2011年12月17日土曜日
この日本で、誰ができるだろう? (中上健次と民衆)
私が学生の頃よく読んだといえるのは、柄谷行人のほうであって、中上健次ではなかった。しかし二十も半ば過ぎから新宿の植木職人として働きはじめてからは、その職場の環境から、中上氏の小説世界がリアルにみえはじめた。当時の学生時の読み方といえば、記号論的読解やエクリチュールといった方法が主で、私もそれに類した中上作品論を書いたこともあったが、よくいって秋行の「空虚(がらんどう)」さと自分の「空虚」さを重ねあわせているのがマシな程度で、空々しいものだった。しかし東京に残存しているような新宿の世界に、紀州の田舎で展開されていたその作品の主人公たちが影のように付きまとい始めたのである。親方の家族は、まさに女(姉)たちがしゃべりまくる世界だし、そこに出入りする職人たちは、祖父の世代が博徒や岡引、若い衆たちも『地の果て――』以降の中上作品に出てくるチンピラくずれや、地元でのチーマーとかに通じる徒党を組むものたち。私はいま中上氏が生きていたなら、オレオレ詐欺の世界を描くだろう、と想像する。とにかくも、私は氏の作品を、唯物論だの物語論だのではなく、まずは普通のリアリアズムが基調素材な作品として読めないかと苦心してきた。そういう考慮を抱懐している者として、前回ブログで言及した守安敏司氏の『中上健次論』は、まさに作品の主人公への対等な共感から発せられているが故に、私には新鮮だったのである。
<漁師の多くは体に入れ墨をいれていた。幼い私がその理由を聞くと、漁師は、もし海で死んで「土左衛門」になっても、この入れ墨で身元が判明するからだ、と教えてくれた。次の夏、昨年同じ漁師仲間だった人が船に乗っていないので聞くと、去年の秋に船から落ちて死んだ、と言う。こともなげに死んだと言う。/日頃優しい漁師が、船上で漁になると目の色が変わり喧嘩腰になる。酒が入ると、暴力はいけませんよと生ったるいことを教えられていた私がびっくりするような大立ち回りもいくどか目にした。/生活の糧を大自然の海に求めて毎日を暮らす。漁があるかないかはまったく運任せの博打のようなものである。こうした優しくまた気性の荒い漁師の生きかたを見て以来、私はスポーツと称して魚釣りをやる人間を基本的に好きになれないのだ。…(略)…繰り返すが、私は中上と同じ風景を体感していたことになる。風景だけでなく、中上の作品の登場人物の語り口調、例えば私が海岸でひとり本などを読んでいる時に、漁師の子どもが、「敏司君、何しとるん。海に入ろらい。」と誘ってくれる口調とまったくと言っていいほど同じであるのだが、その口調にも、また私の接した気性の荒い漁師たちとよく似た中上作品の登場人物の姿にも、私は表しようのない親しみを感じてしまうのである。>(守安敏司著『中上健次論』解放出版社)
その守安氏の、中上氏の知友である柄谷氏への批判は辛辣である。要は、柄谷は事実(作品年代順)をに反して自分の都合のいい切り口を物語っているにすぎない、ということである。中上の全集を読み通したわけでもない私には、守安氏の編年的な読みは勉強になるけれども、ではその守安氏は、何を言いたいのか? 他人の揚げ足取りではなく、自分が中上作品を通して読者に訴えたい意味はなんなのだろうか、と思ってしまった。なんで中上論を書いてみたくなったか、その原因はわかる。ではその結果として、何がでてくるのか? 生産的なものは? ……そうなれば、たとえ事実(史実)では証明できなくとも、抽象力という方法論によって、作品という素材を前方へ編集しなおして呈示する、という柄谷氏の読み方のほうが、たとえ間違っていても生産的であるかもしれない、となる。たしかに柄谷氏は、部落問題を一向宗起源説で切り、秀吉の刀狩りをヨーロッパと資本主義的なスパンにおいて同時代的と捉えうる「市民(自治)」の去勢と読んだ。部落史も、日本史も、事実的にはそうではない、という。しかし、『刀狩り』(岩波新書)で論証した藤木氏も指摘しているように、それはもともと「象徴的」な統制の仕方だった。つまり、藤木氏はあくまで「象徴的」にすぎず、全面的な展開とは言い難い刀狩りだったと言う。が、「象徴的」であるがゆえに「去勢」として重要なのであって、たとえそれが顕在(全般)的に事実とはいえないにせよ、以後そういう方向(サンス)で意味(センス)をもっていってしまった、というところに歴史の潜勢力があった、と抽象(読解)するならば、この精神分析的な柄谷氏の方法論は是であろう、というのが私の公平な意見である。また、小説家の端くれとして私が言うなら、作品を通時(編年・事実)的に読解することに依拠するだけでは人間の創造力を、あるいは潜在力を把握しきれない、とおもう。この作品を書き始めたならば、すでにその作品では書き得ないものにもまたすぐに突き当たってくるので、次の作品は並列的に派生してくるのではないか、と私は経験する。これでは書き得ないものをこの作品のなかに書き込もうという無限運動的な反復として、プルーストやジョイスがいたのかもしれないが、また小説の起源はその書くことの不可能性につきまとわれてそれを手放さず、と『ドン・キホーテ』やなんやかやが生れた、というのは文学教養のイロハでもあるだろう。
