「2 ニュートン以上
では、柄谷が見出した観念的な「力」についてはどうか。柄谷は、自分の達成をニュートンに喩えているが、私が見るところ、それでさえも少し控えめである。つまり『力と交換様式』は、ニュートンのレベルを越え、アインシュタインの一般相対性理論に対応する部分まで踏み込んでいる。交換にともなう「力」が何に由来するのかを、原遊動性Uの概念を導入しながら、説明しているからだ。
もっとも、もう一度物理学の方を見るならば、一般相対性理論のところで、すべての問題が消え去ったわけではない。その後、量子力学と一般相対性理論の間にギャップがあることが明らかになった。このギャップを埋めなくては、引力の謎は完全に解けたことにはならない。それは、未だに成功していない。
観念的な「力」についても同じようなことが言えるかもしれない。つまり、量子力学的な深淵のようなものがまだ残っているようにも思う。たとえば、死の欲動。これは何であろうか。いずれにせよ、これは、柄谷行人からバトンを受けて、後継の者が受け継ぐべき課題であろう。」(大澤真幸著「柄谷行人はすべてを語った」『文学界』2023年2月号)
この大澤氏の着眼的は、<ニュートンの古典物理学の延長での「自然の遠隔的な「力」」で、現今の更新はできるだろうか(柄谷行人著『力と交換様式』 岩波書店)?>(ダンス&パンセ: 真理とは何か? (danpance.blogspot.com))と問い、改めてその理論への批判を提出した私の問題意識と重なるものだろう。(ダンス&パンセ: 柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む (danpance.blogspot.com)
大澤氏の評価は、だいぶ苦しまぎれなものだと感じられるけれども。
NAMにいたころ、当時の大学院生や准教授クラスの人たちのなかで、柄谷行人なんてもうゾンビでしょ、と言われていたのを想起する。そう言っていた人が、いまや教授になると、自分の講義に柄谷を読んで話をしてもらったりしているようなのだから、どこも相変わらずな世の中の様だな、とおもう。まだ愛読的な師事の範疇でいたであろう当時の私にとって、そうした組織創立者への陰口は、意味不明だった。
しかし、今なら、ゾンビと言われていたことがわかる。
たとえば、量子力学上での神秘、不可解さを、カントの哲学で理解してしまおうという反動があるが、物理学者のブリゴジンもどこかで指摘していたように、それは悟性的に無理があり、ゆえに事態をなおさらこんがらせ難しくするだけであって、思考の突き詰めには障害になる。カントははっきりとニュートンの時空間に依拠しているのだし、その「物自体」という仮構も、形而上論理として要請されてくる理念的な措定である。が、相互交流(遠隔という概念を超えた遠近接瞬時交通)があるのは自然現象と推測できるところに、新物理学の謎があるのだから、まず受け入れる前提世界が違うのである。
だから、佐藤優氏は、柄谷理論をカント定義の延長で、形而上学的な「神学」と理解する。が大澤氏は、交換の根底に、自然現象としての力(パワーではなくフォース)を読み返し、柄谷理論を現在の地平水準に開こうとしているのだ。佐藤は柄谷の口吻をまねて、巷のスピリチュアリズムを批判するが、その庶民の信仰傾向にこそ、より追跡すべき謎があると言うべきである。柄谷の理論は、この庶民の信仰傾向を否定するために意図された唯物論的偽造である。佐藤であるなら、カール・バルトを新物理学を踏まえてよりスピリチュアリズの徹底として読み返したほうがいいのではないか、とさえ私はおもう。
私はその突き詰めを、また違う方向からできるのでは、と考え始めている。
ベルクソンというと、生命論のナチスだとか、これまたすぐにも機械的な反動理解が発生してきそうだが、何かわかってくるかもしれないと推定する。何回か読解を挫折してきたのだが、『マザーツリー』を読んで、もしかして、今なら読めるようになっているかもしれない、と思うのだった。
<藤田 何十年もの間、分子生物学の主役はDNA(遺伝暗号の根本)とタンパク質(機能的で実行力のある分子)であり、RNAは設計図の情報を工場に運ぶだけの、あまり面白みのない使い走りのような立場に甘んじていたわけですが、「ジャンクDNA」(タンパク質をコードしていないため、何の役にも立たない染色体配列)と呼ばれるゲノムの非コード領域で起きている興味深い事実(「転写のノイズ」と呼ばれていたものの実態解明)が明らかにされ、RNAがただの使い走りではないことが判明してきました。私の理解では、エピジェネティクスとは、遺伝子自体は変化させずに、そのスイッチのオン/オフを変化させる遺伝物質上の一連の付加的変化(修飾)に注目する研究潮流です。言葉やイメージなどの隠喩的な「修飾」が重要な役割を果たす点に注目する私の観点からすると、機械論と目的論のあいだで、「生の弾み」と物質性の衝突、鉄のやすり屑とその中に突っ込んで変形させていく見えざる手との関係に注目する『創造的進化』にも、エピジェネティクスな側面があるのではないかという気がするんです。ちなみに、デリダは1975~1976年度の講義録『生死』(白水社、2022年)で、ジャック・モノーやフランソワ・ジャコブなど当時の生物学者の“修辞学”をデリダらしい手つきで分析していて、この話と絡められるかもしれません。>
<米田 ニュー・マテリアリズムの論者ってマクロなオーダーの相互作用を考えていると思うんですよね。体内細胞との共生とかも考えているので、個体と環境というオーダーではないですが。私としては、分子のオーダーを考えないと、遺伝的な時間の話はできないと思っています。
檜垣 やっぱりダナ・ハラウェイって結構大きいんだよね。我々が思っているよりずっと。ハラウェイってもともと生物学でしょう。生態、あと猿、要するに生態学の人。だから分子生物学をみるというよりは、群れを見る。植物とか森とか身体学、最近だとマルチスピーシズで『伴侶種宣言』とか。そっちの方向というのはやっぱりニュー・マテリアリズムがやはり強い。…(略)
米田 ちょっと付け加えますね。カレン・バラッドとかが典型だと思うんですけど、ニュー・マテリアリズムでミクロのオーダーというと、量子力学まで行っちゃうんですよ。もちろん、遠隔作用の話なんかも導入できるので、より複雑にはなるんですが、結局のところ、共時的な関係性が問題になっているという意味では、生態学的アプローチと同じ方向です。どっちにしろ、ニュー・マテリアリズム的な生命論には、分子遺伝学の知見が抜け落ちているように見えるし、通時的な生命現象もあまり考えられていないように思えます。>(『ベルクソン思想の現在』 檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼 書肆侃々房)
※ 先週、生活クラブ関連映画会で、ヴァンダナ・シヴァに関するドキュメンタリーを見たが、遺伝子組み換え作物で人々を支配する産業社会に抗する政治性以上に、彼女はその背後にある哲学の説明に比重を置いていたように見えた。そんな運動家の彼女は、大学で量子力学を学んでいた。だから、「潜在的可能性」の方が「本質」なのだという言い回しをするのだろう。ちなみに、千葉市の街中に咲いていた菜種の遺伝子組み換え検証実験では、以前はいくつかリトマス紙試験のようなもので陽性反応はでたのだそうだが、今回はない、ということだった。
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