2023年3月30日木曜日

昏い眼

 


「接近した台風の影響で天気が崩れ始め、昼近くからついに雨が降り出した。雨が降るという予報が出ていても用意周到に傘を持って外出する人は少ないらしく、ホテルの玄関のタクシー乗り場には、人の列が出来ていた。台風の到来を心待ちにしていたように、人の列ははしゃいでいるように見えた。」(『軽蔑』 中上健次全集11 集英社)

 

中上健次の作品では、いわゆる「路地」出身の主人公は、「昏い眼」をしていると表現される。一見、生命力を歌う作品のように見えながら、その目は生き生きしているのではなく、「昏い」のだ。暗い、のではない。

 

当初、私はこの漢字が読めなかった。たそがれ、とはわかるから、くらい、と読むのだろうな、とは推測できたが、純文学をそれなりに読んできた経験でも、あまり記憶にない表記の仕方に思えた。しかも、では、どんな「眼」だと言うのだろう?

 

スマホ検索してみると、ガンダムや馳星周氏などの作品で「昏い眼(目)」とされる主人公たちが出てくるようだ。おそらく検索にひっかかったwebページは、大衆小説とされてきたものを扱っているのだろう。

 

中上の全集を読み返してみてて、改めてこの「昏い」という表記のことが気にかかった時、ふと、漫画の『進撃の巨人』のなかで、ひとり大陸へと渡って陰謀をくわだてて仲間の下へと救助されて帰還したエレンに、特殊部隊の隊長であるリヴァイが声をかけるシーンが重なってきた。幼少の頃から貧民窟で育ってきたリヴァイは、エレンの「面(ツラ)」のような者をその「地下街」で腐るほど見てきた、おまえもそんな連中と同じようになったのか、と問うたのである。漫画では「面」と文字表記がはいるが、画では、エレンの「眼」がでてくる。リヴァイの言葉にはっとしたエレンの目、一瞬我に返った目も続く。その目の表情の変化の意味や、リヴァイの「…」の文字表記も謎だが、それゆえに、作者がこのシーンに意味深い拘りを持たせていることが知れる。

 

中上の「昏い眼」も、あのエレンのような「面」に見られたものなのではないだろうか? 路地消滅以降の作品では、あまり出てこない表現となる。むしろ、「暗い」、と表記される主人公もでてくる。未完となった『異族』では、「昏い」のは日本の路地出身者だけで(しかも意義ありげには記述されていないとみえる)、在日やアイヌや沖縄、フィリピンの「異族」たちではそう表現されない。

 

 

私が以上のような感想を書きつけておこうと思ったのは、先週だったか、テレビで、ゼレンスキーが前線で戦う兵士たちに勲章を与える様を見て、その兵士たちの「眼」が、みな、とろんとしていて、くらかった、からである。大統領と抱き合う時、女性兵士は笑みをみせたが、それでも、もう、人間感情が失われているようだった。BBCのニュースでも、前線の塹壕を案内する、女性的な表情をした若者の「眼」も、とろんとしていて、くらかったからである。たぶんあれが、「昏い眼」なのだ。

 

その戦場へ、日本の総理大臣が、激励の広島産必勝しゃもじだかを届けたそうだ。国会審議で野党側が「不謹慎」ではないかと疑義を申し立てたが、本当に度し難い仕打ちである。戦争が、甲子園になっている。普通の人間関係なら悪意なのか、と思われるが、おそらく、総理やそれを取り巻く官僚・官邸側は、本当に、善意でやったのだろう。首領同士の握手の新聞見出し写真では、ニコニコする総理の横で、不満げな大統領の顔が映っていた。ちょうど、WBCで、日本がアメリカを破り優勝したシーンが一面記事に並列されていた。大統領は、日本人が闘争的なのか、平和ボケのアホなのか、わけがわからなくなっただろう。(こういう脅しが、負けたとはいえアメリカに戦いを挑んだという歴史事実も含めて、なお効いているのだから、日本人が第三者的な仲介の役割を果たすことはできるのだろうと推測する。)