それにしても、中上氏の作中の共同体や、主人公や、『地の果て――』いこうで登場した若者たちの世界は、今はもうないのだろうか? 現実性が希薄で、残っていたとしても、もう意味(潜勢力)など持ち得ない代物なのだろうか?……どうも私には、そうはみえない。だから、中上作品の素材を、現在から将来へ向けて、そのセンス(方向・意味)を抽出して編集呈示したくなるのだ。たとえば、リビアでカダフィがたおれた。民衆兵士がひきずりまわした。気に食わない奴をやっちまえ、生意気だった女を犯しちまえ……と統制がきかない社会になっている、と報道で読むと、私は自分の職場の世界を連想してしまう。おそらく彼らが、カダフィにつくかつかないかは偶然で、思想的にはどちらでもよい、がそれゆえに、上からの統制がゆるんだ途端に、アナーキックな衝動が赤ん坊の泣き叫びのように発散されるだろう。日本でもその可能性は十分ある。しかしその世界の人間が価値とするものは、右左で思想化するならば右になろうが、それは上からの言うことに服従する、ということではなくて、たとえば、太平洋戦争が終ったとわかっていても、生き残った若者たちが小船にのって日本刀を武器に敵の艦船へ向けて出撃していって捕まった、というような人たちの価値である。私は、そんな史実もあったのだという映像をみたとき、その出撃まで、おそらくもはや先輩後輩程度の階級しかなくなったその生き残った若者たちの間で、どんな会話がなされて決行されたかが、聞こえてくるようだった。それはとても、勇ましい会話ではないのだ。国は負けたけどさ、そんなことじゃなくて、俺たちはさ……泣く泣く意地を張ってみせる突撃なのだ。赤ん坊がまだない我を張るように。が、彼らは列記とした大人である。それは気まぐれではなくて、もっと堅固な価値なのだ。そうとする仲間、共同体である。私の知っている範囲から推定すると、オレオレ詐欺も、地方から東京にでてきた見ず知らずの若者をアルバイトとしてやとって悪いことをするのは危険なので、そうした共同価値が生きている世界の仕業である。地方での者がかかわるとあっても、先輩後輩関係が生きていて、秘密を守っているかどうかが監視でき、簡単にはばっくれることができない付き合いがなくてはならないだろう。そこでの価値は、暗黙に資本主義世界に対抗している。騙し取って受けとった配分を、みんな遊ぶ金に費やしてしまうとしても。もちろん、私が言っているのは下っ端の使われる人たちの世界のことである。しかし、カダフィをたおしたのが「民衆」だというなら、私にはそれも「民衆」、いやそれこそアラブ革命の「民衆」の近傍に位置する者たちに思えてくるのである。彼らは、一度立ち上がったら、引き返せない、殺されるので。戦うしかない、泣く泣く意地を張って。そういうことを、この日本で、誰ができるだろう?
2011年12月9日金曜日
テクノロジーとカタストロフィー
「十六世紀末の日本の刀狩りによせる研究者たちの通念は、およそ次のようなものであった。豊臣秀吉の政権は、分裂していた戦国の国家の軍事統合に成功して、すべての暴力装置を集中独占すると、その力を背景に、武装解除をめざして、農村からあらゆる武器を徹底的に没収し、民衆を完全に無抵抗にしてしまった、と。/この見方は、いま、ほとんど国民の通念ともいえるほど根強く、「強大な国家、みじめな民衆」という通念は、十七世紀以後の徳川政権というアジア的な専制国家像を形づくるのに、決定的な影響を与えてきた。しかし、民衆の徹底した武装解除という奔放なイメージは、刀狩り研究の大きな欠落と空白に支えられて、じつに自在であった。だが、この通念ははたして事実であったか。「みじめな民衆」像ははたして実像であったか。」(藤木久志著『刀狩り――武器を封印した民衆――』 岩波新書)
七歳になる息子と一緒にその赤ん坊の時からのビデオクリップをみていてびっくりした。これまでも毎年2回くらいは、その私のHP上にも一希のプロフィールとしてアップしてある映像を息子はみてきたはずなのに、あたかもいまはじめて見るように見入り、5歳の頃に撮った自身がダンスをする姿をみて、げらげら笑いこけながらも、「こんなの見たくない! こんな格好つけ<いっちゃん>はいやだよ、もうやめてよ!」と言い出したのである。たしか半年ほどまえは、そんな反応もなく、素直にそれが自分なのかと受け入れていたのに。私は、親が子のビデオや写真をとりまくっているこのデジタル社会の環境の中で、子供はどう自身の記憶とつきあっていくのだろうかといぶかっていた。覚えたくもない思い出の暗記過剰になって、自分がおかしくなっていくのじゃないだろうかと心配もしていた。とくにその推定は、私の学生時代の教養の中でも、たとえば音楽家の坂本竜一氏と文芸批評家の柄谷行人氏などが、テクノロジー(シンセサイザー)が感性を解体するとか話していたので、科学技術の変革によって制度としての感性も変容していくのだ、とされていた延長にもあたるので、憂慮は知的な正当性を得ているとおもっていた。