2020年5月9日土曜日

『世界史の抗争』(時枝兆希著 トランスミッション出版)

はじめに

 みなさんはおそらく、自分が絶望しているのではないか、そう感づいているのではないかとおもいます。それは、もしかして、人類は絶滅してしまうのではないか、という、認めたくない不安からくるかもしれない。そして、もしそれが本当だとして、その原因が、私たち人類自身にあることにも感づいている。だから、もしかりに、人類が十数年後に絶滅してしまうのだとしたら、私たちは、この現在を、どうふるまって過ごしたらいいのか、と問うことは、空想ではなく、私自身の内において、現実性ある切迫した問いかけになることでしょう。もはや、人間どう生きるべきか、という一般的な哲学的な問いは、もうすぐ終わるという確実性をまえにしては、意味を失わないまでも、この状況の最中を生きている私たちの具体性の中では、説得力を弱めてしまう。生きる、ということ自体が、力を奪われてある状況なのだから。だからむしろ、過ごす、という、日常的な終活の仕草が、大切になってくる。そのとき、人は、他の人々ではなく、他ならぬこの私が、どうふるまったらいいのかを、静かな覚悟をもって自省することに直面する。私が、現実的な、あるいは実践的な希望ではなく、絶滅を逃れうるかもしれない理論的な道筋を見いだすのは、そこにおいてです。

 私はかつて、中国の文学から影響を受けた日本の近代作家をとりあげて、絶滅というのはないのだ、終末というのはないのだ、と説いたことがあります。たしかに、人類がなくなっても、地球のキャパシティーはいぜん残るでしょうから、生物の絶滅なんてものはないでしょう。その論理は、人間中心主義的な、あるいは中心(目的)をもった理論という非現実的な思考に対し、多中心という自然史的現実を対置させてみたものでした。しかし、ただ一つの仮の中心にすぎぬとはいえ、こうやって、人類の絶滅が間近にせまってみると、そんな正論が空疎におもえてきます。今から真剣になって、地球環境や生態の回復と保全に努めたとしても、その影響がでるのは、百年後、千年後の話になるのは、スポーツでも、訓練の成果がでるのは三か月後、半年後であるのと同じです。もう、間にあわないのです。ならば、他ならぬこの環境、この地球、この私たち人類のあり様にアクセスできるのは、この私たちの悲惨な現象を通してしかないのか?

 私は、文芸批評家としてデビューしたころ、夏目漱石の言葉として、次のような言葉を引用していました。ひとつの空間を、ふたつの物が占めることはできない、と。これは、差異という哲学的概念のあり方を、端的に表現したものですね。通俗的には、ひとりの女をふたりの男が独占することはできない、だから、どかさなくてはならない、ということで、そうして「心」の僕は実践し、親友を自殺においこんでしまったわけです。哲学的には、これは普遍的な命題のようなものになるでしょう。差異の原理というわけです。では、この原理は、量子論的な世界にもあてはまるのだろうか? 一般理論的に、原子よりもミクロな世界では、物質のふるまいは、この世界の現象とはちがったふるまいをする、と指摘されています。トンネル効果や、量子のもつれ、とか呼ばれる現象が典型的なものですね。物質は、壁をすり抜け、どこにあるかを観測しようとするとそのふるまい自体が物質に影響をあたえてしまい、どこにあるかの位置が計測できない、位置と運動量とを同時に見れるという世界の現象があてはまらない、というわけです。が、本当なのでしょうか? ここでいう本当とは、このマクロな私たちの世界での現象と、ミクロなあの世界での現象に、差異などあるのだろうか、ということです。あるとしたら、その一般理論で指摘されている、そんな現象の差異によって特定できるものなのか、ということです。逆にいえば、たとえばアインシュタインの一般相対性理論で、ニュートン物理学で解いても誤差のほぼないこの私たちにとって通常的な現象を計測することは可能なのですから、原理的には差異はない、ということになるのですか、それは本当なのか、ということです。差異はあるのです、が、そこにではない。

