2020年5月4日月曜日

散歩




 杖をもって玄関をでると、すぐ左の、開かれたままの非常扉をくぐって、階段の踊り場へと出る。青空のもと、ましたには中学校のグランドがひろがり、その向こう、校庭の上段になるように、地元ではバッケと呼んでいる野球場の高いフェンスと、人口芝のグリーンの輝きが目についてくる。11階ある団地の6階に住んでいるので、ビル並みの向こうには、低い山々が地平線をひいているのも見えるはずだが、夏に近づいた空はそこまでは霞んでいて、いまはうかがえない。義理の父からゆずりうけた、こげ茶色の細身の杖のとっ手を、胸ほどの高さのコンクリート壁の天端にかけると、ルーティンとなっているラジオ体操をはじめた。西側のビルの群れと、北側のビルの群れの間は、バッケ野球場からせりあがる小高い山が視界をさえぎっていて、少し深い森のような中に、大学のキャンパスがエンジ色の建物を頂上にのぞかせていて、ガラス張りのようなファサードの曲面が、南よりそそぐ日の光を反射している。

 数年ぶりでぶり返した腰痛のため、体操はぎこちないものとなる。子供のころおぼえたラジオ体操のさわりの部分、手足をぶらぶらさせたあとは、階段にあげた片足のかかとをのせて、バレリーナが手すりをもちいてするようなストレッチをする。スクワット、片足立ち、といった、軽く筋肉を維持するようなトレーニングも加えているが、そのさいは杖をとり、地に立つ足を三本にして、ゆっくりとおこなった。また杖をもどして、ピッチャー・モーションと、バット・スイングの動きを、太極拳のように、静かに呼吸をととのえながらくりかえす。最後はかるくジャンプして、腰を落ち着かせようとするが、恐怖心がたって、両足は浮かなかった。症状は、ぎっくり腰と同じだったが、ぴきっという、腰のかなめが切れたような音のする感覚はなかった。少し張っていて、かがむさいにはなにか筋肉がひっかかる感じはあったが、発症するまえの祭日には、子どもとキャッチボールまでできていた。それが次の次の日の仕事のときに、急に腰がぬけるような、体の言うことをきかせる神経回路がオフになって力がつたわらず、どう動かしていいかもわからない混乱とともに、腰回りの筋肉が強烈な緊張ではりはじめ、あああ~と間の抜けたような痛みにうなされ叫びをあげることになったのだった。緊張の波が消えると、ふつうに歩け、どこが悪いかわからないぐらいなのだが、気を抜いて腰をまるめたり、しゃがんだりするさいに、そのマイナスの痛みというか、ブラックホールに吸い込まれていくようなとたとえたくなる激痛の波動がおそってくる。腰によいと見聞きした体操や、相撲の四股や壁を突くような押す動作が、腰痛をむしろ緩和していくと気づいたりしたから、日々そんな訓練をくりかえして数年、なんとか腰のぴきっときれる傷みはまぬかれるようになったのだとおもっていた。が、ここ1週間以上つづいた草むしりやグランドカバーの手入れで、腰の張りは極度にたっしていたのだろう。意識的には感ずけなくとも、体は言うことをきいているわけではない。いや、その意識に、迷いが生じていたのも確かだった。マッサージにいく回数を、濃密接触とやらになるのかもと、一度へらしていたからである。が、こうなってしまうと、もうウィルスへの恐怖どころではなかった。

