2024年7月27日土曜日

山田いく子リバイバル(3)ー2

 


山田いく子1995.11.15「事件、あるいは出来事」in 音羽 (youtube.com)

 

中学生時代から私と結婚するまでの間に、いく子へ宛てられた手紙をすべて読み終えてから、山田いく子リバイバル(3)を訂正した。その音羽での公演での、絶望に沈むようないく子の姿をみて、これは男と喧嘩別れになったのか、と推定し、さらに、公演のちらしから、紙を引き裂く群舞パフォーマンスが、いく子振り付け・出演のものであり、そのタイトルが『事件、あるいは出来事』であると知れたからだ。私は、はじめてそのビデオ録画を目にしたときは、いく子と性格が似ている人がいるからこの公演に参加したのだろう、と思っていたが、長い髪にパーマをかけた女性が、いく子本人だったのである。自傷行為的な破壊と、絶望に虚脱していくダンス。最近、いく子の遺した、1986年から2021年までの手帳を読み終えて、その外的な成り行きが鮮明になってしまった。

 

海外旅行へ行くにさいし手掛けたものが、習慣になったものらしいその40年近くにわたる手帳は、みなmade in Great Britain by Charles Letts & Co Ltdによるものとこだわりがある。

 

私の推測通りとはいえ、それ以上の強度をもった「出来事」、「トレンディー・ドラマ」であったのだ。

 

なんと、いく子が、二十歳のころストーカーのような行為をして家族に謝罪の年賀状を書いたおそらく五歳は年上の男の申し出を了解したのは、中上健次追悼の熊野大学で、柄谷行人の涙を見て感動し千葉のアパートに帰ってきた翌日だったのである(妹の結婚からはじまったいく子の三十歳前後は、あせりから来る行動を起こしては失望しを繰り返した。傷心旅行としてトルコへニューヨークへといった。そうした過程で、憧れの柄谷にあい、そして熊野大学での質疑応答での自分の質問は柄谷から冷たくあしらわれた――)いく子に相手にされなかった男は、お金持ちの子息なのだろうが、すぐにお金持ちの資産家のもとへ婿にいったものとおもわれる。苗字が変わるからだ。が、結婚後も、もしかしたら新婚旅行のドイツから、いく子になお手紙をだしたりしていたのだ。その10数年後、いく子から了解を受けた男は、さっそく薔薇の花束とダイヤのピアスをもってあらわれる。その時の笑みを浮かべるいく子の写真も残っているのだが、バレーの練習スタジオまで送迎してくれるこの男のことを、いく子は手帳に「アッシー」と書きつける。妹さんの記憶では、「県庁」と姉があだ名で呼んでいた、筑波大で天文学を専攻した人とつきあっていたことがある、と私は聞いているが、それはこの男のことだった(もしかしたら、いく子の派遣先の「県庁」で顔見知りになり、おっかけとして、中大法の通信教育にも通ったのかもしれない。背が高く、運動能力も高いと筋肉からわかる。「天文学」というキーワードから、私は同一人物と同定できる記憶根拠をもつ。)しかしそれは、不倫の関係だったのだ。いく子は、「結婚」を前提にお付き合いしている人がいると友達に書いているが、それは、強がりであり見栄であったろう。いく子は、中学生の頃から、結婚は妥協だ、という考えをもっていた。この「妥協」という意味がどういうものなのか、好きになった男以外と生活手段で結婚するのが妥協なのか、キャリアを諦めるということなのか、とか判然とはまだしていない。がこの男とは、「離婚」するからとの口約束でずるずるいっている、ということである。彼が、いく子に費やした額は半端ではない。たとえば、一枚55万円するロシアのブーニンのピアノコンサートに二人でいっている(あきれるようにその値段を私に言った時の表情を思いだすことができる)。ダイヤの指輪も送っている。乗っている車は「ワーゲン」だったろうと、私は推定できる根拠を記憶にもっている。その男と、この音羽の公演の前日に、いく子は大喧嘩をしたのだ。

 

この音羽の「作品」は、自傷行為に走る自我の炸裂、という表現水準にとどまっているようにみえる。が、ここには、のちのいく子の代表作になっていく振りのテーマがあちこちに見られる。そこから推論できるのは、いく子のこの男との関係がすなわち男性社会との闘争であって、その抽象化された問いが、心理表現次元にはとどまらせない作品として昇華されていっているのでは、ということだ。音羽の「事件、あるいは出来事」には、のちの「レストレスドリーム」で使用する音楽も引用されている。

