2020年1月11日土曜日

多和田葉子をめぐる(1)-※(付記)





私は、自分の息子に、「一希」と名づけた。

出典は、柄谷行人の署名を持つ『NAM原理』(太田出版)である。



<それは絶え間ない生成過程にあり、今後の実践の中で書き加えられていくだろう。とはいえ、これは、過去二〇〇年の社会主義運動を総括し、今後に、唯一、積極的で可能的な方向を与えるものだ、と私は思っている。少なくとも、それは私自身にとって「希望の原理」である。>(序文より)



私の母は、この「唯一」の「希望」として想いをたくされた「一希」という名を、「かずき」と読ませたほうがいい、と手紙で助言してきた。字画数や何かで姓名占いをしてみると、その発音では、ひとと角があたって調和しにくくなる、というのだ。私が、「いつき」と、読ませていたからだ。「一揆(いっき)、みたいでしょ。」とも、電話で話したときは言ったであろう。

「住んでるアパートの隣部屋の子供の名前が<かずき>なんだよ。」と私が言うと、「それではだめよねえ。」と、母は押し黙った。

 私は、日本語の口の使い方だと、「スズキ」という苗字からしてイ音が続くその仮名綴りが、言いにくくなることでためらわれるのは理解できたが、むしろその音にこそこだわったのだ。そういう名の人物がいるのかなと、インターネットで検索してみたりした。トップであがってきたのは、歌舞伎町かどこかのホストの、源氏名だった。「いつき」と読んでいる。じゃあ、格好いいということじゃないか、と私はそのまま名づけることにした。「一希」という字面の名は、生後、散見している。Jリーガーにもいる。がその発音は、やはり「かずき」というのが多いようだ。

「一希」という字面が、キラキラネームであるとするのは微妙だろう。「かずき」、と読むならば、和風により近くなる。そういう文体感に、つまりは自明視された近代文学を通した語感のなかに私たちはいる。が、きらびやかな風俗産業で働くホストが源氏名で「いつき」と自身を呼ばせるとき、それを聞いているお客と店の空間には、そのイ音の連なりが、異国風の雰囲気をただよわせはじめる。しかも、まだ字を知らず、「いつき」という発音だけでは、「女の子」なのかともおもわせる。「なつき」などの女子名が連想されてくるからだ。実際、見かけの性が不定な赤ん坊のとき、「一希」はよく女の子と間違われた。男性であることもが異化されてき、一層の非日常的な異空間を現出させてくるのである。

 私はそういう知識を、まずは中上健次氏の作品や対談から得ている。中上氏は、イ音にまつわる日本語と朝鮮語との関連について、どこかで述べていたはずだ。中上氏の作中にも、「イーブ」と自身の名前を読み直し、歌舞伎町のホストとして働く主人公がでてくる。



<次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。…(略)

イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神(カミ)―神(カム)ながら、身(ミ)―身実(ムザミ)、月(ツキ)―月夜(ツクヨ)…(略)

 エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。>(橋本進吉著『古代国語の音韻に就いて 他二編』 岩波文庫)



この研究から言えることは、イ音の連続は、少なくも日本語として書き言葉を模索していた奈良時代の体制言語当時でさえ、言いにくい外国語の感じがあったということだ。それゆえ、時代がくだると、なおも変化することになる。



<平安朝において、音便といわれる変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音イ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで…(略)…また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。>(前掲書)



「いつき」と強引に日本語として発声させていくことの葛藤が、「いっき」という呼び名を誘発させてくるのである。母が「一揆」を連想しただけでなく、「一希」のまわりの友達は、当然なように音便変化させ、「いっちゃん」とか「いっき」と呼ぶようになるのだ。とくには、この小さな「つ」の促音は、関西から関東へと体制の中心が移った後、江戸っ子の言葉として頻繁に発声されはじめ普及したようである。(ネット情報)



 私は、自身でつけた子供の名前が、日本語の語感を異化していることに自覚的であった。上のような教養もあった。しかしそんな教養のない人たちでも、とくにはより若い世代では、その異化効果こそが、ネーミングの要であると、意図しなくとも意識しているはずだ。端的に、普通ではもう読めないからである。当事者はむろん、それを意識するだろう。団塊世代の職人さんの孫の名前は「萌亜菜(もあな)」だ。夫婦ではじめていったラブホテルの名前からとったという。他にも、私に来た年賀状からあげると、「紗菜」「凛乃」「凛心」「虹花」「蒼葉」「晴登」「雷」「冴」「寧」「英」……最後も、兄弟でみな一文字なので、「えい」と読むのか「ひで」と読むのか、いやどちらもちょっと変な気がするから調べてみると、「はなぶさ」「はな」「あきら」「あや」「すぐる」「たけし」「つね」「てる」「とし」「ひでる」「ひら」「ふき」「ふさ」「ぶさ」「よし」、というような名前読みがあるのだそうだ。

