2022年7月28日木曜日

元総理暗殺まで(2)

 ホリエモンが、「世間体」とかいう歌をコラボした女性が、ワクチン未接種なのを知って、彼女を「バカ」だとしてその関連を断ち、ネット上からもコラボ動画等を削除したという。ワクチンを受けてない人は自分との関係を自ら削除してくださいと発信しながら。ので、私もチャンネル登録を削除した。この産業技術信仰も、カルトである。


古館伊知郎が、自身のユーチューブで、ワクチンが科学的に妥当なのかは、調べてもわからない、と発言している。古館も、「バカ」なのだろうか? 


N党の幹事をしている、つばさの党の黒川は列記とした反ワクチン派だが、堀江は、ならば立花党首との関連を、どう考えるのだろうか。


デモクラシータイムスで、五野井氏がトランプ現象は宗教問題なのだと指摘したが、私も同感だ。中絶問題は、生命尊重と、選択の自由自体の尊さ、という原理的な価値の争いになっている。理想としては全ての命の尊重といきたいけど、現状の女性が置かれた社会では中絶も仕方ないよね、という実際的なグレーゾーンが排除されてしまうかのようだ。


ウクライナの戦争もそうだ。もとウクライナ大使の馬渕は、陰謀論が真実なのだと力説するが、その論法は、2次創作的である。一例をあげれば、9.11で崩壊したワールドトレードセンター跡地での新設ビルの名前はワン・ワールドトレードセンターだ、つまり一つの世界政府設立を企んでいる勢力があるのだと。名付けに関するやばい議事録でも出てくれば別だが、その想像的飛躍は、大塚英志が指摘したサブカル・コミュニティを成立させている熱狂と同質である。島田雅彦が、ディープステイトという用語を使用するのは、小説家としての想像力を使わなくては理解できない社会だと自覚的にである。


五野井氏の発信にあるように、現実の複雑さを単純に処理したくなる切迫さが、世界に充満しているのだろう。


宗教は民衆のアヘンであるという、そのアヘンを吸っていないとやりすごせない社会が全的になってきたのだ。


2022年7月27日水曜日

元総理暗殺まで


 相模原市の福祉施設での殺傷事件から6年目の7月26日、秋葉原で殺傷事件を起こした者への死刑が執行された。安倍元総理を殺害した者へも、死刑が求刑されるのでは、と騒がれはじめている。


国家が、今さらなように見出した、何者かたちへの見せしめのように、その日を選んだわけではないだろうが、勘繰りたくもなる。


ユーチューブの「デモクラシー・タイムス.」で、元総理暗殺が、アベガーの影響などという狭い見方ではなく、トランプ現象にも通じた広い見方で捉える必要があることを議論している。


・「"新自由主義とカルトに追い詰められた”ジョーカー”のツイートを読み解く五野井郁夫さん」

https://youtu.be/RGA3vklkHtc


ウクライナをめぐる戦争も、プーチン(ジョーカー)の拡大自殺という枠を超えて、ウェストファリア体制以前の、16世紀までの戦国宗教戦争として把握していく必要があるのかもしれない。


※参照ブログ


右翼的なものの再来

https://danpance.blogspot.com/2022/07/blog-post.html?m=1



「 『進撃の巨人』論」

https://danpance.blogspot.com/2022/03/blog-post_14.html?m=1



「映画『ジョーカー』とハロウィン騒ぎ」

https://danpance.blogspot.com/2019/12/blog-post_8.html?m=1


「進撃の女房」

https://danpance.blogspot.com/2018/07/blog-post_22.html?m=1



「座間事件」

https://danpance.blogspot.com/2017/11/blog-post.html?m=1


「トータルフットボール、教育制度と戦術(2)――都知事選結果・相模原事件を受けて」

http://danpance.blogspot.com/2016/08/blog-post_11.html?m=1)