 階段をおりると、ピロティへつづく1階の廊下を抜け、駐輪場にもなっているその広場から表どおりへと出た。今度おおきな地震がおきたら、この柱かずの少ないピロティのところから崩れおちるだろうか? 東日本大震災のときは、そのふた月まえほど、木から落ちたが命拾いして、松葉杖をついて部屋で休んでいた。車いすからは解放されたひと月あとくらいだったろうか、6階の部屋は、かなりゆれた。タンスや冷蔵庫などにつっかえ棒や、机などもベルトでとめてあったため、家具がたおれるということはなかった。地震のあと、建物内をみてまわった。そのときは異常はなかったと記憶するが、数日後の大きな余震で、玄関門口などの弱い部分に、亀裂が走ったのに気づいた。1階のピロティのひらけた空間方向へと、いくつかの階の柱から壁につたわった、稲妻のようなひび割れが目についた。災害認定されて、家具などの破損には、保険が適用できる措置がとられた。もう建造されてから60年近くがたつだろう、当時としてはハイカラな形をした、この区域でも一番最初の団地だった。老舗の、ゼネコンが請け負っている。南から北へとのびた1号棟は、日の光を各部屋に少しでもあてられるよう、斜めの段々に後退していくような、変わった雁列構造をしていた。それが、モダンな印象をあたえた。よそ目には、羨望の物件だった。しかし、地元の人にとっては、それでも入居がためらわれるような土地柄らしかった。1号棟と、その丘の下にある南に面した2号棟との間にある崖は、かつて防空壕がほられ、戦争がおわったあとにも、家をなくした人たちがそこで暮らしていたという。崖上は墓地で、その先には、皇室を荼毘するに指定されているという火葬場があった。私よりけっこう若い世代にも、その幼児のころの記憶があるらしい。乞食山と、地元の人はささやいていた。だから、地元の野球仲間の不動産屋は、私にこの物件は紹介しなかった。妻の気に入るアパートがみつからなかったので、駅前の、テレビコマーシャルもだしている不動産屋にかえて、みつけてもらったものだった。管理は、もと公団だった。

 川のほうへくだっていく表通りをおりていく。この小高い丘とその崖下にたつ団地は、しかし戦争あとになってから、そうささやかれはじめたわけではなかった。この江戸時代にはあった通りは、職場の植木屋のほうへくだっていくと、関東大震災で下町から避難してきた人たちの町名をつけた商店街通りにでるが、かつてその近辺に住んでいた、作家の林芙美子が、散歩道として描写している。その戦前の作品では、乞食部落として記述されている。商店街にでる手前には、朝鮮人の集落があったこともしるされているが、その部落も、団地が建てられる頃まで残っていたようだ。

 私は、その林芙美子が自宅のほうへとおりていった散歩道ではなく、彼女が行って来たほうへと足をむけてゆく。結局は、彼女がとおった、団地下にあるこの地域の神社から、西武線で一駅むこうにあたる、駅の名前にもなっている薬師如来を本尊とした寺のあたりへといくのだが、より遠回りに、川沿いをあるき、明治期に、哲学世界を視覚化してみせたという公園を傍目にみていくコースをとる。川沿いの児童公園では、人があふれている。緊急事態のひと月あまりの延期が明日にも表明されるといわれていた。自宅にこもるよう要請されていても、そこまで従ってみせる実感はないだろう。マスクは子供もふくめ、みなつけている。ジョキングをする人たちも、多くなったままだ。日中は、そうとう暑くなってきている。いつまでマスクをしていられるのだろう。私は、胸ポケットにいれたままだった。哲学堂わきの遊歩道では、春先に咲くツツジらにかわって、サツキの赤いつぼみがひらきはじめた。日光浴にでてきているような人たちにまじって、私も杖をついて、世界の偉人たちを象った黒い彫像をすぎてゆく。

 都心を縦断する総武線の、拠点にもなっている駅へ向かう大通りへでると、しゃれた店などに出会わすが、ときおり、扉を閉めきっているままなような店のまえをとおりすぎる。このさまは、線路をこえ、解体のはじまった小学校のわきをとおり、寺と神社に覆いかぶさる木々のあいだをぬけて、駅に近づいてゆくと、なお増えていくだろう。薄手の長袖のシャツでも、もう2kmぐらいはあるいているだろうから、汗がにじみでてくる。古木といってもいい大きな桜並木が、日をさえぎってくれてはいるが、湿度がでてきているのか、じっとりとくる。風はあった。背後からこちらを勢いよく追い抜いてゆくとき、心地よくなる。雲も、多くなっているのかもしれなかったが、頭上をおおう桜の枝葉がさえぎっていて、空はみえない。道路わきの家やマンションも高層なものがおおいため、夕刻にむかうこの昼下がり、商業区域になるだろうこの界隈は、閉ざされ、暗くこもった陰影をおびていた。今朝の新聞では、隣の区の商店街でとんかつ屋を営む50歳過ぎの主人が、焼身自殺をしたのではないか、と報道されていた。リーマンショックでバブルがはじけたとき、その発生の数年後、自殺者の数は急増した。毎年2万人ぐらいが自ら命をたっていたわけだが、それが3万人をこえた。私と一緒に草野球をしていた不動産屋の社長も、まだ幼い子どもを残しながら、車のなかで睡眠薬をのんでなくなった。資本を揚期することを目指した社会運動で知りあった年上の塾講師は、その自殺数増加を、当の運動を創始した著作家の理論をつかってむずかしく解釈したあと、みずから命をたった。今回の騒動で、どれくらいの人が、断念するのだろうか、ウィルスに直接おかされたのでもなく、家からでるなといわれ、そのとおりこもったまま家を燃やして死んでゆく…。