 私がこの著作でやろうとしたことは、私の仕事にとって、新しいものではありません。かつての『探究』で追求した他者論を、最近の論考を加味して、量子論的な世界でも拡張してみせただけです。理論的な転回は、ここにはない。が、私が絶滅を認めたところからはじめているように、態度転換はある。しかしそのこと自体は、新しいことではない、が、そこに、決定的な差異があると、私は提起しているのです。その態度転換こそが、終末を理論的にではなく、実践的に逃れうるかもしれない理論的な道筋だ、というのです。私だけではない、みなさんが、静かな自省を迫られている、その一点において、あの世界への道筋が開かれるのだと。すれば、その世界が、この世界に、量子力学的に干渉する。

 具体例で話しましょう。私たちが日常的に使うようになったスマホでは、半導体で、電子をつかまえているわけですね。電子は、量子論的なふるまいをするので、設計した通りの回路を通過してくれるか、その統御が難しい。どこかへいってしまう。それを、複雑な数式を使って、確率的に、その制御盤に追い込んでいるわけです。だけど、これは、大昔から、マンモスを追いかけていた人類がやっていたことです。獣というのは、一般に生物は、見つけようとすると、見つからないものです。気配を感じて、逃げていってしまうわけです。気配とはなんですか? 波動のことですよ。私たちの祖先は、それを利用した。獣道をしらべ、いくとおりかのパターンを確率的に予測し、落とし穴をつくり、獲物に追い込む私たちの気配を読み込ませながら、そこに追い込んでしとめる。技術のあり方としては、いまの科学者がやっていることとかわらない。しかし、技術を使う態度としてはどうですか? 獲物を捕らえたことは確率論的であり、偶然であり、僥倖であり、ゆえに、狩猟民は感謝する。科学者が、電子をとらえて、感謝してますか? してないでしょう。だから、原子力爆弾を作るまでになるのです。そこにあるのは、似て非なるものであり、それが、差異の現実性ということなのです。

 この間、アメリカの国防総省が、UFOの存在を認めましたね。その意図は、直接的には、現大統領の選挙運動の一環なのでしょう。患者を救うのに、消毒液を注射すればいいとか、アホなことをいうので、UFOを信じているような支持者でもこんな大統領に任せていていいのか、と離反が起き始めたという世論がでてきた。その失い始めた一つの支持層を回復しようと、ネットですでに騒がれていた映像を公的に認めることで、大統領が交代せずにすんだら、何か秘密情報が公開されるかもしれない、と期待させるようしむけているのでしょう。しかし実際はそうだとしても、ではあの物体はなんなのか、という謎は残ります。ユング派の心理学は、それを集団幻想だとみますが、私自身は、かつて、「探究」誌上で、こういった覚えがあります。他の天体に知的生物がいるのは、論理的前提である、と。それがいる、いない、という認識論的な構えにいること自体が、その観測態度が、それを見失わせてしまう、ということです。私たちは、論理的な態度でなくてはならない。それがいる、他者が、知性体がいるということは、命題なのです。だから、なかには宇宙人との戦争を想定してしまう人もでてくるようですが、そんな心配はいりません。気配を感じれば、逃げてしまいますから。沈没船から脱出するネズミのように、観光客のまえには姿をみせないが、自然に作業を営む農家の人々の隣では、平然と餌をついばむトキのように。もしその知性体を他者ではなくエイリアンとして、異者としてみてしまうとき、私たちは、新大陸ででくわした原住民を虐殺してしまったように、それを殺すようになるでしょう。つまり、量子にせよ、宇宙人にせよ、そこに、目新しい事態があるわけではないのです。人類の世界宗教は、すでにその悲劇を取り込んでいる。そしてもう、私たちは、それを繰り返すこともできない。あとは、沈没していくだけです。