 

がこの関係、男女関係にとっては中途半端な(いく子は「小心で繊細」な人だと友に言ったが、この大胆な行為にでる男の頭ははげあがっており、女性を性的対象としか見ない手紙文句ばかりである)、いく子にとっては矛盾を生きていく苦悩は、ピナ・バウシュの香港公演を二人で見に行ったその際に爆発する。たぶん、ピナのダンスをみて、我に返ったのだ。いく子は、男がくれたダイヤの指輪を、道端か川に放り投げたのだろう。「捨てた日」と手帳にはあり、空のケースだけが残っている。しかもこの頃、1997年は、のちにNAMのコアメンバーともなる男たちとの交流もはじまっており、NAM結成への萌芽もうかがわれたかもしれない。その男たちは、金のことなど知ったことかという主義で生きているような者たちである。ならば、いく子の刺し違えるような接近戦の態度は、矛盾というより、虚偽意識になっていくだろう。いく子は、自分に正直に返ることを決然と選ぶことになったのだ。

 

が男はおさまらなかった。99万円をもってアパートにやってきたりした(それを受け取ったかどうかはわからない。少なくとも、その時期に銀行への入金はなく、あくまでいく子はガツガツであり、当時の仕事は端末入力の派遣だ。かといって、大金を部屋においておく性格ではない。しかもこの頃、泥棒に入られてヴィトンのバッグや財布を盗まれている)。いく子はアパートの鍵を変えようとするが、不動産屋から、女としてわきが甘い、男に合鍵を渡すのがわるい、と嫌味を言われている。男も、自分がいく子に愛されているわけではないと気づいている。筆記体の英文で、あなたが私のことをどう思っているかわからないが、良かれ悪しかれ、私はあなたを愛している、と書いている。そうこうするうちに、男は、「離婚」した。これはどうも、男の奥さんが、夫と子供も捨てるように別れを迫ったのでは、という成り行きにうかがえる。子供は、たぶん、思春期を迎えている女の子なのでは、と私は推定している。その子は家出し、東京の郊外で保護され、施設で庇護された。男は、渋谷の中心街から江東区の見晴らしのよいマンションの方へ引っ越すが、いく子はその手伝いにいっている。さらに、江原組の公演での群舞に、男を誘って参加させている(もう一度確認がいるが、私はこの手帳をみるまで、この年まで仲が続いていたのか、ならばなんで終わったのだ、と疑問に思っていた)。その意味を解読してみると、もしかして、復讐なのでは、という気がしてくる。男を、観衆の前でさらしものにしてみせること。妹さんによると、姉は、わたしは執念深いのだ、と言っていたという。以後、男の記述は手帳から消える。

※追記;99万円を男がもってきたのではなく、手帳の数字は、逆に、いく子が貸したのだ、とわかった。もしかして逆かという想像もあって、通帳をみると、プラスではなく、引き出されているのだ。つまり、手帳の文字・数列の意味が逆になるのだ。給与が月15万もいかないいく子が、計200万円くらいを貸していることになる。(たぶん返ってはいない。そのまま数百円の貯金にまでなる。)香港旅行後いく子に突き放された男は、妻からも離婚されて金に困るようになったのか、いく子にたかっているのだ。引っ越しの金も、いく子がだしたということなのだ。男は、病気になり入院し、事故にもあっている。がいく子は、事務的な対応をしてやることで、冷然と復讐していたのかもしれない。が哀れみもあるのだろう、男を「さん」づけ表記で記帳したりするようになる。男は、自らすがるようにして、江原組の群舞の仲間に入ろうとしたのかもしれない。

 