 私は小学生のサッカーチームのコーチをしていたとき、選手名簿に子供の名前を記入してから出席をとっていたのだが、イメージ喚起は強いがその文字面が読めず、そして、なかなか覚えられなかった。



 それらは、和風であってもどこか変で、異国風であっても、ほんとに外国語であるわけではない。つまりは、私たちは、ここではないどこかへ逃亡したいのだが、実際に行くのではなく、その代わりに、文字によって、その発音によって、外国まがいの異国情緒によって、自身の内なる葛藤をなだめようとしているのではないか? その葛藤は、外との折衝たる現実からくるはずだが、日本語による活動によって、それが自覚しずらくなっている。自分の目をごまかすために、現実から目をそらすために、自覚的に母国語を使っている、などということはありえない。しかし意図的ではなくとも、ちょっと使用した、ここでは自ら名づけた子供の言葉を振り返ってみれば、意識せざるをえないほど明白な事態なのだ。自他の区別、男女の区別さえもが曖昧に溶解して幻出し、ここではないどこかが志向されている。が、そう意図的に思考しているわけではないとなれば、私たちは、それを反省する気にはなれない。そのきっかけが、モチベーションとして、内面的な強度をもちえない。自分のことなのに、他人事となる。

 しかしこの事態は、個人の内面だけのことですむのか?



「令和」という元号は、万葉集が出典である。

 今回のその元号を、「れいわ」と読むとき、その発音はどこか異国風だ。少し、舌がもつれるような言いづらさを伴う。だから、「れえわ」、とイ音を転音させて言いたくなる。しかし現政府は、それが万葉集からの日本語だとして提出したわけだ。

 おそらく、この元号を受けて、子供にその文字面の名前を名づける親も出てくるだろう。しかしそのとき、そのように読ませるには、素直にはなりたくなくなるのではないか、というのが、これまで展開してきた分析からの推論になる。「れいわ」が日本語音で遍くなったのならば、それをさらに、異国風に異化してみたくなる、よりここではないどこかへ独り立ちしたくなる、目立ちたくなる、というのが、日本語の主体とも言えない主体運動であると理解できるからだ。実際に、この「令和」という文字面は、次のようにも読みうるという。「えれな」「おかさつ」「おさたか」「おさちか」「おさとし」「おさとも」「おさまさ」「おさやす」「おさよし」「おさより」「かざれ」(みんなの名前辞典)……いや、名づけ名は、自由に読む=呼ぶことが法的に許されているそうなので、私なら、「ぜろなん」とか、ポケモン風に呼ばせて役所に提出したいぐらいだ。しかしこうした事態を、いったい何が生起しているのかと、整然と記述しうる論理性を、私たちは所持しているのか? 錯乱とも気づかず、平気なだけではないのか?



 天皇の代替わりに名づけられる元号。そもそも、「天皇」という日本語自体が、中国の「皇帝」に対する言葉上の区別、異化としてあらわれた。本当に大国と対決する意思として自覚されたのかは、怪しい。そう相手を挑発してしまう、そうなってくるとは、いくらなんでも意識はしただろう。が、そのことで、大国たる相手が、荒海をこえてこちらまで攻めてくるかもしれぬと、現実的な切迫感をもって、意図したのだろうか? のぞむところだ、と覚悟があったのか? 来やしない、来られやしない、と見越した、単なるはったりをかましただけだったのではないか? 「遣隋使」を送った聖徳太子の当時は知らない。が、このはったりは、それから2000年近くたった現在においても、諸外国にも、そして国内的にも、効きつづけている、といえる。大敗を喫したとはいえ、私たちは、図らずも、隣の大国どころか世界相手に戦わざるを得なくなって、その記憶が、世界史として刻まれてしまったからである。「図らずも」、意図せずして、というのは、もちろん、戦後の裁判で、誰も、天皇みずから、そんなことは望んでいなかったと証言してきているからである。いったい誰が、覚悟を決めて大戦に踏み切ったのかわからない。ならば、こちら側としては、から威張りな、目立ちたがり屋な、はったりでしかなかった、ということだろう。