が今回の息子の様をみていて、それはどうも違うようだぞ、しかも、最近の自分の意見もこのブログなどで展開してきたように、サル的にというか人類的にというか、むしろ変わらない部分のほうが大きいのではないか、と思い当たったのだった。どうも、少なくとも人間は、自分という何かを維持していくために、都合よく本当に忘却してしまうようにできているのではないか、と。七歳の一希の自己嫌悪は、思春期に特有の、たとえばテープレコーダーの自身の声を聞いて違和を覚えるとかの症状と同じものなのだろうか? 「我は他者なり」というような存在論的次元への自意識化というような。…たしかに存在論的な、といえるのかもしれないが、どうももっと身体規制的な、つまりは遺伝的な生存本能に近いようなものにみえる。つまり自分を狂わすのではなく、あくまで健全な育成である。が、私はそこから、ベックがいった「全的なカタストロフィー」という意味のことを考えた。HP上の観覧記で倉数茂氏の『私自身であろうとする衝動』(以文社)の感想でその言葉にふれて、気になっていたからだろう。
私はそこで、今回の大震災や原発惨事を、かわいそうだが運が悪かったのだ、とみなされるしかないとする確率論的な社会観の是認は、悲惨を他人事としてみられることですんだ(戦後)平和ボケ時代の延長のままなのではないか、しかし我々は、もう他人事(部分的な)としてすまされない我が事(全的な)の事態として受容せざるをえない時代に転換してしまっているのではないか、といった。山城むつみ氏の『ドストエフスキー』を引用しながら、モーセの時代のように、と。つまり、ベックの認識背景にも、実はそんな平和ボケに回収されてすんでしまうのではない、「全的なカタストロフィー」が前提とされているのだから、と。しかし、「全的」とはなんだ? モーセが感受したものは、その現場・地域においての話じゃないか? 今回の震災や原発事故だって、日本だけのものじゃないか? かわいそうだが仕方のないこと、と募金やエールが飛んでくるのではないのか? テレビやパソコンで世界中の悲惨が受信できようと、そのテクノロジーの社会自体が、まさに平和ボケでしかありえない我々の感性を規定してしまっているのじゃないか?……
つまり、ここで、一希の出番なのだ。どんなにデジタルなテクノロジーが人間(子供)の脳髄を暗記過剰にさせようと、人間(子供)は忘れてしまう。それがなかった昔と同じように。つまり、あのモーセが世界を感受したように。この本源(健全)的な身体規制において、部分というのはありえない、のだ。今ここが、全的に更新されていくのである。もし一希(子供)が世界(他の地域や他の悲惨)と交わるとしたら、この一点においてである。というか、その一点でしか合点できない。子供に戦争の悲惨さや社会の恐さなどを説教しても理解されないのはそのためだ。一希は津波で死んでいった人々の映像をみても他人事である。しかし彼は、なぜか深く理解している。まさに当事者と同じ者として。忘れるのは、むしろその深い理解のためかもしれない。しかし忘れるとは、それを懐深くしまいこむことだとしたら? 大切なものとして。「全的なカタストロフィー」とは、それゆえ、「今ここの更新」という一点において感受される世界体験のことだろう。私にもそんな能力があるはずなのだが、平和ボケのほうが大きいのだろう。が、忘れていたその体験が、今回呼び覚まされたのではないか、ということなのだ。実際、3.11以降、気分的にそれ以前と同じではいられない。この変な感覚が、そのうち平和な日常感覚にもどっていくような気がしない。どこか、関節がはずれたようなのに、その箇所がまだつかめていないような……四十肩で生活している感じに似ている。(「腕があがらんが、どこか変だなあ」、と。)これは、私だけではないだろう。
一希のげらげら笑いを見ての「今ここ」と「世界」という飛躍的な概念連結の連想……ときたところで、今日、というかさっき、守安敏司氏の『中上健次論』(解放出版社)を読み終える。「今ここ」の肯定、といえば、やはり中上健次か、ということで。その守安氏の柄谷批判は、冒頭引用した、藤木氏の『刀狩り』論の構えと似ている。つまり、藤木氏が、秀吉の刀狩りによって民衆が骨抜きにされたというのは史実ではない、とするように、柄谷が中上作品に読んだ、一向一揆の部落起源説に対するまずは事実的な是正批判からの開始である。
<繰り返されるこの柄谷の主張は、完全な誤りである。もともと、当時、細工とは河原者と呼ばれた賤民であった人々が一向宗徒となり、信長と戦い、敗北し、後に、穢多や皮(革)田と呼ばれたのである。つまり、被差別部落になったのである。言いかえれば、賤民でなかった良民が一向宗になり、被差別部落とされた資料は、現在までのところ一切存在しないのである。故に、被差別部落が「近世市民革命」(近世に市民が存在したかどうかは、ばからしくて問う気にもなれないが)の敗北で成立し、「浜村孫一」の敗北で成立したとするのは決定的な誤謬である。…(略)…また、超時代的に言ったとしても、被差別部落民がそうでない地域と比して、特別温かかったり、冷たかったりするわけではない。ここに至っては、ある種、柄谷の差別性すら感じてしまうが、そんなことは、常識的に考えても判断のつくことである。>(前掲書)