 

佐藤優は、結果的には無暗に戦争に巻き込まれる実地の一歩にならないですんだ今回の戦場会談を、これですんでよかった、ともらしている。まあそうではあるだろう。が、この日本人の世間知らずのナイーブさが、結局は、絨毯爆撃プラス原爆を落とされるまでにいたったのである。鈴木宗男は、もっと早く降伏をしていたら原爆を落とされずにすんでたくさんの命が救われたのだ、と言うが、それさえ、甘い認識なのかもしれない。なぜなら、おそらく科学実験がしたかったのだろうから。広島と長崎で二種類の違う爆弾が投下されたわけだが、どっちかが失敗していたら、科学実験が成功するまでもう一度、と降伏も受け入れられなかったであろう、と私は思うのである。

 

そんな戦争の焼け跡のなかで、「昏い眼」が育まれていった。そして今も。戦争に賭けて死ぬことが有意義な生なのだと、施政者たちは説くが、兵士たちの「眼」は、決して生き生きとはしていない。

「地獄への道は善意で舗装されている」、とのことわざを思い浮かべる。

2023年3月17日金曜日

ドキュメンタリー観賞――『大洪水の前に』(2)


先週、千葉の生活クラブ関連の映画観賞会で、環境問題にまつわる活動家たちの作品を二つみた。ちょうど前回ブログで、斎藤幸平氏の『大洪水の前に』感想を書いていたので、映画観賞後の意見交換でも、それをふまえた意見を述べることになった。あくまでそれらの映画情報だけからの枠の中での私の意見になるが、前回ブログの応用みたいな感じになるのだろうか。以下は、そのとき述べた意見に、論述になるようブログとして少し付加したもの。

 

まず観賞したのは、

     『THE NEW BREED』。…「貧困や環境破壊などの問題解決のために事業を行う、新時代の社会起業家たちの挑戦を追ったドキュメンタリー。」と紹介記事。

     ELEMENTAL 生命の源 ~自然とともに~』…「今の時代で最も過酷な環境課題に対峙し、解決のために奮闘する、「水のガンジー」と讃えられる活動家ラジェンドラ・シンなど、3人の活動を追ったドキュメンタリー」と紹介記事。

 

①をめぐって――一貫して気になってきたのが、英語のノリだ。Z世代と呼ばれる企業する若者たちのペラペラと感じられる早口なしゃべり。3つの活動(アメリカでのアパレル業を通じたホームレス支援、南米はチリでの要らなくなった魚網をリサイクルしてプラスチック製のスケボや眼鏡フレームなどの製造、アフリカはウガンダでの就労開発としての裁縫教育活動)―が交互に紹介されていくが、挿入される音楽も軽快なノリだ。こちらが日本人だからなのか、途中、スペイン語での漁師との話や、アフリカでのおばさんたちの話し振りには間があって、その挿入にほっとしてくる。ノリがよくても、その波に入っていけず、逆に退屈感はでて、眠くなる(と、他にも寝てしまったという感想があった)。最後に、白いTシャツにWORDS NOT WALLという文字をプリントしたのを着た若者の、資本主義批判の英語でのスピーチが出てきたが、どうみてもヒスパニック系で母国語はスペイン語だろうという発音だったが、それはTシャツの言葉と矛盾するのでは、と思えた。教習を修了したアフリカ女性の中での中心人物の感謝の演説も、通訳がいて聞き手は同郷の女性たちなのに、英語でしゃべっているのにも違和感が。このドキュメンタリーを見ていると、活動内容とは別に、結局は、それをも含んだ大きなサイクルの中で、くるくると回っているだけなのではないか、と思えてきた。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではないが、同じ思考信条の中で、同じリズムの中でくるくる回っているという風になっているのではないかと思えてきた。数学・物理の世界で、三体問題というのがあるが、それはまだ未解決だというのだが、お手玉やジャグリングでは、三体以上の物体の動きを把握している。これは問題を解いている、とは言わないのか? 自分で作った頭の中の問題を解けない解けないと悩んでいるような。空を見上げれば、太陽と月がすぐそこに、あんなに大きく見えている、ジャグリングできそうではないですか? そうやって、古代の人たちは、ニュートンやアインシュタインの物理学の法則のことなど知らないのに、天文のことを知りピラミッドとか作ってきたわけでしょ? だけど、あのペラペラしゃべる英語のノリで、実は自分たちの問題の中で解けない解けないとくるくる回っている感じになっているのが現実なのではないか、と思えてきました。