そんな成り行きを日付とともに知ることは、私にはショックだった。だいぶまえ、いく子と男との関係を知ったとき、妹さんが、「いく子はマサキさんとイツキくんにあって、ほんとうに幸せそうだった。若い頃いろいろあっても、総体的にはよかったのだ」と言ってくれた。今回も、ちょうど手帳を読んで動揺しているとき、いく子が私と結婚するまでの二十年来文通していた友達から私の「中上健次ノート」を読み終えたという連絡を受けた(彼女はいく子と一緒にあの熊野大学に参加した和歌山の女性で、そこで素晴らしい質問をしている)。そしてわたしがいくちゃんからきいた男の話は、「植木職人と結婚するの」ということのみだ、という。それが記憶違い、忘却であることは、残された手紙から明らかなのだが、私が、私との結婚が、いく子のダンスを変えた、あるいは、あの自傷行為から連なったテーマ群を終わりにした、ということはダンスのタイトルからして明らかだった。その私は、いく子の手帳の中では、「2001.3/3 NAM拡大会議 学習会 菅原さん(新事務所)」として登場してくる。日付までは忘れていたが、私は、その初めてのいく子との出会いを覚えている。飛騨さんが私のメールを読んで、学習会でのチューター役にと誘って、私は、ルソーをめぐって何か話したのだ。それは、教育(『エミール』)と植木剪定の関連だったかもしれない。その話を、いく子は近寄ってきてくれて、面白い、だったか、とにかく認めてくれる言葉をくれたのだ。

 

が実は、私は、その熊野大学へ参加しようとしていたのだ。まだ植木屋にはいりたてだったこともあってか、いかない決断をしたときの、家賃2万円の部屋の、かけっぱなしのカーテンの緑色の光を思い出すことができる。もしそのとき、私が参加していたら、35歳のいく子と出会うことになったのである。しかしそうなっていたら、私といく子が共演し、結婚にまでいたるということはなかっただろう。

 

がその10年後、私たちはNAMで出会い、結婚し、男の子を授かった。その息子への教育過程、漢字の書き取りや九九の暗算が始まるころから、いく子の虐待的な勉強見がはじまり、止めにはいる私と喧嘩が頻繁するようになった。いく子は手帳に、「離婚」と書き込んだりしている(がのちに、これは「更年期」だからかもと反省したりしているが)。いく子は、私の知的なあり方をばかにするようになった。3.11での放射能問題、最近のコロナ・ワクチンをめぐる見解、ウクライナでの戦争評価、とう、どれも意見は食い違った。が、ウイルスの脊髄感染で一月半の入院の間、私の『中上健次ノート』を読んだ。退院後の亡くなるまでのひと月の間、読んだと聞いたわけではないが、なにかの拍子に、「実験、それもいい」と真剣な眼差しで私をみつめてきた。だから、読んでくれたのだな、と私は知り、退院後の私との付き合い方を、いく子が変えようとしていることからも、推定していた(ウクライナ評価に関しても、あなたが正しかった、と発言した。また、わたしと結婚してくれたことに「感謝している」とも言い、そのよそよそしい単語に私は言葉を失った)。が私は、いく子が反応したところは、「通俗小説と真理」の部分、いわば「トレンディー・ドラマ」的な生きざまを揶揄した部分であろうと思っていた。そういう意味で、彼女は反省したのだろうと。が、一月前か、いく子が二十歳の頃、中大通信教育でのサークル新聞に書いていたエセーや詩を発見した。そこには、すでに、私が中上ノートで抽出した、『軽蔑』での真知子の思想、「羽衣の思想」が書き込まれていたのだ。

 

もしいく子が、もっと生きながらえていたら、もう一度、私とのコラボレーションを発動する動機を回復し、二十歳の頃の洞察をもって、ダンス作品を作り始めたであろうと、私はおもう。その二十歳のころからの男との「どろなわ」的な関係終焉のあと、いく子は1999年11月、和歌山出身の女性が主催する徳島の酒蔵跡にて『事件、あるいは出来事』という、女たちのシンボリックな連携の作品を発表する。そしてその翌年の20009月、江東区佐賀町のソーホーで、やはり『事件、あるいは出来事』というタイトルをもった、ホロコーストという人類の惨事を寓意したような作品を制作する。もはや、個人心理に限定されない芸術を提出した。

 