 都心部へむかうもうひとつの大通りとぶつかると、急に開けた感じになる。桜がひとまわり小さくなって、空が広がり、銀色のビルの連なりが日を反射し、人通りの賑わいが、目の前からいっきにやってくる。普段の祭日よりは表にでている人たちは少ないのだろうが、それでも、都会の一角であることをおもわせるに十分だった。この区の役所も、すぐ近くにあった。再開発をうけた区役所側は、道も広くなっていて、街路樹の植木もまだ新しくみえた。ゴールデンウィークがあければ、カレンダーどおり、仕事ははじまる。親方の同級生の西東京市の農家の手入れに、2日かけてうかがうことになっていた。それまでに、腰はふつうに動くようになるだろうか。私の腰がこんなふうになったとき、妻は、近所のかかりつけの医師から電話でよびだされ、心不全を宣告されていた。まえの診察で心電図をとったさい、不整脈は指摘されていたが、何か気にかかるところが医師にあったのか、再確認のためレントゲンをとりたいとの意向だったらしい。都外の産婦人科の庭の手入れをしているとき、とつぜんラインがはいって、妻から知らされたのだった。「で、それがどんな意味で、だからどうするというんだ?」と、ピンとこない私は返信した。昼めし休みのときに、検索してみる。ガンの次におおい死因で、入院になると、余命は長くて5年、末期症状とはこんなものだと書いてあるのだが、すべてが妻の症状にあてはまるようにみえた。ちょうどその2日まえ、ウィルス重症化する前兆としての症状がテレビで繰り返し報道されていて、そのチェック項目がすべてあてはまり、熱のないコロナ患者というのもあるのか、熱があったら医者にもみてもらえない現状なのに、ないのでみてもらうと異常だからたいしたことなければ医者にはいまはいくな、と矛盾した現実の対応がうまく理解できないままでいた。「ママは、だいじょうぶか?」と、学校もなく、部屋でスマホをみてごろごろしているだけのような息子に、ラインをおくった。「心臓がわるいって」とすぐにかえってくる。「心不全、スマホで調べてみろ」とおくりかえす。「うん」、とひとことかえってくる。そのひとことのおわりは、子どもが子どものまま受け止める悲劇の表現のような気がしてきて、落ち着かなくなる。仕事をおえて、東名高速をつかって家にもどると、妻が、食卓の椅子に腰かけていた。息子は、中学時代の友達とともに、隣の区のグランドのある公園までいって、野球をしにいっているという。もらった薬をのんだら、だいぶ楽になったともいう。「睡眠薬か?」ときくと、「心臓の薬」だという。ネット上でヒットしてきた情報と、自宅療養をとらせる対応の落差が腑におちず、医療にかかわる翻訳とうの実務にたずさわっているらしい友人にメールでたずねてみる。いまは心不全とは広い文脈でつかわれており、難病と指定された持病で服用しているペンタサという薬の副作用としても、心不全になるという報告があると、大学病院での症例研究のPDFファイルへのリンクをはったメールを返信してくれた。自分の父親もそういわれて、心臓カテーテル手術を受けたりしたが、今もって77歳で健在だとの私信を添えて。私は少し安心した。妻の両親は長命だったが、親戚には病でたおれた人がいるとその名前を数おおくあげる。妹も、白血病になった。健康をとりもどして、まだ感染がそう騒がれていないあいだ、いまこそ京都は外国人がいなくて静かだからと、旅行にもいっていた。が、流行の深刻度がましてくると、それどころではなかった、私たち普通の者がかかっても、病院はまず看てくれないでほっておかれるからと、自身は住んでいるマンション前の東大病院で治療を受けている者なのだが、4月にはいっての私の会社でもうけた仕事連休を利用しての、昨年、一昨年とたてつづけになくなった彼女たちの母、父、ふたりの墓への埋葬、東京郊外に購入した樹木葬の実施は延期にしようとなったのだった。3月当初、私はもしかして、致死にいたる相当な感染規模になるのでは、とおもっていた。だから、持病もちなのに、ずいぶん呑気なもんだな、とそう意見すると文句を言い返されるから黙っていたが、私の女房も、すでにほとんどの人がとりやめていた千葉の房総へのバス観光グルメツアーに、何かの景品であたったとかいって、ひとり喜び勇んで行ってきたのだった。3月末の、春休みを利用しての、息子と高校友達との大阪旅行は、友人の両親の勧告もあって、とりやめになった。身近なものたちがみせる深刻度は、そこから急激にあがっていった。ゴールデンウィークを利用しての、群馬と千葉の実家の庭の手入れ予定も、近所の目を忖度する私の母や弟、妻の言葉を受けて自粛することになっていた。しかし、理由はさだかにはわからないとはいえ、感染の質じたいは、予想していたほどではないのでないか、と私はおもいはじめていた。挨拶のハグがあるかないかとの文化的差異、BCGの接種のあるなし、アジア人種としての免疫的体験……いろいろ言われていたが、統計的に、欧米社会とは規模もひとまわりちがっているようにおもわれた。むしろ、その社会的対処のほうが、より決定的な深刻さを人々にあたえていくのでは、とおもわれてきた。4月半ばには、その統計上の差異ははっきりしだし、私が信頼しうる知識人たちの発言も、そう傾きかけていた。テレビでみる政治家たちは、いまこそ出番なように、この危機を嬉々として受け止めているような印象をうける。腹を決めて、受け入れるべき犠牲とその根拠を、国民にきちんと説得しうる論理を構築していく意志とは真逆の、流言にのった現状維持策、つまり、何もするなということを、声高にとなえるほど、勇敢な行動家にみえてくるからくり。おそらく、店の自粛要請を無視して工夫し、もらうだけのものをもらって生き延びる決意をもった個人経営者のほうが、この危機をのりこえることができるだろう。真に受けたものは、さきにつぶれていく。そんな光景は、かつての戦場の組織の間で、見受けられていたのではなかったろうか…。

