2016年5月1日日曜日

自然哲学の基礎的自然<安定から怪物へ>――内山節(5)

「こうして、「太陽の下に新しきものなし」の自明性を、その内側から食い破る新しい標語がもたらされた。すなわち、「太陽の下に新しからざるものなし」というエピクロス主義的な標語が、である。本書ではくりかえし、ディドロの思考が「他者の言葉」に寄生し、同質化しておきながら、さまざまな手法を介してそこから離脱していくプロセスを追跡したが、この独特の思考の運動は、いわば偏差から「新しきもの」を創出する自然のアレゴリーだったのである。
 今や結論を述べることができるだろう。アドルノ&ホルクハイマーが執拗に問いつづけたのは、「太陽の下に新しきものなし」が、どのように抑圧的に機能するのか、という問いだった。それに対してディドロが関心を寄せたのは、当の標語にどのように亀裂がもたらされるのか、ということである。ディドロにとって、「新しきもの」とは、同質性の体系に開いた裂け目の向こう側から生まれ出てくる何かのことだった。そして、その何かが生成する瞬間に立ち会うことは、近代的な「統一科学」の同語反復に抗して、偏差と逸脱に満ちた「怪物的思考」を導入することを意味していたのである。」(田口卓臣著『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』 講談社選書メチエ)


「自然はひとつに客観的に実在するものであるとともに、第二に人間の主体との関係において存在しているものである。「全体の自然は物体と空虚とである」というエピクロスの表現はそのことをあらわしている。とすると自然哲学が問題にしなければならないものは、まずこの人間の主体との関係において存在している自然の問題なのではなかったか。そしてそのことを考察するには、自然と人間の関係とは何かを、そこでの主体とは何かを問わなければならないはずなのである。そのことによってエピクロスが<空虚>と表現した自然を現実的世界のなかで検討しなければならないのである。」(内山節著『自然と人間の哲学』 岩波書店 1988年)

<上野村での収穫が野生動物のためになくなっても、内山氏は、困らないだろう、上野村の人たちには死活問題になるから、電気柵でも設けるかもしれない。が、なかには、そうすることを拒否し、餓死を選んでいく村人はいないだろうか?(最近、その電気柵で人を殺してしまったのを苦に、自殺してしまった人がでた事件があったが……) あるいはそこで、その村人は、主体(電気柵)とそれを越えていこうとする非主体(餓死)との間で、揺らがないだろうか? その揺らぎの手つきでなされた耕作は、もはや労働ではないだろう。目的は、宙づりにされているのだ。そのとき、彼は「自然と人間の交通」を越えて、「自然と自然の交通」の境に足を踏み入れている。彼は、彼と自然を交換する。そんな交換は、これまでも人知れず反復されてきたにちがいない。その交換が成立するかどうかは、彼の、彼らの死という贈り物をどう受け止めていくのかの、私たち如何によるのではなかろうか? そうした交換、自然との交通こそが、文化を発生させた。フグを食って死んでいった人々の集積(安吾)、銃後に置いてけぼりにされた小人や女たちの残飯処理工夫の果てからの料理の発生(ホッファー)。戦争という悲惨が人類を市民として成熟させていくという「自然の狡知」(カント)。それは、労働ではない、裏切られた目的から不本意に出没する亡霊、見境もなく揺れ探り動くゾンビの伸ばされた両の手。自爆テロが、斬首が、虐殺が、自棄が、自殺が、阿呆どもが呼び覚ましてしまう善後の現実。非主体的な実践に思いを馳せないで、この現実の矛盾解決に、参与できるのだろうか?>(4/8ブログ、内山節ノート(3)