「小さな過去」

https://danpance.blogspot.com/2016/03/blog-post.html?m=1



2022年7月17日日曜日

釜の底が抜ける、ということ


「コジェーブが、そのような「最後の人間」の類型例として、注記して、物質的欲求の追求に自足し、いわば動物化したアメリカ類型と、スノッブ(形式的洗練と疑似の高貴さ)的あり方に淫する日本的類型をあげたことは、よく知られている。またフクヤマ自身がこの空白を埋めるものとして、プラトンの人間の三要素、欲望、理性、気概から引いて、その著の後半を気概(テューモス)の大切さを強調するのに費やしていることも、周知の通りである。でも、著作の後段を占めるこの気概をめぐる議論を、私はそれほど有効な議論であるとは受けとっていない。(略)ここでフクヤマがいいあてようとしていた「歴史の終わり」とは何の「終わり」か。/それは、東西冷戦の終わりでも、初の共産主義国の試みの破綻でも、マルクス主義思想の体現する未来の終わりでもない。近代の終わり、ヘーゲルのいう世界史の終わりですらないかもしれない。いまになってわかるのは、それが、これらをささえていたもっと長い射程をもつ世界の考え方の、「終わりのはじまり」だったのではないかということである。」

「水野が理由としてあげているのは(『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書にて――引用者註)、一六世紀からはじまった資本制システムが、五○○年をへて、とうとう空間的にも時間的にも「外部」を搾取しつくしてしまい、もうそこから利潤を生みだすべき「フロンティア」を失おうとしているということである。議論は、本文にふれた柄谷行人の「人間的資源」の限界の説に一部重なるが、もっと徹底している。したがって、結論としていわれるのは「革命」ではない。その代わりに、資本制システムが、いわば内的な理由から終焉を迎えようとしている以上、われわれは、これが世界の混乱へと進まないよう、新しい考えに立って、新しいシステムを構築すべきだとする。」(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』 新潮社)

 

参院選挙が終わり、予想通りの自民圧勝となった。それに与党化した野党を加えれば、戦後民主主義の底が抜けるとかいうよりも、日本の何ものかが盤石なままだ、と想定すべきだろう。まだ未熟な新規政党らの出現がなんらかの症状を呈しているとしても、それをあげつらうことに意味がでてくるとは思われない。が、日本の何かが揺るぎない反応で凝り固まろうと、世界の底は抜けていく。ワラをつかんでいるにすぎないことを、認めるのが怖いだけだろう。安倍元総理の死は、投票率を押し上げたかもしれないが、祖先の墓仕舞いをし、自身は子供らに迷惑をかけたくないと、無名的な共同墓地ですましていく親子たちが多くでてきている。そういう事例を鑑みても、私たちの底自身もまた底抜けになりつつあるのが、誰の目にも明白になったとき、民主主義的観点からはいかがわしく思える者たちが、どう機能していくかは未知数だ。私たちが、もし存続していくのなら、わけのわからない世界に入っていくのだろうから。

 

しかしとりあえず今は、わけがわかりすぎる。ウクライナ戦争にせよ、自民圧勝にせよ。「歴史の終わり」のフクヤマが言っていたように、「気概」が復活してきているわけだ。人間とはそういうもんだ、みたいに。この攻撃欲動的なものに対し、というより、その否定は人間の条件上できないのだから、それを外にではなく、内に向かわせる、という二つの世界大戦の後遺症から、9条的な実行に転換しようと目論まれてもきていたわけだが、もうそんな仕掛けだけではもたないのかもしれない。ロシアの作家は、現状のロシアについて、その思想を説きもしているけれど。(ミハイル・シーシキン「プーチンは皇帝か」朝日新聞朝刊7月5日)

 

ソ連崩壊後に起きた湾岸戦争への国内での反戦運動について、冒頭引用の著者・加藤典洋は異議を申し立てたわけだ。「平和憲法がなかったら反対しないわけか」、と。が、3.11の経験を受けて、あるいは息子の死もあってなのか、反戦の著名活動の中心でもあった柄谷行人の世界認識を受け入れて近づいている。一方、その柄谷本人も、加藤の批判的論点、「ねじれ」という内的現実=歴史を受け入れ熟考しはじめた。キリスト者としての自覚は後から来るという内村鑑三論や、たしか中野重治についての論考が、加藤の批判への応答になるだろう。たしかに、「ねじれ」ているかもしれない。が、あとから、それが真実で真正な態度になるのだという精神分析的な現実性で説得論理を構築してみせたのである。柄谷の、押し付けられたものであるからこそ真正なものになっていくという9条理解の論法も、その延長上にあるだろう。