柄谷氏の言説が説得的なのは、その文脈が、たとえば、日本ではデモが少ないじゃないか、といういかにもわれわれが首肯せざるをえない現実との関連において形成されてくるからである。やはり一揆から「刀狩り」され江戸体制で確立された制度的感性がなお我々を支配しているのかな、と。しかし「民衆(市民)」とが、中上の作品にでてくるような、「今ここ」しか知らないような馬鹿みたいな主人公だったらどうだろう? あるいは、守安氏が「はじめに」で触れてみせる、<また私の接した気性の荒い漁師たちとよく似た中上作品の登場人物>のような者たちだったら? 『刀狩り』の藤木氏は、それが実際に武器をとるということよりも、むしろ尊厳を骨抜きにさせていくための「象徴的な行為」としてあったと指摘しているが、人間<(作家)の歴史(作品)>にとって重要なのは、「事実」ではなく、それ以前的に「今」をどうするかという意味や思想であったとしたら? なんで「今」デモがないのか? 私自身は、そんな柄谷氏の認識前提自体に懐疑的だが、次回のブログは、守安氏の中上論を中心に、そこら辺について追求してみよう。
2011年11月26日土曜日
論理と実践
2011年11月19日土曜日
人と体制
2011年11月3日木曜日
科学と文体
2011年9月21日水曜日
口先と存在(デモと現実)
子供たちはキラキラしている。日曜日のサッカー練習から帰ってくると、一希は突然声をあげて泣きはじめた。ミニゲーム練習直後のミーティングで、いつのまにかディフェンダーをまかされてしまうチームメイトの男の子から、ずばずばと欠点を指摘されたのだ。いつもおとなしい彼の、突然の口火は、一希をびっくりさせただろう。その前日の試合は、監督からじきじきに、20年来使っているという黄色いキャプテンマークを託されて望んだのだった。しかし低学年とはいえ背も大きく、ひとりひとりが自分の役割とボールへの執着を覚えはじめている新宿のクラブチームとの戦いは、さんざんだった。一勝ニ敗。簡単にドリブル突破ができないことに直面すると、一希の足は呆然としたように鈍くなる。守備にも走らなくなる。そうなれば、常に自陣に追い込まれ、シュートの応酬だ。後半はキーパーにまわさせる。中心選手がいなくなったチームメイトは、なんとかパスをまわしはじめてサッカーらしくなってくるが、前に進んでいかない。シュートの応酬はさらに増える。キーパーとして一希は相当はねかえした。そして自分のいないフィールドで、今まで活躍を抑えられていた他の子どもがなんとかシュートを決める。ベンチコーチを任された父親としては、そうやって一人一人がゴールを決め、一皮向けて成長していく環境を作ってやる。しまいにはベンチに控えさせられて、「俺をださせてくれ!」と訴えはじめた一希を、若いコーチが出場させてやる。やっと切れがもどって決勝点を決める。しかしまた、一希のドリブルがはいると、チームとの連携がその分遅くなり、なおさらドリブルも思い通りにいかなくなると、力を抜いて足が止まる。「交代させるぞ!」私はおもわず叫んでいた。この身体的怒りはどこからくるのだろう? サッカーをやったこともない私が、サッカーコーチや父兄からベンチを任されたのも、自分の子供をえこひいきせず、他の子供たちと公平にみられる「大人」であるからだろう。しかしその公平的な感覚が、どこからくるのか、と内省してみると、それは私にも覗けないおぞましい世界からやってくるようにおもえる。
一希はいわば、自分の足元しかみえないいまの身体的くせと、他の子供の身体との連携をどうするかでとまどっている。すぐボールのまわりで団子になる(他の子のボールを横取りしにいく)その様を、後でみていたおとなしい子に指摘されたのだ。泣きじゃくる一希にむけて、私はいう。「弱い子は、よくみえているんだよ。口先でいっても、人の心は動かないよ。人をなめていはいけない。いっちゃんはキャプテンに選ばれたんだよ。」……しかし実は、私はこの言葉を女房に向けて投げていた。二人の性格に似ているところがあるからかもしれない。口先がうまく都合がいいというか……。私は、女房と市民活動への関わりの自己欺瞞を指摘していたのである。いまおまえが、子供の給食の放射能がどうの、東北支援がどうの、公園の草っパラや生活クラブでの活動がどうの、といっても、ではおまえの当初の反応、初動体制はどうだったか? 私がフクシマ原発は爆発するかもしれないと、団地トイレの自然換気口をハンカチと新聞紙で目張りしているのをバカにし、しかも4月に入るやそのハンカチを私への嫌がらせのように登校する子供にもたせ、家での団欒で子供がプールの水を抜く前にみんなでヤゴ捕りやったというのを聞いてびっくりして女房に確かめると「だからなに? 心配なら自分で抗議にいけ」と無関心。