    いく子は、熊野大学に初めて参加した翌年2月の深谷正子のダンス・カンパニー公演『NOISY MAJORITY』で、「ある日、クチナシの花はいいました」という作品(口無しが話す、ということ)を発表している。これは、いきなりその熊野大学に参加したときのことを語りはじめることからはじまったらしい。そして、その後の演出でも、観客の度肝を抜いた、と複数の友人たちが報告の手紙を書いている。残念ながら、このVHSビデオはテープが切れてしまってみることができていない。修復してDVDデータに転換してくれるサービスもあるようなので、やってみることにするが。また、以上はまだ、いく子の遺品すべてに目を通してからのものではない。まだ、17歳から30歳すぎまでの一番プライベートな日記群があるのだ。おそらく、二十歳後の、あの男との関係も記入されているだろう。いく子の思想の核は、二十歳までにはすでにできあがっていた。それまでの思春期が、おそらく、再燃した水俣病「事件」の対応に追われ出した父母との関係に、問題となる「出来事」があるのだろう。私はまだ、それらをよむメンタルができていない。私は、泣いてばかりいる。

2024年7月12日金曜日

スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』と大澤真幸『我々の死者と未来の他者』

 


「言い換えれば、過去を遡って解釈し直すことはいくらでもできるが、未来に関してはそれができない。だからと言って、未来を変えることが不可能なわけではない。未来を変えるためには、まず、別の未来に向かう道が開けるように過去を解釈し直し、過去を(「理解する」のではなく)変えるべきである。」(『戦時から目覚めよ』スラヴォイ・ジジェク著 富永晶子訳 NHK出版新書)

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「普通、私たちは、現在の傾向のそのままの延長戦上に未来を予期する。この場合の未来は、現在の継続である。しかし、現在から断絶し根本的に新しいものとして未来を想定できたとしたらどうだろうか。そのような想定に確信をもてる者からは、現在の惰性の中に生きている者には見ることができない過去が見えるはずだ。」「「未来を変えること」と「過去をまったく異なるものとして見出すこと」とは、別のことではない。両者は同じことの二つの側面である。支配的な解釈とは異なった過去の現実を見出すことができるとしたら、その人はすでに、現在から断絶した新しい未来を「来るべきもの」として確信し、そこから過去を見ている。あるいはこう言ってもよいだろう。失われた<我々の死者>を見出し、救い出すこと、<未来の他者>に応答することとは、別のことではない、と。<我々の死者>への視線と<未来の他者>への視線は緊密に結びついているのである。」(大澤真幸著『我々の死者と未来の他者』 インターナショナル新書)


まず、ジジェクからはじめよう。

コロナ対策やウクライナでの戦争をめぐる、ジジェクの思考前提的な現状認識は、主に日本での情報から状況認識するわれわれとは、異なっているように思われる。ジジェクは、コロナ対策やワクチンの世界的促進は不徹底(特に途上国への)であり、ウクライナへの支援も曖昧なまま終始している、と認識している。が、日本からみれば、MRNAを使った新ワクチンの接種者は日本では9割前後くらいなようだったし(再確認していないので不正確数値)、その処置普及の徹底化の方へ世界も動いていたようにみえた。ウクライナへの支援に関しても、日本は欧米と足並みをそろえての強気な全面支持を表明している、が日本の実際は、9条規定や地政学的な遠さから積極的な支援策が打ち出せないでいる、というようにみえる。

が、イデオロギー的な掛け声レベルでなく、実際の現場を考慮するならば、欧米でのワクチン接種拒否者は4割近くをしめ(接種者が9割前後になるのは人口の少ない国(だったと思う)、ウクライナへの軍事支援は限定的なものに終始している。そして、ジジェクのこの論考が書かれた頃よりさらに最近の実際自体はより露わになりはじめ、新ワクチンに関しては製造会社を告発する裁判闘争が欧米では散見しはじめ、ウクライナへの支援も陰りがみえはじめた。が、日本では、今でもその現状を指摘するだけでも、陰謀論の変質者と思われてしまうきらいがあるだろう。

新ワクチン接種後の、年間の超過死亡者数の急激な増加は、状況証拠的にはワクチン接種が一番なのに、科学的には原因不明と棚上げされているのが現状のようにみえる。

熊本での水俣病もそうだった。状況証拠的にはチッソの排水に何かある、とはっきりしているのに、正確な原因物質や因果関係が不明だと、企業と国、そして当初はマスコミもが結託的に防御対策を放置していたのである。つまり、状況証拠は科学ではないと人も国も動かない。しかし、日本ではそうした戦後高度成長期の経験から東電の原発事故等あったのに、無邪気に大企業の言葉を信じて自らの腕を差し出して病気になっていく。これは、科学以前の話だろう。そういう意味では、欧米(と曖昧な言い方しかできないが)の民衆は、政治的な掛け声にやすやすとは相乗りせず、自らの身体性で抵抗し、マスクなどもはずしてサッカー観戦してきたようにみえる。で、そうした中で、ジジェクはどこにいるのだろう? 彼の認識は、要は掛け声(イデオロギー)の上に終始しているようだ。ならばその思考は、現実をとらえていると言い得るのか? しかし、形式的な論理的整理は、緻密であり、参照になる。


