2023年4月7日金曜日

『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』( スザンヌ・シマード著/三木直子訳 ダイヤモンド社)の感想


 これは自伝である。科学的調査の一般読者向けへの報告書ではない。林業開発会社での「死刑執行人」の立場から、研究者へと転じて言った木こりの娘を取り巻いた世界の提示である。なんでおじいさんたちの伐採後の苗木は育ったのに、開発で皆伐されたあとの苗木はほとんど枯れてしまうのか、そんな疑問から彼女の見出した科学的発見が、論理的な必要として要請してくる記述形式なのだ。

 

彼女は導かれた。カーボーイの弟のマッチョな発言に、「死んじまえ」と捨てゼリフを吐いて酒場をあとにした数年後、弟は事故で本当に死んでしまう。彼の妻は、彼が死ぬ前に怯えていたといい、それは森の中で、馬に乗って現れたすでに故人である知人の手招きに応じて霧の中をついていったからだと。彼女はそのとき、男性優位な産業界や学会のなかで、性に合わない戦いを強いられていたが、それを突破していく契機を獲得した。この自伝で明確に述べられているわけではないが、自分の出世が、弟の犠牲によって、自然へ通じたなにかの世界への贈与として提供されたそのお返しなのではないかと暗示されている。

 

また、研究の成果が世間に広まりはじめるころ、乳がんになり、乳房を切除手術し、抗がん剤等の治療を受けることになった。死を意識しはじめた彼女は、まだ幼い娘たちへ伝えたいことや、自分を助けてくれる家族や友人たちのことをおもった。これは、森と同じではないか? 快癒後、彼女は樹木が親子を識別するのか、他の樹種との共存共生だけでなく、子育てをするのか、他の生き物たちとの間で、エネルギーの交換がなされているのかを、放射性炭素の同位体などを使って追跡調査した。さらに、他の生き物たちとの関係は? クマがマザーツリーまで運んで食べたサケの死骸からの窒素成分が、菌根菌のネットワークによって伝授されていくのもわかってきた。もはや彼女は、ハイイログマをおそれなくなった。

 

全てがつながっているのだ。こんなことは、科学で証明できることなのか? しかも、そんなことは、おじいさんたち、そしておじいさんたちに色々と教えてくれた先住民のインディアンたちは知っていた。著作で明確に述べられているわけではないが、科学とが産業界や学会を占める男たちを説得するためのまわりくどいレトリックにすぎないのではないのか、ということが暗示されている。現場の監督たちの中には、彼女の研究結果が現場の現状の説明に適っていると、励ましの言葉をかけてくれる男たちは当初からいたけれど。

 

彼女は、西洋の哲学やその思考態度の傾向性のことも考えた。が彼女自身が、自分の好奇心を追って、科学的な探究を変えることはない。

 

おそらく、だから、と言うべきなのかもしれない。翻訳者の日本人の女性は、この著作を持ちかけられて一読したとき、「とくに驚かなかった」と述べている。たとえば日本人なら、自分がこの作品を訳すことになったと言えば、「ご縁があったんですね」と言うだろう、そのように、全てがつながっている、という仏教用語でいう「縁起」という考えを、私たちは習俗として抱懐していないだろうかと。しかしこの日本人には当たり前として問わないそこを、本当に観察し、実験し、公的にしていく彼女の姿勢に敬意を表するのだ。

 

しかし立ち止まって考えれば、これは、奇妙な話である。

 

西洋人は、わかっていないことがわかれば直す。日本人は、わかっていても直さない。

 

どちらが実際効果としていいのかは、ケースバイケースだろう。おそらく人類的にはわかってきたことを「わからない」まま傲慢なのは度し難いことだが、「わかっている」のにその傲慢に従っているままなのは、情けないことである。

 

そして、この日本人の「わかっている」ことが、社会学者の宮台真司が告発する「愚民」の在り方を支えているものだとしたら? 「わかっている」ことはいいことだ、がそれゆえに、この世界の人間的進行の歴史の中では、「愚民」的振る舞いにつながってしまうとしたら?

 

とりあえず、ここまでの問いとしておこう。

 

=====以下引用(強調傍点は省略)=====

 

「私はその叡智を、西洋の科学という頑ななレンズを通してたまたま運よく垣間見ることができた。大学では、生態系をバラバラな部分に分けて、木や植物や土壌を別々に観察することを教えられた――森を客観的に見るために。こうして森を解剖し、支配し、分類し、感覚を麻痺させることで、明晰で信頼に足る、正当な知識が得られるはずだった。ある一つの体系をバラバラにして、その一つひとつの部分について考えるというやり方に従うことで、私は学んだ結果を論文として発表することができた。そしてまもなく私は、生態系全体の多様性とつながり合いについての論文を書くのがほぼ不可能であることを知ったのだ。対照群がないではないか!と、私の初期論文の査読者は叫んだ。私は、実験に使ったラテン方格〔訳注:n行n列の表にn個の異なる記号を、各記号が各行および各列に1回だけ現れるように並べたもの。効率よく実験を行うために使われる〕や要因計画、同位体や質量分析計やシンチレーションカウンター、それに統計的有意性のある顕著な差だけを考慮する訓練などを通じ、ぐるりと一巡して先住民の人々が持っていた叡智に辿り着いたのだ――多様性が重要だということに。そして、この世のすべては実際につながっているのである。森と草原、陸と海、空と大地、精霊と生きている人々、人間とそれ以外のすべての生き物が。」

 

「先住民族の人々の叡智のすべてを私が理解できるとは思っていない。それは、地球に対する、私自身が育った文化とは異なった考え方――認識論――から来るものだ。ビタールートの開花に、サケの遡上に、月の周囲に敏感でいること。私たちは土地――木々や動物や土や水――や人と互いにつながっており、そうしたつながりや資源を大切に扱って、未来の世代のために、また私たちの前に生きていた人々に敬意を払うために、これらの生態系の持続可能性をたしかなものにする責任がある、ということ。そおっと歩き、必要な贈り物だけを受け取り、お返しをすること。この生命の輪のなかで私たちがつながっているすべてのものに、謙虚さと寛容さをもって接すること。」

 


「人間以外の地球上のすべての生き物は、私たちがそのことに気づくのを、ずっと辛抱強く待ち続けている。

 この変革を起こすには、人間が再び自然と――森や草原や海と――つながることが必要だ。あらゆる生き物やお互いを搾取の対象として扱うのではなくて。それはつまり、現代の私たちの生き方、認識論、科学的手法を拡大して、先住民族の文化が根ざすものを補完し、それを礎とし、協調させるということだ。物質的な豊かさという見果てぬ夢を追いかけ、単にそれが可能だからという理由で森の木々を無差別に伐り倒し、魚を乱獲するという行為のつけを払うときが来ているのだ。」

 

「それは私たち一人ひとりにかかっている。あなたが自分のものと呼べる植物とつながってほしい。都会に住んでいる人は植木鉢をバルコニーに置き、庭があるなら家庭菜園を始めたり、コミュニティ農園に参加してもいいだろう。そしていますぐあなたにできるシンプルな行動がある――木を1本、あなたの木を見つけるのだ。自分がその木のネットワークにつながり、それが周りの木ともつながっているところを想像してほしい。感覚を研ぎ澄まして。」

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