が、だいぶあとで、関わる市民グループの間でも問題化したのか、なんだかおまえが一番口だけ達者係りなようだ。しかし、他の人たちはみえているんだぞ、それがどんな動機からきているのかを。親方の息子は、女房を評そうとして口をにごらせたことがあった、私は推論した、言いたかったのは、「お嬢さんなんですね」、ということだったろう。おまえが生活クラブにいるのも、その階層にいることでなにか回復させたい自己があるからなのだ。自分が水俣病をおこしたチッソの役員の娘であり、通産官僚族の親類世界にいたことがまず自らの身体反応を作っているのだ。おまえが事故当初、東電びいきな判断をしていたのは、自分のそんな子供時代の何かが壊されるからなのだ、そしてその破損を修復するために、市民左翼的な階層に参加しえている、根源的な反応(身体のくせ)をごまかすために、原発事故の事象を利用して騒いでいる……そのことを、「お嬢さん」ではない参加者たちは見抜いている。人をなめてはいけない。しかしまた、現に大学での「お嬢さん」階層に属しているエリート旦那の奥さんがたは、おまえがそこにいることに違和を抱いているだろう。おまえの自意識がどうであれ、もはやおまえは末端の労働者の女房なのだ。そう存在してしまうことと、自分がありたいこととの意識とのズレを自覚できないとき、人はイデオロギー(口先)に染まる(陥る)のである。――「運動の指導者になりたい人たちはたくさんいます。この人たちはテーマは何でもよいのです。人をたくさん集めて何かをする大衆運動が好きなのです。これは、集団行動するサルの習性ですから、人がこのようにするのは当然で、非難すべきことではありません。」(槌田敦著『エコロジー神話の功罪――サルとして感じ、人として歩め』 星雲社)
泣きじゃくる子供と、熱中症で熱があるとその子を抱える母をあとにして、私ひとりで、9/19日の「さよなら原発」のデモにいってくる。人よりも、私には、のぼりの旗がめだった。そのためか、ここは、時代劇によくみる、戦国時代の戦場というか、その歴史に従属している空間であるようにみえてきた。私がここにいることは、何事であろうか? どういうことであろうか? 「福島県の子供たちは、熱中症にもなれないんだぞ。自分のことばかりではなく、パスをだすんだ。」そう子供にいうことで女房に言い聞かせて家をでた私は、のぼりで埋まる空間に埋まっていた。「自分を愛するように隣人を愛せ」……あの怒声、身体の反応、他の子供たちとの公平の感覚は、どこからきたのだろう? 私はその試合中、私が少年野球をしていたときの父との関係を思い出した。監督をしていた私の父親も、むしろ息子には厳格だったほうだろう。ならば、父はなぜそうなのか? 私はこの怒り、不公平感を、三人兄弟のなかで、女の子代わりになっていた私への母のえこひいき――こっそりお菓子をくれるとかの――に原因をさぐっていた。ならばその怒りとは、「私を男としてあつかえ!」ということなのだろうか? 「女(娘)として支配しようとするな!」ということなのだろうか? 女房(娘)とその母との関係は、まさに長女と母とのすさまじき関係であり、あったようである。会えば喧嘩する。その娘を、私よりも10歳以上も年上のその女を、私は「妹」と感じていた。そう暗示したいつかの発言を、女房は理解したと暗示してきたことがあった。つまりわれわれは、親子という縦割りの関係を出た者どうしの、「兄ー妹」という、連帯的な同志関係の感性として築かれたのである。女房の気性の振幅は、だから私が「男=支配」から降りたところからきているのかもしれず(つまり私を「女」として認めろ! あるいは老いへのあがき…)、逆に、それでいて、私が「男=支配」として出現することがあることからの嫌がらせ(こちらに気づかせるためのあてこすり)、ということなのかもしれない。……となれば、身体からの怒りとは、公平を要求する女たちからの怒りなのかもしれない。それが、父という審級を貫いてやってくる。「自分を愛するように隣人を愛せ」。……腰を痛めて原宿駅で脱落した私は、家に帰って寝転びながら、図書館から借りて読みかけの、冒頭引用の山城氏の『ドストエフスキー』を読んだ。そのイエスの「愛」の言葉が、「復活」という現実に結びついているという論理に目が覚めて。この3.11の大災害で、わが子を失った父親の嘆きのなかに、わが子の「復活」が現実でありうることを知って。