 

しかし柄谷と加藤とは、お互いが歩み寄ったとはいえ、懸隔はそのままとみるべきだろう。柄谷用語で言ってみるなら、柄谷の論理は他者の外部(出来事一回性)にこだわるがゆえに反復(更新)という時間仮説になり、加藤のはあくまで異者という観念を保持しようとしているので、その時間は線的、物語的になる。いわば、マルクス的かヘーゲル的かという差異だ。しかし、ヘーゲル的だからといって、思考の問題としては、わるいわけではない。フランシス・フクヤマは、プーチンによるウクライナ戦争への見立てを見事にはずしたが(「プーチンは完敗する――私が楽観論を唱える理由」『ウクライナの未来 プーチンの運命』講談社α新書)、そのシンプルな思考や着眼点は、そう容易に否定できるものではない。

 

加藤の『人類が永遠に続くのではないとしたら』も、歴史が反復(永遠回帰)ではなく、時代的な変遷、進行方向を持つという時間仮説が濃厚である。思考の素材の解釈について、柄谷教養の私とは違ってくるが、その取り上げられる材料や着眼点は、このブログで追求してきたものと重なってくるだろう。しかしそれらをいちいち追求して論としてまとめてみるという、学者というか批評家的な欲望と暇を私はもっていない。私は、小説家として考えているだろうから、前方に実践して、賭けて認識する。

 

もし、人類がこの今のわかりきった苦難を乗り越えるなり、やり過ごすなりして存続するならば、次の対談引用に伺われるような、もはやこれまでの人間や自然観では定義できない位相に入っていくことになるのだろう(それが、水野和夫も16世紀に起きたという「釜の底が抜ける」ということだ。ダンス&パンセ: 現状を考えるための引用 (danpance.blogspot.com))。それは、人間(精神分析)としての反復ですらないのかもしれないが、他者との固有性が更新されるものではあるのだろう。

 

《「鈴木 …そうすると、最終的に行き着くのは、ナノロボットの類を脳に入れて、一個一個のニューロンに付着させるというやり方でしょう。それをやらないと、深い構造まで情報が取れない。だから、研究者はそれを目指すに決まっています。…(略)

 もう一つの方向性は、医療ですね。医療と、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の延長上としてのナノロボットという二つの方向性で、これから数十年間のうちに計算パラダイムが、おそらく生体システムの中に取り込まれていきます。それは、人間かもしれないし、人間ではない動物や植物なども含んでいく可能性もある。人間は、認知能力を拡張したいという欲望と同時に、生体システムだってコントロールしたいと考えたいはずです。/それを生命の進化としてどういうふうに解釈するかは、ここ数十年というタイミングで絶対に問われるところです。森田さんの好みではないかもしれませんが、必ず出てくると思います。

森田 健さんのおっしゃる、インターフェースを消し去っていく方向には不安を覚えます。たとえ、生命が計算に類似したふるまいをしている面があるにせよ、それはあくまでいま見えている範囲のことであって、現時点で見えているだけの理解に基づいて、どこまで生体の作動に介入していいのか。/医療の分野でそういう方向に進んでいくことは容易に想像できますが、そもそも僕たちは生のことも死のこともほとんど理解できていません。技術によってこれからいろいろな方法で寿命が延びていくにしても、死ぬことの意味や、よりよく死ぬことについての探究は深まっていない。このままではあまりバランスが悪いのではないでしょうか。/最近の研究によると、一般的な家庭のなかでも二○万種くらい生き物がいることがわかってきているそうです。(ロブ・ダン『家は生態系』白揚社)それこそPCR法とかを使うことで、給湯器や冷蔵庫、オーブンの中にもたくさんの細菌や古細菌が棲んでいるとわかってきた。そういう生物の多様性そのものが、人間の健康にも少なからぬ影響を与えていて、ある意味では、とっくの昔から神経系の外で行われている膨大な計算が、生命を支えてきたわけです。すでに土の中でやっている計算とか、空気の中、冷蔵庫の中の古細菌がやっている計算みたいなものに気付いて、これに耳を傾け、長大な歴史を持つ自然の営みを受け止めることの方にもっと知恵を絞っていく必要があるのではないでしょうか。」(「数学と生命の関係をめぐって」『新潮』20221月号)

