2022年10月7日金曜日

映画『秘密の森の、その向こう』を観て

 


植木屋開業のちらしを、一件一件自身で歩き回りながら、配っている。草むしりしているおばあさんや、犬を連れた若奥さんに、声をかけながら、家々の間に入っていく。私にとっては、それ自体が文学的な実験であり、探究心でもある。千葉駅周辺でも、まだ舗装されていない路地道や、廃屋になった家も多い。それに、モノレールが走る未来的な雰囲気のある近代都市景観なのに、平日の日中となると、人がいない。いるにはいるが、閑散としている。不思議な感じである。東京でこの規模の都市なら、どこも人でごった返しているのに。

 

駅中心街へ向けての散策は終わって、いまは森林方向へと向きを変えている。雨の中はちらしも濡れてしまうので、お休み。ホリエモン仲間の企業家によると、100枚配って1件の反応があるのが植木屋稼業で、それは業界としては相当いい方なのだそうだ。しかも、たぶん、私のちらしへの反応は、さらによさそうである。この間は手入れしただけでなく、庭作りも示唆してくれた。近所とはいえないのだが、どうも私がひとりで庭と格闘していたのを見知っていたらしい。ただ、まだ始めて三週間くらいか。仕事としては、暇である。

 

ので昨日は、女房を連れて、千葉劇場まで傘をさして40分、映画を見に行った。

 

タイトルは、『秘密の森の、その向こう』。ビデオドットコムの金曜特集で、宮台真司氏が推奨していて、それが駅近でやっているのを知ったのだ。原題は、「プチママン」、「小さなママ」、のようである。

 

話はこうだ。

施設に入っていた祖母が亡くなり、母と父でその部屋の跡片付けをしてから、祖母の家、つまりは娘にとっては母の実家へと向かった。娘は、祖母の突然の死に、さよなら(オルブワー、直訳はまた会おう)を言えなかったことを悔やんでいる。その祖母の家も、荷物を片付けて、引きあげる予定で、翌日にも父と母が、引っ越し作業をはじめる。がその数日後、母が、突然家を出ていき、いなくなってしまった。父(夫)も娘も、母(妻)にはどこか孤独なところがあったと認めるが、その理由はわからない。引きあげ作業を続ける父を家に、娘は実家を潜ませているような森の中へと入っていく。そこで、自分と同じ年ごろの女の子に会う。赤い服の彼女は、枯れ枝を集めて秘密基地みたいな家を作っている。青い服の彼女も手伝う。そして、赤い服の子の家へと誘われる。そこは、母の家、自分が今父と跡片付けしている家とそっくりだった。女の子の名前をきくと、マリオン、と母と同じ名前を告げる。彼女の部屋には、まさに、母が子供の頃書いて家に残していたノートがあった。彼女は恐くて逃げかえるが、タイムスリップを理解し、また翌日森へと向かう。秘密基地の協同作業をしていくなかで、自分が誰であるかの秘密を打ち明ける。私は、あなたの娘だと。マリオンは、つまり未来からきたのか、と問う。後ろの道から来たのだと娘のネリーは答える。そしてある日、祖母が、つまりマリオンの母が亡くなってすぐに、母マリオンは失踪してしまったのだと告げる。なんでなの? と自分が悪いのかもしれないと心配して尋ねるネリーに、小さな母以前の母は、分かる気がする、という。しかしそれは、あなたのせいではない、と。そしてこういうのだ、秘密というのはない、話し相手がいないから、それが隠されて秘密になるのだ、と。子供のマリオンが手術を受けるために都市へと出発する前日、ちょうど母(マリオン)の誕生日の日に、二人は父の了解のもと、実家で過ごす。翌朝のボート遊びで、湖に浮かぶピラミッドの中を潜り抜けたりした二人は、別れを惜しむ。自動車での出発の際に、ネリーは母の母、つまり祖母に「さよなら」を言うことができた。後ろの道から家に戻ると、片付けられて何もなくなった家の床に、母がひとり座って待っていた。二人は抱き合う。マリオン、ネリー、とお互いの名前を呼び合いながら。

 

私には、以上の物語が、量子もつれ、のように見えてきたのである。

 

二つの粒子は、量子的に相関していても、つまりもつれていても、孤独である。秘密基地を作るという協同作業を通しても、その乖離は解消されない。一方の粒子が、非局所的に遠隔操作されても、他方に責任があるわけではないのだ。が、その秘密、謎のあり方、孤独のあり方を了解したとき、二つの同期が共有される。たとえ一方が前回り、他方が後回りといったスピンの向きが逆であっても、二つは同期しているのである。この秘密=孤独への理解、思いやりは、世俗の時空を超絶して、共有されえるのだ。そのとき、二つは、たとえば母と娘といった世俗的役割の関係ではない。それぞれの固有名をもつこの存在として、単独乖離的であるがゆえに、繋がっているのである。

 

ところで、このもつれは、二人だけの関係に当てはまるだけではない。量子レベルの実験は、そう示唆している。だから量子コンピュータは、抱え込めるもつれた粒子の数が多いぶんだけ、計算量が膨大になっていく。が、粒子は、根源的な孤独を抱え込んでいるのが原理である。ゆえに、誰かが神の視点で、統御できるわけではない。アインシュタインが指摘した謎は、秘密のままである。原子爆弾は、この秘密を共有するのではなく、乖離的な方向に引き裂いた。放射性物質のランダムな熱量とは、孤独に彷徨う粒子の悲しみの激しさである。しかし「もつれ」は、自然過程としては、絶対零度に近づいて、つまり熱量(運動量)が冷めたような状態において維持される。

 

戦争は、人を引き裂いて、熱量を沸騰させている。ここでは、思いやりは、成立しにくい。がもつれは、つまり粒子間の同期性は、大量でも可能的であると、科学の基礎研究は示唆している。

 

以上は、ノーベル物理学賞の発表を受けて、その科学から飛躍した、文学的な想像力としておこう。

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