<『ヨブ記』にあるのは《邪悪で不正な人々が安逸を貪っているすぐ傍らで、善良で正しく生きようとしている人に災厄が降りかかるというような不公平がこの世に存在するのはなぜなのか》という、この問い以外はすべて神学的なおしゃべりにすぎなくなってしまうような人生の難問だが、『カラマーゾフの兄弟』はこの問いの全重量を《何の罪もないこのこどもに災難が襲いかかるのはなぜか》という一点で支えようとしている。…(略)…《ほかでもないこのイリューシャにこのような不幸が降りかかってこの子が死なねばならないのはなぜなのか》。これはヨブの《なぜ》である。むろん、そこに理由などない。ただの確率的問題があるだけだ。しかし、そんなことは分かっているのだ。分かっていても《なぜ》は消えないのだ。否応なく確率的位相に放り込まれ、それにほんとうに苦しんでいる人は、世界の基底に確率性を見出す洞察で満足したりはしない。…(略)…それは《私のこどもが私のこどもであるのはなぜなのか》と問うことに等しい。親子の愛が問題なのではない。モラルではなくて「存在」が問題なのだ。…(略)…「ぼくは死んだら、いい子をもらってよ、ほかの子を……あの子たちの中からいちばんいい子を自分で選んで、イリューシャと呼んでさ、ぼくのかわりに愛してあげてよ…」(略)…「ほかの子」にはどの子がなってもいい。…(略)…十二人ほどのこどもたちのうちどの子でもかまわないのだ。彼らは今、追善供養のプリンを食べるためにスネギリョフの家に戻ろうとしている。「こどもたち」というルーレットは、アリョーシャを中心に水平に回転している。盛んにはじけ飛んでいる玉もやがては静止するだろう。どの子の上で玉は止まるのか。繰り返すが、どの子でもありうる。しかし、だから賭けるのがルーレットではないか。カルタショフ少年に賭けよう。こどもたちは、ヤシの木のまわりを高速度で回転したトラたちのように、すでに個体性を失ってバターのように流動しているが、それでもカルタショフ「らしい」ひとりの特異性(単数性)は聞き分けられるのだ。ちょうど新生児室の赤ん坊たちはどれも似たりよったりで個体性をほとんど持たず識別不能だが、笑顔ひとつ、泣き方ひとつ、しぐさひとつ、しかめている顔ひとつとってもどれひとつ同じものはなく、それぞれ異なる単数の出来事が不断に感受できるように。カルタショフ「らしい」その「ひとり」が、スネギリョフにおけるイリューシャという固有名のアクシスを寸断し「わが子」という絆を断ち切って介入するならば、そしてスネギリョフとイリューシャとの親子関係を任意の「こども」との関係として全く新しく再組織するような「邂逅」を来たしさえするならば、その場合には、死後に「別の世界」で蘇生などしなくても、「この世界」の中の非ユークリッド的な地点でイリューシャの「復活」は起こるだろう。逆に、たとえこどもたちとスネギリョフが死後のいつか、ふたたび生を受けて死からよみがえり、もう一度、イリューシャと会ってうきうきと語り合えるとしても、平行線が交わるような非ユークリッド的「邂逅」が「この世界」において起っていなかったのなら、死後の世界でのそんな蘇生があっても何の意味もない。こどもには「別の世界」は問題にならない。「この世界」だけが問題だ。こどもが生きている、どんな目的もどんな終わりもない世界が「この世界」なのだ。残忍でありうる力によって善良な彼らは、その善良でありうる力によって残忍さにまみれながらもこのエンドなき世界を、疲れを知らずに動きまわっている。不定冠詞のこども(a child)の場所は定冠詞の世界(the world)だけなのだ。>(前掲書)
2011年9月10日土曜日
自由(=自治・主体)へ向くまえに(=ために)
前回ブログを引き継いで言えば、マッカーサーをマレ人とみる民俗学的見方がかつてあったかもしれないとしても、われわれがそんな素直に来客を神としてあがめられる意識を維持しているわけでもなく、むしろ、外人頼みではあまりに情けない、という世俗現実主義なズレの意識をいまや抱え込んでしまうのが、とくには敗戦からの高度成長を成し遂げた日本人の感性として普通であるだろう。しかし、ということはやはり、そのズレには、つけ込まれる弱さがある、ということも確かだ、ということだ。この主体性(決断力)ということに関し、次のような分析整理を引用しておこう。
<ただし、菅首相は、一度だけ、一瞬だけ、レーニンのように振る舞ったときがある。浜岡原発の稼動停止を要請したとき――というより事実上命令したとき、である。このとき、首相は、自分より上位の審級に、停止の許可を求めようとはしなかった。純粋に自分自身で決断し、自分自身によって自分の命令を権威付けたのである。浜岡原発への停止要請によって、国民の脱原発への支持率が一挙に上昇した原因は、この点にある。その瞬間だけ、国民は、新しい第三者の審級が出現し、脱原発へと向けた実効的な行動を許可しているのではないか、と感じたのだ。>……(この箇所への註として)<菅首相が浜岡原発の停止を要請したのは、アメリカ政府からの圧力があったからだ、と述べている者もいる。私には、真相はわからない。いずれにせよ、「総理の中部電力への要請=命令がアメリカの指令に基づいているように感じられた」という事実は、ここでの私の主張を裏付けるものである。確かに、もしほんとうにアメリカ政府の圧力が理由で、首相の要請が発せられたのだとすれば、「首相は上位の審級の意向を顧慮しなかった」という認定は事実に反するものとなろう。この場合、第三者の審級は、言うまでもなく、アメリカである。しかし、仮にそういうことがあったとしても、そのことは一般の国民にはわからないことだ。むしろ、多くの国民は、菅首相が中部電力への要請を表明したとき、首相のところに第三者の審級が降臨しているのを直観したのだ。その上で、その第三者の審級と菅首相とを重ね合わせることがどうしてもできなかった一部の国民は、首相のさらに背後に本当の第三者の審級を――アメリカという形態で――見出そうとしたのである。「アメリカ云々」の噂がかなりの人に説得力があるように感じられたという事実こそ、むしろあの瞬間(だけ)菅首相の身体の場所に第三者の審級が現前しているのを多くの国民が感じていたことの証拠である。>(大澤真幸著「可能なる革命」第3回 『atプラス09』太田出版)