 

②をめぐって――これも、①の感想の続きみたいになるのですが。まず、この映画の中では、3つのエピソード、活動が紹介されているのですが(インドはガンジス川の汚染を受けてダム工事などを中止させていく人たち、カナダのインディオかエスキモーの娘さんを中心とした油田パイプライン敷設への抗議反対運動、温暖化やスモッグの問題を自然観察による物理応用によって開発したアイデア技術製品によって解決していこうとするベンチャー活動家)、この3つを一緒の活動と見做して一括りにしたこの映画の編集方針・技術という活動も実ははいっていて、つまりは4つの活動の紹介になるのだと思います。そして前者2つの反対活動と、後者2つのテクノロジー的な活動とは、別ものなんではないでしょうか? つまり、心の問題と、テクノロジーや企業による活動というのは、一緒に考えられるのか? 環境問題というと、CO2がどうのとその数値が問題となるが、ガンジス川が汚れているなんて、数値を測らなくても見ればわかりますよね。心が痛むでしょう。数値が下がればいいのだというなら、下がれば、これまでの開発を続けていても大丈夫だという話になる。貝殻の形をもして上空に風を巻き上げれば大気が冷やされたりスモッグが消えていくなんて、結局は人間のいま分かっている範囲でのシミュレーションにすぎません。気象や地球のマントル活動やその内部のことなど、何もわかっていない。自然を模せばいいというなら、新幹線だってカワセミの嘴の形を参考にしているし、原発だって太陽の真似だからいいという話になる。自分の庭の枯れ葉が風で吹き飛ばされてきれいになっても、どこか見えないところで吹き溜まりができていますよね。問題が他所へゆくだけではないのか? この問題でベストセラーとなった斎藤幸平の『人新生の資本論』の前の作品では、「和気あいあい」というマルクスの言葉が引用されているのですが、資本主義の体制やシステムが変わっても、心の問題がそのままなら、生活実感としては変わり映えしないのではないか?

 

※ このブログとして付記すれば、斎藤幸平著『大洪水の前に』の後書きで、ジジェクは、もうそんな「心」、つまり、本源的な自然も破壊されてないのだ、と認識前提したわけだ。シンセサイザーを使ったYMOが出てきたとき、坂本龍一は、たしか村上龍との対談で、もう人間の感性など壊れてなくなっていく、みたいな議論をしていたが、そういう前提認識を思い起こす。が、本当だったのか? 本当の話だと、ジジェクは、遺伝子工学を「ブレークスルー」な技術として認定したわけだ。が、私の量子力学による「観測問題」理解では、「ブレークスルー」などあり得ない、ということを、カントの「物自体」という形而上学的前提としてではなく、物理学的な自然認識として突きつけられてしまったのだ、ということになるのだが。 

また②映画で、カナダやアメリカで環境破壊へのデモ運動を続ける娘さんの母、インディオかエスキモーのお母さんは、以前みたパレスチナ映画での母親のように、こう述べていたのが印象的だった。「若い頃は、何も知らなかったから、過激に反対した。が、白人の方が、私たちより不幸なのだと気づいた。彼らは、生まれ故郷を追い出されてここに来たのだから。」(と、過激な娘に、自分の経験を語って聞かせたのだった。)


2023年3月7日火曜日

『大洪水の前に』(斎藤幸平著 角川ソフィア文庫)を読む


 斎藤幸平氏の『大洪水の前に』(角川ソフィア文庫)を読んだのは数か月前ほどだが、前回ブログで、自身の「洪水」の夢のことが喚起され、また先日、YouTubeでスラヴォイ・ジジェクとノア・ハラリの討論の動画を目にすることになったので、斎藤氏のこの著作に関し、感想をまとめてみようと思っていたことを思い出した。(その角川文庫版では、ジジェクが後書きを寄せていたのである。)