 ビルの谷間の上空を、ジャンボ機がおりてくる。もう、3時をすぎているのだろう。風は強くなってきたが、都心の真上を迂回させるほどのものではないのか。この地区の上、ひくいところは、横田空域といって、アメリカ軍の管理下にあるということだった。だから、その空域の上を、旅客機は眠気を奪うとも誘うともいえそうな、中途半端な爆音をばらまき落としてくる。もうひとつの飛行路が都心よりにもうけられていて、手入れにはいっている寺の上を、便によっては相当ひくい高度でかすめていくのだった。が、3月の試運転ではひっきりなしに通っていた飛行機の数は、ここにきて、どんどん減っていき、いまは、ほんの数便が都会の上空をかすめていくだけだった。その数少なくなった便のひとつがいま、斜めにスライスされたような白いビルの上を通過してゆく。空を裂くエンジン音が、人混みの雑音にまぎれてきえてゆく。マスクをつけた誰も、その金属の塊を気にはしないだろう。

 正岐は、飛行機がすぎていった白いビルの手前まできた。デパートと一緒になった本屋にはいってみる。図書館から本が借りられず、なにか読みたい本があれば、と考えた。エスカレーターをつかって、2階の人文系のコーナーへ行こうとするが、閉鎖さされている。いつもは、そこからみはじめて、ぐるっといろいろな分野をひとめぐりする。仕方ないので、1階の柱のまわりに積まれた、新刊や話題の本が置いてあるコーナーへよる。そのいっかく、日本人の著名な人たちの書籍をあつめた棚の下の段に、平積みされた白っぽい表紙に黒の字でタイトルされた本があった。時枝兆希とあったその著作者の名前には、聞き覚えがあった。手に取って、ページをめくってみる。

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