 しかし、その沈没は、終末は正確なのだろうか? 私はかつてもいまも、世界宗教を倫理上の例として、よくとりあげてきました。しかし、たとえばノアの箱舟には、動物たちは乗船させてもらえましたが、植物はどうでしたか? あるいは、岩石や、土は、砂は? 水は、食料として蓄えていたかもしれません。つまりあくまで、世界宗教の範疇は、人類史なんですね。人類としての世界史です。しかしいまは、植物にも、知性があることが確認されている。知性というと、脳をもっているかどうかが問われますが、脳がなくても知的活動はできる、というか、脳を破壊されたら動けないような生物では、弱すぎる。そういう点で、植物は強いわけです。どの部分をもぎとられようが、生きていける。もしかして、ノアは、植物のその強さを見越して、わざわざ箱舟にはのせなかった、とは言えるかもしれません。しかし強いのは、植物だけなのでしょうか? 岩石の風化、砂への変化は、知的運動ではないのでしょうか? 彼らは、先を見越して、変身しているのかもしれない。砂粒は、とらえどころがない。電子をとらえた科学者が、獲物を捕らえた狩猟民が感謝するように、この微粒子に感謝することが論理的命題だということは、どういうことなのか?

 私がこの著作で試みたことは、人類としての世界史を、より量子論的に、自然へと拡張された、人類としての世界史に変更してみることでした。自然史ではありません。あくまで、私たちの、人類としての、世界史です。私たちは、他ならぬこの世界、この宇宙に生きている。この世界の法則は、この天体においてのみ通用する。言いかえれば、他の天体でもなく、他なるものたちを論理的に前提としたうえで、この世界の捕捉を変えてみる。ああでもあり、こうでもありえた、可能なる複数の世界を前提に、この人類の世界の軌跡、世界史を変えていく試み。マルクスは、哲学者は世界をさまざまに解釈してきただけだ、重要なのはそれを変えることだ、といいました。私は、それをより正確に、こう言いかえたい。私たちは、さまざまな可能なる世界を解釈するために戦争をしてきたが、重要なのは、その世界史を変えていこうとする解釈に、態度変更を迫ることである、と。つまりは、私が提起しているのは、解釈をめぐる抗争、イデオロギー闘争です。しかしその解釈、イデオロギーは、この世界史の、人類史で争われてきた世界をめぐる解釈の次元ではなく、あの可能なる世界史群へとむけて、自然史的な知的活動として協同しておこなわねばならない、ということです。人類の絶滅をまえに、プロレタリアートという階級的差異は意味がない。その差異へのこだわり自体が、人類としての解釈次元の現象、見かけにとらわれた異者としての、対立にすぎません。差異の原理は、その現実性は、そこにあるのではない。階級闘争ではなく、あの世界史群との、階層抗争にこそある。他なる位相空間へ向けての、闘争の開始なのです。私たちの態度変更が、その世界史群の抗争の戦場へと、量子力学的に干渉させていく。ひとつの空間を、ふたつのものが占めることはできない。干渉が成功したとき、この虐殺の、絶滅の世界史は、この空間から排斥される。私たちは、その闘争の現場に、参加しなくてはならない。そこに、何々があるのかは知りえていませんが、そこにいたる理論的道筋とは、そういうことです。

 これはオカルトなんではないか、とみなさんはおもうかもしれませね。しかしそうおもうとき、みなさんは、私たちが十数年後に絶滅するということを忘れている。つまり、論理的前提を見失って、またエイリアンと暮らす世界史にもどってしまっているのです。しかし、他者はいる。その知性のあり方も、多様である。それを前提にすれば、一挙手一投足がかわってくる。十数年後に終わってしまう世界で、お母さんたちは、子どもたちに受験勉強を尻たたいて教えるでしょうか? 自粛を要請された戒厳令的な世界で、いま、私たちは人見知りするように引きこもり、引っ込み思案になっている。それは、トキや、宇宙人とおなじような生態になった、ということです、世界史の抗争の場へと、私たちが近づいているということなのです。量子も、宇宙人も、トキも、私たちも、人知れないところに出没する。環境条件はそろった。そののっぴきならない世界のなかで、あなたは、どんな歴史を、どんな十年を構想することができますか?

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