 

斎藤氏の『人新生の「資本論」』(集英社新書)は、すでに私の身につけている既存教養の中に収まるような感じだったので、あまり新鮮味を感じなかったが、本屋でより先に書いていた著作が文庫版になっているのを知って読み、こちらは新鮮な感じがしたのだった。とくには、後書きとして寄せてあったジジェクの、「量子論」を孕んだ「自然」に関する考察が、私の問題意識の一つと重なって、また読み返してみたいと思っていたのである。でYouTubeでのハラリとの討論を聞くこととなった。そこでも、ジジェクは、ハラリや司会者が前提とする「自然」を攻撃していたようにみえたが、英語での番組だったので、正確にはわからなかった。そこで、さっき再読。

 

『大洪水の前に』が「新鮮」と私に感じられたのは、まずマルクスの言葉として、「和気あいあい」という箇所を引用してきたことである。マルクスの認識によれば、資本主義下労働以前の封建制下の主従労働現場の中にそういう「関係」があって、それを「高次な段階として――意識的に――再構築すること」が目指されているのだ、と。この「和気あいあい」は、人間関係というより、「土地」(自然)との「関係」において抽出されてきたものだが、とにかく、そこから、これまでの思想営みの中で考えが甘いとして排斥されてきた「疎外論」の視点が再導入され、そこに、環境問題(エコロジー)的な文脈が接合される。この最初の「和気あいあい」という必要な目的前提があるために、エンゲルスの客観知的な生態史観よりも、マルクスの提示したビジョンの方がいいだろう、という斎藤氏の立場が明確になる。

 

<マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展に基づく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動に従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。>(「第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー」)

 

たしかに、プロレタリア独裁なるものが実現されたとしても、そこに「和気あいあい」な関係がなかったら、生活実感として資本下労働とあまり変わり映えしないものとなろう。

が、ここで私が注記したいのは、まさにマルクスの「芸術」に対する見方である。マルクスは、ギリシア芸術がなぜなお私たちに感銘をあたえるのかを問うて、それは失われて回復しえない私たちの子供時代の感激が生き生きと再現されてくるからではないか、その生き生きしたものを私たちはもう一度意欲してはならないのだろうか、と問うた。

 

柄谷行人氏はここに、キリケゴール的な意味での「反復」を読んだ。そしてそれは一回性であるから、それは構造的に前提はできない、そうすることは「反復」ではなく「想起」にあたると。しかし、岡崎乾二郎氏が、絵画の分析で言うように、二度似たような現象がキャンパスに見られるということは、偶然ではなく作者のなんらかの意図があってそうしているのだとみるべきだと。つまり、そう構造(無意識)を理論仮説していいのだ、と。フロイトの精神分析の文脈でいえば、無意識とが、医者と患者との対話(交換)においてしか無い、と言っても、そこに似たようなことが繰り替えされてあるなら、そこに無意識(構造)があると前提的に理論仮説していいのだと。

 

問題なのは、その理論返説(虚構)が、人間の観測(分析)においてだけでなく、他の生命たちもがそうしているのではないか、と、最近の科学的知見が示唆してきている、ということなのだ。

 

ここで、ジジェクの、斎藤幸平氏の作品への後書き敷衍解説が、結びつく。

 

ならば、遺伝子とは、反復現象から構造(無意識)を理論仮設させてゆく虚構なのだと。それはあくまで、量子力学的に、観測するから現れてくる物質にすぎない、がそう反復されてくるがゆえに理論仮説された生命現象、あるいは営み自体なのである。遺伝子とは、実在的な根拠でも、依拠すべき自然なのではなくて、それ自体が生命の働きであり、その見かけの一つ、働きの一面である。が現今の遺伝子工学は、その今の科学資本下の人間にとっての必要な一面を根拠として、実在的なものとして扱っている。ジジェクは、この科学資本下での「自然」があくまで人工的なものであって、しかもその人為的な営みの進展が、その向こうに広大にあったとされる伝統的な知見、「母なる自然」もが破壊されていてもはやそこにもどることはできないのだ、と説く。だから、あくまで「科学」な態度の突き詰めにおいて実践を構想しなくてはならない、と。

