「差別――被差別の構図は絶えず転倒しなければいけない。何によって転倒出来るかというと、無頼の精神――なにいってやがんでーという居直りしか、現実を逆に撃ち返す事はできない。それは基本的に悪の精神だ。国家にぶつかる時でも、自分をつきつめる場合でも、それはそうだが僕は駄目なんだというのでは悪でなくなる。」(『中上健次全集8』「解題」P738)
1 文学の終わり
江藤淳は、日本の文学史上において、1600年くらいからの数十年だけが空白状態だった、それくらいの激動が起きたということなんだ、と発言している。いわば戦国時代の16世紀、社会の釜の底が抜けるようなことが起きて、扱う言葉の根底もが揺らいで、書くことができなくなる時代だったのだ、という認識である。
20世紀の後半を生きた中上健次の作品履歴においても、1983年に『地の果て至上の時』で路地の消滅を描き切って以降、その文体や作品の密度が散漫になったと指摘されてきた。『地の果て―』は、1989年のソ連邦崩壊を予言し、「歴史の終わり」と言われるようになっていく時代を先取りしていた、とも指摘された。中上の友人である柄谷行人が、「文学の終わり」を説いたのも、そんな時期であったろう。
もちろん、その間、それ以降も、文学作品は書かれ、発表され続けてきた。相変わらず量産されて来る出版状況に、先の柄谷や蓮見重彦といった批評家が、作品形式的に、「物語」と「小説」の区別を導入し、量産的に再生産される「物語」に抵抗する姿勢として「小説」という言葉の運動(エクリチュール)があるのだという評価を実演してみせた。しかしその頃から、パソコンの普及をとおしてインターネット環境が整えられ、電子媒体が拡大していった。近代の当初から、新聞を中心とした紙媒体に依拠した文学作品は、具体的に売れなくなり、いまや新聞紙や書籍を販売する会社の存続自体が危ぶまれる時代となった。そういう現状から振り返る時、たとえば、スマホゲームなどの電子媒体でも援用される「物語」的な趨勢に対し、時代のスピードに抗う描写や分析といった書記技術を挿入させたと抽出された「小説」というジャンル自体が、新聞を読んでくれるという知的大衆を前提としていたことこそをあからさまに露呈させてしまう。ストーリに性急されない凡長な分析描写も、それでも読んでくれる出版界、つまりは近代を支える社会制度に寄生していたのだと。
戦後の安定を維持させてきた世界の東西構造が崩れ、むしろ不安定や激動を増していった20世紀終末期にあって、『地の果て―』以降の中上は、文芸誌というよりも、新聞や週刊誌にむけて作品を発表していった。「文学(出版ジャーナリズム)」が終わりはじめた時期に、近代を創起させるに一躍かった媒体にこそ積極的に関わり始めたのだ。そしてその書記運動(エクリチュール)の評価は、低くなっていき、同時進行した多くの作品は、未完結のまま終わった。
しかし、崩壊したソ連邦の後を継いだロシアのウクライナ侵攻の最中で中上健次の作品群を読み返してみると、その想像力の射程にまず驚かされる。がまずは一番に目につくのが、書記運動に感じられる試行錯誤な様なのだ。
全集版の挟み込みの解説で、高橋源一郎も、指摘している。
<はっきりした「輪郭」から「朦朧」とした文章へという道筋を日本文学は二度たどっている。一度目は明治、二度目は昭和の終わりで、どちらも「朦朧」は「口語体」と呼ばれた。それは、いってしまえば「歴史の必然」としか表現のしようのないものだった。まず作家は言葉を捜しはじめる。その段階で、作家には「朦朧」としたカオスの如きものしかなく、「輪郭」が必要なのだ。だが、一度「輪郭」を得た作家は、その「輪郭」に支配されはじめる。「輪郭」とは、整理された文体であり、システムであり、絶対的な形式である。そして、作家と「輪郭」との闘争がはじまる。作家は「輪郭」に戦いを挑み、破壊し、新しい「朦朧」へさ迷い出る。「朦朧」には「自由」があり、熱がある。だが、「朦朧」の熱はやがて冷え、カオスは固まり、そこに明瞭な「輪郭」が生まれはじめる……。>(「小説という奇蹟」)
高橋はなお、当時ヘゲモニーを取っていたと言っていい「物語」と「小説」を区別する批評枠に囚われているが、低評価の傾向にあった中上の模索を「朦朧」として評価している。文学とはいえ、あくまで近代文学史までの射程だから、その「朦朧」次期も、明治以降の視野に限定される。高橋がここで論じているのは、まだ『地の果て―』以降では評価の高い『奇蹟』であるが、さらに「朦朧」な模索がうかがえるのは、未完に終わった作品群だろう。
