2022年11月7日月曜日

真理とは何か?

 


遺伝子は本当にらせん構造なのか?

とは、最近電子出版形式でまとめてみた論考(「陰謀論者はお客様」)で、アインシュタインに似せて言ってみた問いである。アインシュタインは、観測して始めて物質として見えてくる量子現実に、ならば、月は見てない時は実在していないのか? と問いかけたのだった。まだ私たちにはわからないことがあるから、そう観測されるだけではないか、と。

 で、最近の分子生物学では、遺伝子とされてきたDNAのらせん構造をそう実在する(定在させる)とする見方が科学発見的に揺らぎ始めているようなのである。

 BLUEBACKSシリーズの『遺伝子とは何か? 現代生命科学の新たな謎』(中屋敷均著)の帯には、<「遺伝子はDNA」が揺らぎ始めた! エピジェネティックス、RNAワールドなどの最新研究からみえてきた新しい生命像とは――?>とある。

 文中の作者の比喩を援用するならば、「電話とは何か?」と問うて、受話器のことか、ならばケーブルは? いや電波の基地局は? 交換局は? いや機械を使って人と人とが話すことなのか? ……と、定義自体を見直していかないと、わけがわからない事態になってきている、ということらしい。

 DNAからRNAからタンパク質製造へ、というセントラル・ドグマとされる理解も揺らいできて、その逆コースも事実らしいことがわかってきた。とその知見から、現今のコロナ新型mRNAワクチンも、そのエピジェネティックな遺伝子改変が遺伝していく可能性が指摘されていたわけだが、陰暴論として退けられてきた。しかし新ワクチンを推奨しているウィキペディアの「ヌクレオシド修飾メッセンジャーRNA」というページでも、セントラルドクマの方向で辻褄あわせていこうとする箇所、<さらに、遺伝情報は細胞核にDNA(RNAではなく)として存在し、modRNA(化学修飾されたRNA―引用者註)は細胞核に入ることはない。>という記述には、根拠となる科学論文を提示してください、と「要出典」の註がつけられている。

 

が、そこで私が問いたいのは、その新型コロナウィルスのスパイク・タンパク質の人体内での増殖スピードが、その自然速度では実用化にはならないので、化学修飾したら増殖スピードがあがって実用化の目処がたった、それがブレークスルーのポイントになった、という開発者の伝記的記述をスマホのニュース記事で目にして、その学者の発想はおかしいだろう、ということだった。科学者なら、問うべきなのは、なんで自然ではそのスピードなのか、ということではないのか? なんで、早くする、という合目的性がいきなりでてくるんだ? もちろんそれは、真理を探究する科学者ではなく、人間社会で今使えるものを開発するのが役割である産業技術者、だからだろう。

 

ならば、いやだから、そもそも、新ワクチンは科学の産物じゃない。真理とは、関係ないのじゃないのか?

 私の素人な知見では、いま科学の現状は、量子論延長の物性物理や上の生物学まで、これまでで自明化・単純化された見方・構造を、また複雑に解きほぐして見ていこうとしているように見える。形や構造を決める境界が揺らいでいるというより、そう内と外を想定して理解しようとする見方自体を自然が告発してきているのだ。(昨夜のNHKの特集番組『超・進化論』「(1)植物からのメッセージ」での植物界での生態上の新知見などもそうであろう。)

 

が、現今の、人文知的な、世界認識はどうか?

 

エマニュエル・トッドの最近作から引用すると、――<現在、強力なイデオロギー的言説が飛び交っています。西洋諸国は、全体主義的で反民主主義的だとしてロシアと中国を非難しています。他方、ロシアと中国は、同性婚の容認も含めて道徳的に退廃しているとして西洋諸国を非難しています。こうしたイデオロギー(意識)次元の対立が双方の陣営を戦争や衝突へと駆り立てているように見え、実際、メディアではそのように報じられています。/しかし、私が見るところ、戦争の真の原因は、紛争当事者の意識(イデオロギー)よりも深い無意識の次元に存在しています。家族構造(無意識)から見れば、「双系制(核家族)社会」と「父系性(共同体家族)社会」が対立しているわけです。戦争の当事者自身が戦争の真の動機を理解していないからこそ、極めて危うい状況にあると言えます。>(『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』 文藝春秋)

 

トッド自身は、世界を四等分化するような構造的見方は、デカルト的な単純抽象化(「呪術的宇宙」)だ、と批判し、たしか20通り以上の家族構成を抽出分類していたはずだが(ダンス&パンセ: <家族システム>と<世界史の構造>――エマニュエル・トッド『家族システムの起源』ノート(1) (danpance.blogspot.com))、いまや、四つどころか、二つですんでしまうという……。

 

とりあえず、実践的にそう見ておく必要があるというのはわかる。が、私は、新ワクチンだ、ゼレンスキー・ウクライナ頑張れ(この戦争反対の論理だと、日本も持続する防衛戦争頑張っていいのだ、になってしまうが…)だのにはうんざりしているので、もし人類の文明がなんとか残ったら、の次のことを考えていたい。そのときは、この複雑さの方向へ、自然の理解が更新されるだろうから。というか、そうでないと、希望がないような。そのためにも、今、単純に見える事柄が、複雑怪奇であることを、よく見知っておかなくてはならない。そうでなければ、他人への思いやりも深まらなければ、そこからの実践も更新=反復されない。ニュートンの古典物理学の延長での「自然の遠隔的な「力」」で、現今の更新はできるだろうか(柄谷行人著『力と交換様式』 岩波書店)? それはトッドのかつての批判にあった「呪術」、日本的に言えば言霊ということになってしまうだろう。

 

もしあなたが、実践というものを具体的に考えて、そこにおいて、自然を、世界を考えているのならば、贈与って何? 今の社会で、何をもって贈与というの? 無償で子供を育てるってこと? 親を介護するってこと?(そのことが政治的に何を意味・機能してきてしまうことを意識させられるのか?) お年玉やお歳暮をやりとるする文化慣習のこと? それとも災害時ボランティア? と、そう問わずにはおれないのではなかろうか? 贈与たって、複雑ではないか? 私に言わせれば、単独―普遍的な贈与を社会的に作っていく意志が、意識=言語化が、まずなくてはならない。その営みが、古典物理でできるとは思わない。形式的な反復(指摘)ではなく、実質的な更新=反復が必要なのだ。


 真理は、心臓のように鼓動しているのかもしれない。柄谷はかつて、物を考えるとは、単純に見えることを複雑怪奇なものへ、複雑怪奇に見えるものを単純にしてみせることだ、と言っていたが、私には、今は、単純化に収縮させるのではなく、複雑に膨張させていかないと、逆に物事の真実が見えてこない、更新されないように見える。だから、もっと近づいて、会社の枠だのとっぱらって、社会を、人間をみよ。いや若い人たちほど、もうそういう場所に追い込まれているはずであるし、その場所が、新しくあらざるをえない蠢きを律動させているのではないだろうか?

少なくとも、科学の先端的な現状は、そううかがえさせるのではないだろうか?

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