〈遺伝子工学の科学的ブレイクスルーによってもたらされる主要な帰結が自然の終焉となるような段階である。ひとたび私たちが自然の構築の法則に通じてしまえば、自然の有機体は操作することが可能な客体へと変容させられる。自然は、人間的なものであれ非人間的なものであれ、そのように脱実体化され、ハイデガーが「大地」と呼ぶところの透過可能な密度を収奪されてしまうのだ。〉〈よって、私たちにはふたつの支柱から切りはなされた科学が必要だー資本の自律的循環と同じく伝統的な知からも切りはなされ、ついには自立できるようになった科学のことである。これは、私たちと自然の統一という真正な感情に戻ることはできないことを意味するーエコロジカルな課題と向き合うために残された唯一の道は、自然のラディカルな脱自然化を完全に受け入れることなのである。〉(ジジェク「解説」)

 

しかし、その科学は、量子力学の誕生当時から、以上の地点を「観測問題」として問題化していたはずである。それは、遺伝子という反復構造(「自然の構造の法則」)自体が、人間にとっての観測虚構にすぎないのではないか、と突きつけてくる(性差が、遺伝子だけで決定されるわけでもないことも指摘され、遺伝子にフィードバックされたわけでもない短期的な獲得形質もが遺伝されているとの報告もでてきた。ナチス下の飢餓追跡調査)。そう突きつけてくる量子的現実は、「母」なり「大地」とは呼べないかもしれないが、その人間の観測しうる向う側なのか、お隣側なのか、に、摩訶不思議な自然が、宇宙が広がっている、重なっていることを暗示させてくる。

 

その摩訶不思議な世界との関係が、ジジェク的な意味においてであれ「科学」の態度延長において追求進展されえるものなのか、それ自体も問うていかなくてはならない。私たちを「和気あいあい」とさせ、「生き生き」させてくれるのは、その世界に触れてこそ、なのかもしれないからだ。

 

ジジェクは、新型ワクチンの接種を推奨してはいなかったろうか? 私からすれば、その楽観視は、上のジジェクの自然理解ーー「観測問題」を問題化しているわけではなく、あくまで現科学の趨勢を容認できているーーに現われている。


いま、接種による後遺症の問題が、ジャーナリズム界で騒がれるようになってきているようである。本当の因果関係は不明だが、私の身の回りでも、先月、お隣の40代の息子と、高校時の野球部同級生(50代)が、突然の心臓停止で亡くなっている(解剖まではしないらしい)。NHKのクローズアップ現代「迫りくる“心不全パンデミック”の危機」という特集では、その増加率グラフは、ワクチン接種以前からの自然推移的な傾向の延長として提示されていたが、アメリカでの提示データではそうも言えない結果が示されているようである。

私は、量子力学における「観測問題」の視点から、現今の細胞内レベルのRNA操作ワクチンが、人間の知見では把握できない世界に触れているのでないかと警告してきた。観測しない前、つまり生命現象以前のことが知り得なければ精確なデータがとりえない領域に手を突っ込むのだから、技術的に矛盾を抱え込む。しかし、私たちを「和気あいあい」と生き生きさせてくれる「芸術」を、私たちが産み出せているのだとしたら、その観測以前の世界と交換しえる技術を、すでに私たちは手に入れている、ということではないのだろうか?