むしろそれらの作品群を目にするときこそ、私は、明治以前へも遡行して、世界をエクリチュールの水準からも捉えようとする中上の模索を感じるのだ。それは、言ってみれば、柄谷行人の『日本近代文学の起源』を逆戻りし、この歴史過程で絡まってきた文のもつれをほどいていこうとするかのような試行である。さらにその向こうには、江戸の戯作が依拠した中国の古典、『水滸伝』もが念頭にあったであろう。そういう文学的な営みの向こうに、あるいは平行して、地政学的な洞察が物語的に追及されていくのである。
<たとえば、『妄想』(明治四十四年)のなかで、鴎外はこういっている。「自分」は、死に際して肉体的な苦痛を考えることはあっても、西洋人のような「自我が無くなる為の苦痛は無い」。
西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云ってゐる。自分は西洋人の謂う野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時二親が、侍の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思って、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思ひ出す。そしていよいよ所謂野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。
これは一見すると、「驚きたい」という独歩の作品と似ているようにみえる。しかし、独歩において、あの不透明な「膜」がいわば内側にあったとすれば、鴎外においては外側にある。鴎外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張てゐる糸の湊合してゐる」ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鴎外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。
したがって、鴎外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。>(柄谷行人著『日本近代文学の起源』「内面の発見」 講談社 ※ルビは割愛)
中上も、「自己(内面)」を持ったインテリをほとんど描かなかった。鴎外が「侍」を描くことを本領としたというなら、中上は、とくには『地の果て―』以降、「暴走族」を主人公に据えることが多くなった。彼らの起用は、「内面」を前提にした透明な近代文体から離れて、「朦朧」と化す文の試行錯誤と切り離し得ないのだ。鴎外がゆえに明治にあっても歴史小説を書いたというなら、中上は近代文学の終末期にあって、地政学的な小説を、つまりは「諸関係の総体」としての作品を構築模索しようとしたのである。むろんその地政学は、「路地」における人間の内面(葛藤)ではなく、そこにおける人間関係の力学を見ようとした洞察作法の応用から来るだろう。
中上健次の主人公は、死を恐れない。そうした主人公を据えた物語を書いていくということが、「朦朧」からの明察、新しい文の「輪郭」を模索するエクリチュールを起動させているのである。しかもその実践は、紙上のものだけではありえなかった。中上は確かに、新聞を読むような知的大衆とその媒体の中で書いた。しかしそこに「暴走族」を呼び出す行為の内には、本を読む知識人と読まない大衆という構図自体を破壊していく意図もあったろう。
時代は進化した。俗語革命や印刷技術の発展が、大衆に読み書き能力を与え向上させたといわれたその先で、しかし、大衆は本を読むわけではなかったのだ。長い文が自ら書けるようになれたわけでもなかった。文字には、長文には耐えられない、嗜好が向かない。相変わらずなような一定の割合の知識人、かつてなら修道僧や坊さんや、貴族・武士や商人階級の一部だけが能書の世界を占めている。その世界へのアクセスは今では開かれていると言っても、ほとんどの人がその能力を所有できず、知識は一部階級に独占され、差別の構造は再生産されている。文明の発展が、差別を温存させている構造は変わらない。
中上は、知的とはえいない大衆週刊誌にも積極的に書いた。自分が相手にしたいのは、インテリではない。本を読まない、大衆すべてである。そこに向かって書く。書かなければ、書記技術によってこそ成立する文明上の差別構造を撃つことはできない、自分が成し遂げたいのは、作品を書くことではなく、世界から、差別をなくすことである。
中上が、最後の未完の作品(『大洪水』)で、父殺しを敢行しえた「暴走族」あがりの鉄男を「中国」に向かわせようとするのは、そんな作家の願いの物語的形象なのだ。
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