 もちろん、はったりをかましたくなる、この野郎という心情には、嘘いつわりの入る余地はない。ほかの諸部族でも、そんな気持ちは起きるかもしれない。が、そこからとられた現実政策としての、日本語の建造には、前提とされる現実との距離的な入力値を、誤ってしまったのではないか、ということが、事後的な今、推論されてくるのだ。東日本大震災後に繰り返された「想定外」という認識放棄を肯定する言葉は、むしろ私たちが、現実を隠蔽するために、敢えて言語的にも地政学的にも距離を不正確に測って計算し、偽造していっている様を露呈させた。この私たちの態度は、もしかして、太古の島国が設けた不整備な認識装置がもたらしているのかもしれないのだ。そしてその不整備な装置の最中にいるからというだけではなく、図らずもやってしまったためのはったりが今なお内外に効いているために、変革や更新の必要性を感じさせない、その必要が自覚されてこない。



 山城むつみ氏は、太古の書冊を典拠に戦争へと編成されていく時局に抗し、『万葉集の精神』を対置させた保田與重郎を論じるに、こう締めくくっている。



<保田與重郎は、『万葉集』の「精神」のメタモルフォシスだけではなく、そのアナモルフォシスも示していた。むろん、明示的にそれを描いていたわけではない。だが、彼がそれをみていないその盲目性の中心は、たしかにそれを示唆している。『万葉集の精神』を読むとは、最終的には、そこに焦点を合わせて凝視することである。そうすれば、メタモルフォシスがその勃起を誇示してみせた「精神」は一転して萎縮する。『万葉集』の「精神」をその起源から批判し、その並々ならない精力を去勢するのは、何よりも、保田自身がその盲目性の中心において示唆しているその明察ではないだろうか。>(『文学のプログラム』所収 講談社文芸文庫)



 多和田葉子氏の作品を読むにあたり、山城氏の上の箇所が重要になるのは、日本語という認識装置の有り様をその「起源」の時点で問題注視しようとしているからだけではない。そこに、日本語という特殊をこえた、洋の東西を問わない国語一般の背後にあるかもしれぬ、男根主義(ファロセントリスム)を喚起させているからである。山城氏がここで保田の著作にみようとしているのは、『万葉集』」の編集にあたった武家の名門、大伴家持の「ますらお(男根)」が、「勃起(メタモルフォシス)」して暴れたのではなく、「萎縮(アナモルフィシス)」へと変容していった一事である。

 私たちは、多和田氏の作品に、その文字ずらの、言葉遊びにもみえる言語活動に目がゆきがちになる。が、その内容を受けるならば、彼女が主題として射程にしているものが、男性中心主義的に偏向した思考や趣味なのではないか、ということは明白なぐらいである。文字それ自体やイメージの諸表層に注目して作品から意味を排除した読解批評が席捲したため、作品の主題を論じることが忌避される傾向が文芸界には瀰漫しているかもしれない。が、多和田氏が、言葉と戯れるポスト・モダニスト的な文学活動に専心することに関心があるというよりかは、そうした営みこそを根底から支持している思想性こそを穿ちたいのではないか、いや攪乱させたいのではないか、ということの方が、正直な読みになるのではないか。彼女にいわせれば、「戦争」へと人を導いていくかもしれぬ言語のあり方自体を、性への眼差しを通して壊していくこと、その意欲が、私が彼女の作品から一番読み取れる一事である。



「現代文学なんかやってもドイツ人に負けるに決まっているだろう、と和男は道子に向かって何度か言った。負けるって何のことよ、戦争じゃないのよ、と道子は言い返した。戦争のようなものさ。和男は内心思ったが口に出しては言わなかった。外国に住んでいながら、“戦争”を少しも感じていないらしい姉は意外におっとりしているのかも知れない、と和男は思うのだった。言葉がきついので、きつそうに見える姉も、本当はおっとりしているのかもしれない、と和男は思うのだった。そう思うと姉が好ましく思え、姉の言うことにも腹が立たず、言い負かされたという気持ちにならずにすむのだった。」(「ペルソナ」/『犬婿入り』所収 講談社文庫)



 いかにも日本人であることを前提的に象徴させるような「道」と「和」という文字をもった姉弟だが、姉は、弟を「中性」ではないかと感じ、その弟は、「戦争」という益荒男ぶりを萎えさせていく関係を、近親相姦的な姉との間で作っている。とりあえず日本人であることをその主人公名からして引き受けながら、その思想価値とは抗っていきたい意志が、この初期作品からも伺えるのだ。



 しかし断っておいたように、具体的に多和田作品を読み解いていくまえに、次は、日本語という認識装置、さらには国語という私たちを規制してくるより一般的な問題のあり方を、理論的に追っていく作業が先である。


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