2023年3月2日木曜日

石を拾う

 


「外の自然と相似的にミニチュア化された「もう一つの自然」を提示するとき、盆栽では植物の自然の成長に手を加えて、枝の形を針金を使って不自然にたわめたり、切り縮めたりすることによって、植物をいわば「奇形化」させる操作をおこなう。この操作によって盆栽芸術は、ミニチュア化された「自然の怪物」を、意識的に作り出そうとしている。」(「ミニチュアの哲学」『今日のミトロジー』中沢新一著 講談社選書メチエ)

 

枯れた葦などの茂みの向こうで、静かに餌を探しながら川面を泳ぐ白鳥の群れのわきで、こちらは石を探しながら、河原を歩いていた。日が長くなり始めたと感じられる朝はまだ早く、明るくはなっていても、陽は昇っていなかった。4年ほどまえだったかの台風で、堤防が決壊しそうになるまでの川の氾濫があったから、河川敷のグランドやキャンプ場を守るためなのか、土手の内側にさらに砂利をもった護岸工事が始まっていて、河原はすでに重機で均されていた。大き目のショベルカーが、盛り土した台地の上で、長い腕を下ろして休んでいる。

石を探してみようと思ったのは、駅前でお寿司屋を営む「おかみさん」(従業員の若い娘さんたちはそう呼んでいた)から、駐車場の片隅にできた植え込み地を見栄え良くできないかと、庭仕事の依頼があったからだった。おそらくお客から頂いたであろう植木の土を、アスファルトの上へ撒いたりしているうちに出来てきた一角のようだった。お茶の花のような形をしているが、白ではなく紅色をした小さな花をつけた椿が植わっていた。根が深く伸びようがないから、車の停まる方へと傾いて倒れてきてもいた。土を入れ替えたら、という「おかみさん」の意見もあったが、それでも、植え込みを何かで囲わなくては、土は雨で流されてゆくばかりだ。女性でも持てるくらいの自然の石が、いくつか土留めと置かれていた。駐車場のフェンス回りには、黒っぽい鉄平石のようなものが柵のようにして細長い植え込みを作っていて、蘭らしきものが植えられている。ならばフォーマルにと、木曾石でも使おうかとも考えたが、少し値もはるし、すでにあるものと調和させたほうがいいだろう。しかし、もう庭石など扱う庭など流行りでもないから、石屋さんに見に行っても、売れ残りというより使い残りのような、灰褐色のいかにもな玉石のたぐいしかないような気がし、ネットで調べても、マニュアル的な石積みにしかならないようなものばかりで、こちらの想像力を刺激してこない。というわけで、実家帰りのついでに、子供の頃からの散歩道である河原へと赴いたのだ。

しかし、敷き均された河原は小石ばかりで、土留めに使えるようなものはない。河川敷のグランドの側溝には、台風で川が溢れた際のままの玉石が転がっていて、その使えそうないくつかも拾っていく予定にしたが、まだ小振りすぎる。諦めかけていたころだった。足元に、白い輝きがみえる。砂地に頭だけをのぞかせているだけだが、掘ってみれば、それなりの大きさなのではないだろうか。そして洗えば、おそらく蝋のような白い透明な輝きをみせてくれるのでは……とそう確認してみようと、まず試しに、足で石の周りを蹴ってみた。いける、取り出せる、手で運んでいける。石が少しぐらついたところで、両手でつかみ、穴から引きずり出し、地面へと転がした。白い石をなでながら、その顔(ツラ)となる面を探し、天端にもできる平のありか、底にしても安定する広がりを確認した。が、もてない。重いのだ。しかも素手では、すべってしまう。なんどか持ち上げようとしたが、そのうち、川で石を拾うということが、いけないことのような、ばからしいことにも思えてきた。私は石を捨てて、家へともどった。

 

いまその石は、千葉の我が家の庭で、他の川石とともに、シートに包まれている。来週、作業に入る予定だ。いったんは捨て置いた石だったが、なぜか諦めきれず、翌日、河川敷グランドまでは車でゆき、そこから河原の際までは台車で、台車までの100メートル近くの河原の中は、ゴム軍手で滑らないようにして、休み休みしながら、体に抱え込んで運んだ。しかし自宅にもどって、試しに石を組み並べてみると、まだ大きいのがいくつかないと強弱リズムがつかず、数も足りない。すると、高校の頃、一緒に野球をしていた同級生が亡くなった。その葬儀と火葬のために、また、実家の群馬へともどった。護岸工事がだいぶ進んでいるとはいえ、もしかしたら、関越高速道の橋の下ならば、いい石があるかもしれないと、探しにいった。透明な輝きをもった火成岩がないかと。雨の流水でえぐれた水道の縁に、土留めの玉石として手ごろな大きさのものが、ごろごろと堆積していた。

