん、ガスじゃ拡散しても感染しねえしな、無謀だったんだよ。必要なのは、サティアンじゃない。工場じゃない。培養人間だ。自然栽培だ。高利貸しみたくどんどん増やして、指数関数的な増加だ、利子だけでも支援します、吸ったぶんだけ吐き出してください、もっと、もっと、もっとまき散らすんだ!(ちっと舌打ちをして、突き当りを左に折れた。)ない袖はもうふれねえからな。ジャパン・アズ・ナンバーゼロ。振り出しにもどる。いやマイナスにふくれあがった借金にまみれて、身ぐるみもはがされて、文無しの文盲が文句も言えずに門前払いされていく、出し抜け政府から、世界政府とやらから、おまえがだ、おまえもだ、おまえも、おまえも、おもえも!(すぐにまた右手に折れると、ちょっとした人だかりにあたった。妻からいわれたスーパーは、すぐ目のまえだった。)……おれは、金をもって、買い物にきたんだっけか……』

 島原史郎は、コートに突っ込んでいた左手をだした。その手には、妻からわたされた買い物のメモ用紙がある。とうふ、なっとう、もち、ヨーグルト、料理酒、トマト……右手の方も、コートからだした。無造作に折りたたんでいた布製のバックがひろがった。犬のようなウサギのような2匹がシーソーで遊んでいる白地の絵が、茶色の下地に描かれている。フランス語で、なにやら書かれていた。それを手さげて、店のなかへとはいっていった。まえの客が、自動ドアをくぐったすぐ右側のテーブルに置かれた消毒液をつけて、手をぬぐった。島原はいっしゅんためらうように体の動きをとめたが、後ろからはいってきた客の気配におされるように、消毒液のはいったボトルの頭を押して、手提げ袋を手首にまでずらして、ぬるっとした液体を片方の手のひらで受けた。両手をあわせ、ぶきようにこすってなでまわす。開いたままの自動ドアをくぐると、右側にエスカレーターが、左側にはパン屋があるのだと気づいた。くねったような通路が、商品の積みおかれたにぎやかさのうちへつづいていく。手提げをもっていたほうの腕を、肘を曲げたまままわしてみた。肩が痛んで、よくまわらなかった。「五十肩じゃねえよな……」気おくれするようにそうつぶやきかけたところで、咳がのどのところまでせりあがってきた。曲げた肘をそのまま口にもっていくと、ごぼっ、ごぼっとこぼれた。熱があるようだった。そのまま通路をまがって、棚が列をなして並んでいる店の奥へと向かう。何が、どこにあるのか、わからない。商品棚にうずもれるようにして、何度もおなじところをさ迷う。時間だけが、すぎていった。……

 ようやく買い物をおえた島原は、駅前の通りにもどることはせず、店の前からつづく路地道の中にはいっていった。居酒屋や小さなレストランが、ひと一人が肩をこすりあわせてすれちがえるほどの道幅を、占領している。そこを抜けると、アーケードの中側の商店街にでる。小綺麗に展示された商品の華やかさをすり抜けてよぎり、すぐにまた路地にはいった。普段よりは人通りは少ないとはいえ、人工的な輝きの中からビル間にもれてくる日の光だけの世界にでると、薄暗く、さびれた雰囲気の中に取り残されたような感じになる。がその音の消えたトンネルのような隙間の向こうには、明るい透明な日光が注いでいる。そこは来たときに通った大通りで、燦然と輝きはじめた日の光をさえぎるように桜が枝葉をひろげていて、その下、信号待ちをする人混みができていた。一番後ろについて、横断してからまた信号をまつ。品物をいれた手提げ袋はおもたかった。肩の方へかけなおした。このままアパートへ帰って休みたかったが、大通り沿いにある本屋へ立ち寄ることにする。広い自動ドアをくぐると、四角い柱を囲むように、新刊本がうず高く山積みされている。親子連れが多いような気がした。絵本のコーナーに集まっていくようだった。新刊の棚をぐるっとまわったあとで、入り口の方へもどってエスカレーターにのった。2階には、分野にわかれて、専門的な書籍が集められている。何年か前にこの本屋はあたらしくなって、棚に置かれる本の種類が広がったような気がする。人文系の本棚のまえに、島原は立った。見覚えのある著者の名前が目に飛び込んできた。平積みにされたその白い本は、『世界史の抗争』と題されていた。

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