※ 内山氏の「自然と人間との交通」観は、安定的である。それは、土作りを基本として種を播いておけば収穫できた、ある意味、一時的な歴史に、高度成長期の間に規定されている。商品価値の高い杉を植えるという林業が盛んであったので、ケモノが人を嫌って里におりてこず(また狼も明治期に絶滅させられていたので深山の安全帯もあり)、ゆえに里人は気兼ねなく収穫できたのである。が、いまや針葉樹も荒れ倒れて次の自然遷移がはじまったが、ドングリなんかよりも、人里にあったイモや柿の実の方がいい、そして人もいないも同然、とケモノが自然化した里に下りてきた。人間にとってはまた、主体的には収まりきらない自然の多様(差異)化と逸脱がはじまったのだ。が、それこそが、実は人間の歴史には前提的な自然だった。そこでのサバイバルに必要になるのは、怪物化した自然にも対応できる、「怪物的思考」なのである。マルクスが、エピクロスに認めたのも、そのような「抽象的な可能性」に満ち満ちた「自然と人間との交通」、いやもはや主体を脱主体化してしまったような、つまりはとりあえず「アレゴリー」的関係とたとえられる、「自然と自然との交通」なのである。


「 ここでもエピクロスはデモクリトスとまっこうから対立する。偶然は現実的なものであるが、現実的なものは可能性としての価値しかない。そして抽象的な可能性は、実在的な可能性とは正反対のものである。実在的な可能性は悟性と同じように、厳密な限界のうちに制約されている。ところが抽象的な可能性は空想と同じように、制約にしたがわない。
 実在的な可能性は、その客体が必然的で現実的なものであることを示そうとする。しかし抽象的な可能性は、説明しようとする客体とはかかわらない。この可能性は、対象を説明しようとする主体だけにかかわるのである。客体は、可能なもの、考えられるものであればよいのである。抽象的に可能なもの、考えられるだけのものは、考える主体にとって制約になるものではない。これは主体を制限するものではなく、躓きの石となるものではない。そして抽象的な可能性が現実的であるかどうかは、主体にとってはどうでもよいことである。主体は対象としての対象には、関心を向けていないからである。
 だからエピクロスは、個々の自然現象の説明においては、限りなく無頓着にふるまう。」

「 エピクロスの認める唯一の規則は、感覚で知覚することと矛盾した説明をしてはならないというものであることは明らかだろう。抽象的に可能であるということは、矛盾していないということであり、そのためにも矛盾は避けねばならないのである。結局のところエピクロスは、自分の説明方法は自然の認識そのものを目的とするものではなく、自己意識の平安(アタラクシア)だけを目指していることを認めている。」(マルクス「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」『マルクス・コレクションⅠ』 筑摩書房 中山元・他訳)

※ 内山氏の最近のファッションを写真で伺うと、いかにもな和服作業着である。植木屋でも江戸風にハッピを着てやる人達もいるが、私はシマホで買った作業着だ。そういう身振りからみても、氏の「自己意識の平安」が、どういう様態に収まるものかが知れてくるような気がする。しかし、「怪物的思考」を実践するエピクロスの「平安」とは、そんな収まりのよいようなものではないだろうことは論理的に想像できる。むしろ、「平安」とは狂気であろう。

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田口氏の、冒頭引用の著作をめぐって書こうとしたところで、熊本地震がおき、気力が揺らいでしまった。9.11、3.11、そしてまたか、という感じだ。2週間以上たってもなお収まらない大地の揺れを、熊本や九州近辺の人たちは、まさに自然を「怪物的」と感じているかもしれない。ニーチェは、怪物と戦う者は怪物にならないように注意しなければ、と箴言したが、その意味は、もちろんゆえに理性的に振る舞え、ということではさらさらない。こちらも怪物にならなければ戦えないのだ、だから怪物となれ、しかし、そのまま狂気(深淵)に陥るな、ツラトゥストラの道化師の綱渡りのように、できれば軽快に、その深淵の縁を走りぬいて生きよ、と言っているのだ。ニーチェ自身は失敗し、「善悪の彼岸」に飲み込まれてしまった。大地とともに私たちの気力が揺らぐとき、私たちもまた、前後不覚に陥って、この自然の深淵に飲み込まれてしまわないとも限らないのだ。

次回は、その田口氏の「怪物的思考」を土台に、柄谷行人氏の『憲法の無意識』(岩波新書)に触れてみる。

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