 

拾ってきたものに値をつけるわけにはいかない。設計料として、石拾いの手間賃をつけて見積もりし、「おかみさん」から了解をもらった。

 *****

不思議な話だ。父の四十九日が済んだ翌日の今日、このブログを書いている。冒頭引用の中沢新一氏の著作などを今読んでいて、その不思議さを書き留めておこうと思ったのだ。

 

私はいつも年はじめ、初夢のことをこのブログで書き留めてきた。が、東京を離れ、女房の実家で仕事を独立しはじめたばかりの私には、どこかそんな余裕がなくなった。が、ふといま、自分が私の夢を生きていることに気付いたのである。

私の夢の多くは、水であり、洪水である。このブログを書き始めて何年もかけて、その洪水に呑み込まれていくことはなくなってきていた。むしろ、その川に飛び込み、泳ぎ、立ち向かう姿勢さえ見れるようになった。そして、水が引いていったように、もうそんな夢は見ないようになっていった。

4年ほど前の台風のとき、母を、避難させるかどうか、迷ったのだった。避難勧告がでていたそうだが、そうはしなくて大丈夫、と私は実家に意見した。そして女房の母が亡くなったとき、その火葬するさい、まだ骨になるには間があるからと中学生だったろう息子は散歩にでかけたのだった。骨拾いの時間が近づいても戻ってこないので、探しにゆくと、近くの公園の水辺にたたずんでいた。「白鳥が、近づいてきたんだよ。」その時の不思議さも、このブログのどこかに書き込んだだろう。私は白鳥の傍らで、輝く石を取り出した。私は死の傍らで、生=子供を拾い上げたのではないだろうか? そして助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島のように、不思議なファッションで身を包んだ女性たちが舞うお寿司屋へ、その光り輝く子供によって(を持って)届けられに行く(届けに行く)のだ……

 

私は初夢を、現実に生きはじめさせられているのだろうか?

 

*冒頭引用の中沢氏の「怪物」引用は、上の事態を理論的に整理していくためのヒントとしてである。ひとつ前ブログの岡崎乾二郎氏の「怪物」とは、自然に遍くあるだろう差異の資本としてのあるいは国家としての増殖支配を批判する形象としてだが、岡崎氏の立場はそうした自然がある「だろう」、という両義的な位置である。たとえば、<21978×487912 のような計算結果の数の並びに、なにか生き物が行進していくような具象性を感じるのは、この計算と計算結果が示す対称性(鏡像反転)に、人間も含めた生物が共通して持つ最大の特徴である対称性を見出すからなのか。(『絵画の素』「水のヘンテコなもの」)>と、それが在る、とは断定しない。中沢氏は、在ると断定する。そして柄谷行人氏は、否定する。そう、構造的に前提とすべきことではなく、一回性においてしか無い、そういう反復としてしかない、と。が、その一回性を踏まえるのならば、在ると前提しようと、無いと前提しようと、同じことである。そう前提することによって、何を明確にしたいのか、その理論的必要性の真実性が問われるだけだ。(量子力学的にいえば、波は無であるが、何を明確化したいのか、位置なのか運動量なのかを決めて観測すれば、その時だけ、物質的に真実が垣間見える、つまり確率的には知り得る、ということ。)そして柄谷氏は、そこ(自然=エス、とここでは言ってもいいだろう)から、「自然の狡知」として、超越論的自我が、具象的には「国連」が必要だ、とメタ(高次元)運動していく。しかし私からすれば、むしろそうした思考運動は、ヘーゲルの精神現象学的なABCD…絶対精神への高次元衝迫のようなものが、現今の世界を産み出し過激に回転させているのであって、それを防いでいくものではない、と、今回のウクライナ事態をみて推論せざるをえない。となれば、岡崎氏や中沢氏は、そのエスの中をどう泳いでいくのか、の技術や知恵を掬いあげようとしている、その理論的必要性の方にこそ、私には是がある、と判断する。だから、「国連」といったメタレベルは、なお国家的現実性が強いのだから必要不可避だとしても、暫定的なものでしかありえない、というのが、私の今の認識である。