私の情勢認識は大澤氏のものとは違うが、その問題設定は共有することができる。当時のこのブログでも発言したことだが、私は、菅首相の決断は中途半端なものであり、「要請」という他人に下駄をあずけるような形式自体がいかにも日本的な曖昧さをなぞったもの。が、法的にそんな権限が総理にもないというのならば仕方がない、勇断だ、というものだった。(が後に、環境エネルギー政策研究所の飯田氏の指摘によれば、「要請」ではなく、端的に「命令」することも法的には可能だったそうである。)世論調査の脱原発支持率上昇ということにしても、それはそんな首相の決断とは関係なく、被災避難する福島県の人たちの惨状が、関西方面の人にもわかるようになってきたから、というものである。またアメリカの介在、ということに関しても、私は副島氏が、官邸の後にあるホテルから通じた秘密地下通路を行き来し、大統領からの全権委任を受けた〇〇という政治家が様々な支持をだしているのだ、という話も、明治以降の日本の歴史や、現今の他の第3世界や被植民地国の様を想像すれば、十分ありうることだと認識する。しかし、現実の問題とは、そうした事実にはない、あるいは、それではすまされないと認識するがゆえに、私は大澤氏のような問題設定を共有するのである。しかしまた、その現実設定が、事実(裏話)をいかがわしき噂として見向きせずともよい高尚なものだ、ということでは全然ない、と考える。なぜなら実践とは、単に下世話で世俗的な次元においてしかありえないからだ。人々がデモをするのは、政治家の行きすぎた賄賂といった腐敗、官僚や財界人の行きすぎた内輪びいき、自治を阻害する行きすぎた権力行使、こういったありきたりのものに対してだろう。こうした世俗の活動なくして、われわれの精神は健全さを保てない。つまりそこにこそ、逆に現実的なものへのアプローチが実践的につながっている、ということなのだ。
ラカン派の精神科医というべきなのか、斉藤環氏は、次のように発言している。
<しかし人災としての「フクシマ」はそうではない。それは予防可能な人災でありながら、いまだ測定不可能な被害をもたらした。この測定不可能こそが潜在性の領域であり、それゆえこの潜在性は、その意味も定位も定かではないまま「フクシマ」という表記のもとで象徴化される。これこそが潜在性の現実化にほかならない。/「フクシマ」の潜在性は、われわれの「日常というプログラム」を書き換える。この日常の多層性に”放射能というレイヤー”が強制的に挿入されたのである。さきに引用した浅田彰の言葉に戻るなら、この日常の多層性は「フクシマ」によって豊かにされた、と言うべきだろうか。/たとえば「分裂病」のような、完全には予防不可能な潜在性の問題については、そのように言いうるかもしれない。現実的には治療の対象でありながらも、その存在そのものは「肯定」するほかはないということ。逆説的な言い方になるが、こうした肯定のもとにおいて、分裂病の治療という「可能性」について、われわれは考えることができる。/しかし「原発事故」はそうではない。それは予防可能な潜在性の「現実」化にほかならず、まさにその予防可能性において「否定」されなければならないからだ。…(略)…ならば、はたして被災した時間は修復できるのだろうか。最大の処方箋は”政治”しかない。全面的な脱原発へと向けた現実的選択へ踏み切ること。それは科学ではなく思想の選択であり、論理性よりも象徴性を優先させる選択でもある。だとすればそれは、はっきりと政治の領分なのだから。/繰り返し強調してきたように、もはや原発との共存は、少なくともそれを選択することは、この列島においては、分断された時間と破壊された想像力を温存することしか意味しない。だとすれば、何の恥辱も感ずることなしに、そうした選択は不可能である。/ふたたび「未来」を回復するには、われわれにはまだ「時計の針を巻き戻せる」ことを示す以外に手段がない。そのための脱原発であり、かくして「フクシマ」の潜在性は、このうえなく強い否定のもとで象徴化されるべきなのである。>(「”フクシマ”、あるいは被災した時間」『新潮』2011.9月号)
あの宝島社のマッカーサーの広告をみて、もはやイロニーに陥らず、それがなんのことかわからない、その白痴的な健忘症を手に入れたとき、私たち日本人は健全になるだろう。つまり過去から自由になるためには、ひとつひとつの段階をクリアし、日常において自信を回復させていくしかない。被災避難したフクシマの農家が被曝した牛を連れて東京の街中をデモをする。それがまったく健全な道筋であることをわれわれは疑えない、そのように、もはや当事者としてのわれわれが、街中の闘争で勝ち、自信を反復させていけるかが、現実(潜在)的なものの領分(最後の審判=審級)をこの世界に降臨させるのである。