大澤真幸も、当初はそんな風だった、と私は印象を受けていた。

当人は覚えているはずもないが、私は、彼と面識がある。たしか、岡崎乾二郎の『経験の条件』の出版記念会の二次会、歌舞伎町かどこかの少し大きめのバーである。そこで、大澤氏はまずひとり滔々と『経験の条件』の解釈を述べていた。で述べ終わると、用があるので、と足早に店をあとにしていった。私は彼が颯爽と消えていったあとで、「今の大澤さんの話は、間違ってますよね?」と発言した。真向いに座っていた浅田彰が、「まあ大澤さんはああやって整理してみるのがいつもだから」みたいな返答を返してきた。NAMプロジェクトの延長のようでもあったので、むろんそこには柄谷行人もいた。


しかし最近の大澤真幸の作品を読んでいると、「整理」にはとどまらない仕事を打ち出しているように思われる。継続中の『<世界史>の哲学』は柄谷の『探求』での「普遍―単独」「一般―特殊」という四象限図式の敷衍だし、今回の上の新書も、柄谷のその「他者論」の不備をより具体的な文脈で補足していったようなものにみえる。柄谷は『探求』公刊後、死者や未来の者も他者なんだ、と言いはじめたりしていたのだが、そうなる筋道がその論考につけられているとはとても思えなかった。どうしてそうなる? と素朴な読者は怪訝におもったはずだ。しかしいい悪いという話ではなく、竹田青嗣がいうように柄谷は「指摘」しているだけだとしても、たしか中島一夫が「柄谷行人」とはネットワークのことなんだと言っていたように、その「指摘」を受けて突っ込みを開始する各分野の知識人がでてくる。そういえば、その中島一夫が、最近のブログで、柄谷の「意味という病」はそう意味を排する病なんだ、と書いていた。私も同感だ。私の言葉では、「意味という病」はロマンチズムのバリエーションである。このストイックな左翼態度が、一般他者(意味)を排斥する禁欲主義や、マルクス主義的な絶対観念からの逃避は転向だとかいう潔癖主義、他者に出会いたかったら外国語を勉強しろだのというエリート主義を瀰漫させていた。妻のいく子の友達は、女にとってお嫁にいくとは外国にいくようなものなのだから、そうしたインテリの考えはおかしい、と手紙に書いていたが、正しい。岡崎乾二郎も、NAMの芸術系の会合で、長嶋茂雄の「ぶ~んと振れ」の「ぶ~ん」は専門用語なんだ、とそんな柄谷態度を暗に批判していただろう。辞書的な定義ととっくみあっても実際の言葉など覚えられるわけがない。その世界にはいって、その運用に身をおいて、はじめてその意味がわかるようになるだろう。植木屋の「さっと切れ」「ざあ~っと「ぱっと」「ばっと」「ちょんちょん」などの親方の言葉も、専門用語だが、それは定義し辞書化してみても運用などできるわけもない。


最近における大澤の柄谷批判は、柄谷の思考が古典物理レベルにとどまっていて、それでは現実の実際に切り込んでいけない、量子力学をふまえた思考を展開していかないと、というところにあるようだ。この上の新書も、量子論をふまえた論考である。大澤の量子力学の理解や、そこを正確に補足する論理学理解の間違いを指摘する学者もいるようだが、意義ある指摘には私にはおもえない。少なくとも、世界の知識人たるジジェクと同じ視点を提出している。そのジジェクが、現状認識においてわれわれとずれるのは、われわれが現場から遠い島国にいるから、というよりも、東欧にいるジジェクが現場(前線)から近いところにいるからかもしれない。ウクライナの支援の掛け声(イデオロギー)を本当に実施してくれないと、津波のような巨人軍が攻めてくる、という身の恐怖が、認識以前の前提になっているからかもしれないのである。