面白い認識

 


「ペローやグリムがこのような物語を採集しはじめたとき、見出したのは、民族も国(その記憶)も神のような大いなる存在によって創られたものではなく、むしろその神のような崇高な権威が存在するという畏怖すら、森の中を走り回る小さな動物たちの足音、小鳥たちや昆虫の囁き、草いきれ、そよぐ風、川のせせらぎ、という自然の無数のかすかな気配から沸き起こった小さな思い、思わず起きるくしゃみのような、ひそやかなうわさの集積から発生してきたものである、という事実である。

 印象派が風景を形成する光の粒子を見つめはじめる前に、物語のはじまりとなる粒子も自然の小さな動きの観察から発見された。自然との接触から入り込んだ無数の観念の祖型は、やがて人の思考を支配する怪物にまで成長していく。」(「水の精の服を奪い(ひごうのさいご)『絵画の素』岡崎乾二郎著 岩波書店」

 

 

「夢でも幻でもなく、風で揺れて立つ草木の音ではない動く気配の度に体に当たり払われる草木の音が立ちのぼり、確実にこちら側に近づいてくる。

 目の届く距離まで来て四人は声を上げた。女が肩までの長い髪をザンバラにし、口に櫛を啣えて歩いてくる。一人なら逃げ出しかねないところを、タイチもイクオもカツもシンゴも、声を上げて逃げれば後で連から笑い者になるし、逃げようと試みたところで雑木の茂みに行く手を立ち塞がれる事は決まっている。四人は金縛りにあったように立ち竦んだまま、ザンバラ髪、櫛を啣えた女が四人の脇を通りすぎるのを待った。

 オリュウノオバは中本の若衆四人の魂消ようを独り笑った。

 昔からそんな事は路地によくあった。男ならどんな夜道であろうと怖れる事は要らないが、女は違う。路地がいまのようでなく、まだ蓮池のある頃、道は蓮池の脇の水の浸った細い畔か裏山の頂上の一本松の根方についたドウと呼ばれる道しかなかった。ドウとは一本松の根方にある天狗を祭った祠を御堂と呼んだからだが、夜遅くそのドウを行き来するのに、女らは髪を解き口にそれを啣えたりしてたまたま出くわした男らが夜道に女一人が歩いていると思って悪さをしないように、幽霊か魔物のような振りをしたのだった。

 男らは震え上がり、一物は縮み上がる。たとえ擦れ違ってそれが幽霊や魔物の振りをする物の用に足つ女だと気づきむらむらと悪戯心を起こそうと、よほどの者でない限り気だけあせって一物は縮み上がったきりで使い物にならない。ひ若い衆が若い衆になろうとオリュウノオバは何の忠告も与えなかったが、娘には折に触れて、たとえ親や兄弟であろうと男は女と違うので暗いところへ行くな、暗いところで二人になるな、と説いたのだった。」(「七つの大罪/等活地獄」『奇蹟』 中上健次全集10 集英社)

 

 

※ ほんのささいなつもりの呟き(ツイッター)が、怪物(戦争)になっていく。アニミズムが、世界を覆う一神教的な観念として肥大化する。してしまった世界=深淵に呑み込まれないために、またその怪物と闘うために、私たちにできることはなんであろうか? どんな知恵であり、技術、振る舞いだろうか?

 

*参照ブログ;

ダンス&パンセ: 自然哲学の基礎的自然<安定から怪物へ>――内山節(5) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 怪物と反復――柄谷行人の『憲法の無意識』を読む (danpance.blogspot.com)