 

*参照引用

 <「長期の一六世紀」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションは、近い将来か、あるいはすでに進行中のこととして、自由な交通空間の開拓や実験という志向性に屈折がもたらされ、管理された全体性の空間へと求心的に凝集し、その帰結として構築されたシステムは、なんらかの独話的な普遍性によって理念的に閉じることになるだろうという見通しだった。

 対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。

 二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。

 重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社) ダンス&パンセ: 世界システム論で読む少年サッカー界 (danpance.blogspot.com)


<『「大崩壊」の時代』のすぐあとに刊行された『人間の終わり』の冒頭でフクヤマは、悲観的な予言を示す。「これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほと強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない」。それにつづいてフクヤマは、人間本性とバイオテクノロジーについて興味深い議論を展開している。さらには、バイオテクノロジーの発展は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で「監視社会」として描くものよりもさらに恐ろしいとまで論じる。>(『「歴史の終わり」の後で』 フランシス・フクヤマ 中央公論社)

 

世界が終り、人類が壊滅的になろうと、引っ越しはする。次の準備に忙しくなる。


2022年7月2日土曜日

右翼的なものの再来


 「だが、「右翼」であることには、様々な形があり、「右翼」は何度でも再来するということ、そして、「右翼」であることは、何よりも日本の庶民の情緒的、あるいは心的な構造の中に内在するものに根拠を持つものであり、現れる様々な変遷を辿ることによって、時代の変遷を、社会的変化を描くことができるということを示したように思われるのである。我々は、戦後というものを戦後的理念=「平和」、あるいは民主主義の理念とその批判的な受容、そして、その内在化といった観点の変遷から考えがちである。だが、そうした観点は、知識人の頭の中にしかないもので表層的なものでしかない。むしろ、生活する人間の情緒的なものに根ざした観念的世界がいかに時代の変化を蒙っていくのか、ということのほうがより根底的であり、中上が「右翼」を描くことによって示したのは、こうしたものである。」(河中郁男著『中上健次論』第3巻 「幻想の村から」)

 

参議院選挙を来週にひかえているそうな。

私自身はあまりいわゆる政治、その「いわゆる」を代表するような選挙には興味が持てないでいる。成人式にもいかない若い頃はそれどころではなかったし、教養的に落ち着いてきた今でもその意義が理解できないでいる。仕事での付き合いにはかかわらないようにしているので(私にとってはそんな日々の駆け引き闘争こそが政治的である)、現場に関わりなく自由に投票はできる。食料や電気、最近はリフォーム中の家を含めて、生活クラブを利用しているので、その経由でか、今の住所では立憲民主の蓮舫と辻元の推薦と、長妻昭から自筆の手紙が届いてくる。自民圧勝は避けたいから、第二政党に頑張ってもらう必要があるのだろうな、との考えも浮かぶのだが、釈然としないのが今回の気分。いつもは、女房の言われるままに近いのだが…。