2011年9月2日金曜日
放射能と(再)占領
2011年8月28日日曜日
「食べる」vs「食べない」を克服するために 2
2011年8月22日月曜日
「食べる」vs「食べない」を克服するために
京都大学の研究所の小出氏の話は、どうも一般には放射能は「危険」という立場に立つことから「食べない」派のように受けとられている、あるいはそちら側の(教養ある)人たちに受け入れられているように見えるが(「食べる」側は知識教養のない無知な大衆、ともなっているようにみえる……)、私がネット上での発言を聞くかぎりでは、むしろ「食べる」側なように聞こえた。というか事故後出版された書籍では、そう「食べる」べきだと書いているのだそうだ。ラジオ発言などでは、そこらへんは意識的に曖昧にする、というか広範な知的大衆をおもんぱかって口ごもる、という感じだった。といってもこれは、「安全」だから「食べる」、ではない。「危険」でも「食べる」べきだ、ということと私には思えた。しかしそれゆえに、きちんと調べ、情報開示しよう、と。そういう話をきいてこれは具体的実践としてはどうなるということなのかな、と思い浮かんでくるのが、ダイエットのやり方だ、ということだった。商品に値段ラベルだけでなくカロリー表示がされていたりするように、ベクレル表示が印字され、カロリー計算しながら食生活を管理してゆくように、ベクレル計算しながら食品消費をコントロールしてゆくのだ。ここんとこはこれだけのベクレルの肉を食いすぎたから、今月は体を休ませるためにひかえておこう、とか。小出氏が具体的にどうイメージしているのかわからないが、私には話を聞きながらそんな生活が思い浮かんできたのである。それだけどうしょうもない、逃げられない、あとにはもどれない現実なのだと。しかし条件として、と小出氏は書いているのだそうだ。子供たちは巻き込まない。日本の農業をどうすべきか、を考えること、と。
NPO「ゆうきの里東和」では、高額をだして線量計やベクレル測定器を導入している。それだけでは数が足りない、だから時間がかかってしまう、と。理事菅野正寿氏は話す。……手入れをすればするほど放射線率は落ちてくるのです。隣の川俣町では背丈ほどの草でぼうぼうです。それではいつまでたってもそのままです。たしかに刈った草は、畑の脇におくだけだったり、中には深くすきこむことで処理したりする人もいます。できるだけ外にだすように指示してますが。しかしそれでも畑が除染され農作物の線量が落ちるのです。セシウムはアルカリ金属なので、堆肥をまぜれば作物への吸着がさがります。堆肥の放射能が問題となっていますが、家庭菜園ではまとめて使うとしても、畑ではばら撒いて使う程度なのです。農作物のなかにはカリウムがはいっていて、その自然放射線の量も計測されてしまうのですが、それと同等くらいまで落ちるのです。それでも入っていないものが入っている、だから食べないという人たちもいるでしょう。それは消費者の判断に任せます。しかし新聞などが、根菜類は移行係数が高くて放射能物資が多く含まれやすい、などとチェルノブイリでの研究論文かなにかをひっぱってきて書くと、すごい影響がでます。しかし実際に測ってみると、そんなことはないのです。たぶん、チェルノブイリと東和では、土が違うのでしょう。そういう学者もいます。3月25日に政府のほうから種まき中止令がでて、4月12日に解除されました。作っても売れないのじゃ作らないという声もありました。だけどお願いして、種をまきました。そのとき作っていなかったら、いまは売るものがなかったかもしれません。売り上げも、9割ぐらい回復してきました。しかし、福島県ぜんたいでは、3割程度に落ち込んでいるのです。――『脱原発社会を創る30人の提言』(コモンズ)でも「次代のために里山の再生を」と書いている菅野氏の話の表情は、物静かだったが、悲壮を押し殺し悔しさが滲み出て来るようにみえた。「じいちゃんばあちゃんと、孫の食卓が別々なんです。」「心の除染も必要なんです。」
東和町のような取り組みは、福島県でもまれなようだ。しかし2年成功が続けば、他の地区も後追いするだろう(しかし高額な線量計やベクレルモニターをそろえるだけでも大規模な支援が必要になる)。しかしまた、自営業的な方々が、数年もちこたえる、というのは大変なことである。そしてここ数年で、世界経済の情勢は激変するだろう。戦時中のように、農家へモノをもって食い物と交換してもらう、放射能入りでも、という時代がくるかもしれない。そのとき、単なる個人主義者のいやしさと、狂乱的な集団主義者のあさましさとが陰険な対立をはじめるのかもしれない。そうはならないためにも、われわれ日本人は、中庸の実践を模索しなくてはならない。世界に開かれた形で。むしろ次なる世界へのヘゲモニー争いで、負けないように、われわれの思想を呈示し率先していけるように。