はじめて、NHKの日曜討論などをみて、代表者の意見を聞いてみたりする。肌感覚的には、N党の立花みたいのが面白いし、考えは違うとはいえ、ホリエモン周辺の天皇制的な同調メンタリティーから切れているグループには頑張ってもらいたいのだが、いきなり防衛問題で敵基地攻撃容認派らしく、だいぶ、自民にすり寄ってきていると感じる。その立花と犬猿の仲のように日曜討論ではみえた、山本太郎を、フェイスブックで応援する知人のメッセージも読んだ。たしか3年前くらいか、彼と飲んでいて、その名を知っているかと聞かれたので、「芸術は爆発だ!」の人かい? と聞き返すと「それは岡本太郎だろ!」と返されたので、「ああ、走れ! 走れ! とか歌う人だろ?」と訂正すると、一瞬考えこみ、「それは山本コウタローだろ! おまえ、何も知らねんだなあ」とあきれられたのだった。しかし、今なら、知っている。そしてやはり、演説中の目の玉の動きと身振り手振りが気になってしょうがない。なんだか、ヒトラーの演説と重なってきてしまうのだ。本心で、何を考えているのかわからない、怖さがある。

と考えていたら、次の日曜討論、草野球やってて見逃してしまったが、N党の幹事だかをまかされている「つばさの党」の党首、黒川あつひこが、安倍晋三はおじいちゃんからCIA~とか歌い始めて、討論会をぶちこわしたとか。私はコロナ関連ニュースから、前身である「オリーブの木」での彼のYoutube活動を見知っていたが、会の存続が危うくなってN党と共闘をしはじめ、「ユダヤマネーをぶっこわす!」とかいう決めゼリフを吐きはじめると、そこまで言うと間違いになるのでは、と思って敬遠しはじめていた。が今回のこの突破は、必要なことだったのではないか、というのが即時的な判断だった。

私のその判断の是非を検討するため、他の人の意見をさぐってみた。哲学系ユーチュウーバーじゅんちゃんが、民主主義の三番底抜け、とうとうここまで日本は落ちたか、と批判している。一方、副島隆彦は、とうとうここまで日本の民主主義が進展してきたか、と褒めている。私は、副島に軍配をあげよう。

こう考えてみればいい。底が抜けないでこれまでのままとはどういうことなのか、と考えてみればいいのだ。宮台真司は、日本の自滅加速主義の立場をとるそうだが、成り行きで自滅したって、そこから這い上がるようになるとは私は思えない。自覚的、意識的にやって失敗して、はじめてそこからまた這い上がれるものになっていくのだと思う。

底が抜けるなら、抜ければいい。じゅんちゃんは、山本太郎についても、大衆政党としてはしょうがないとはいえファシズムへの危険性を指摘していたが、実際にホームレスなような浮動大衆である私(たち)が、なんでファシズムを恐れる必要があろう。受けて立ち、それでつぶれるならつぶれろ、しかしただじゃつぶされんぞ、既成勢力もろともひきずり降ろして奈落の底へと引きずり込め。自覚的にやって、はじめて、這い上がれる。傍観的に加速を待つより、自ら加速度をあげていくことが、必要なのではないだろうか?

 

日曜討論をぶちこわした黒川氏が、参政党について調査している。私は前回ブログで、この従米ではなく反米保守は日米開戦でもはじめるのか、とか書いたが、参政党の人気者が、自らの選挙演説で、そうなりつつある風潮をそう言って批判しているのだった。がしかしこれは、黒川氏によれば、その立候補者神谷氏は、ユダヤ資本をぶちこわせと言っているがその当人たちと付き合いがありおそらく利用されている、と示唆する。私が動画で判断するかぎり、神谷はそう指摘されて気づいたが、今さらひけず、と嘘をついて選挙演説している、そんな顔だ。選挙前は、子供に日本人の誇りをもたせるよう教科書を右翼的に変えよう、とか発言していたのに(右からだろうが左からだろうが、言葉(口先)で人が変わると思うな!)、選挙では、教科書を自由に選べるようにする、とか、ごまかしている。もしかして、この神がかり的な演説者を使って、影の勢力は、野党を分裂させるというよりは、陰謀的世界に気付き始めた愛国的な金持ちの年寄りから集金しそれを陰謀的に再利用して日本の自治的な芽をあらかじめつぶしておく政略を企んだのかもしれない。黒川氏の調査によれば、まだ満州の亡霊が活躍している、ということになる。

 

おそらく、私が今回の選挙で、ありきたりな選挙行動に釈然としなくなったのは、そんな風潮が出てきたからでもあろう。れいわの山本氏も、陰謀論的言説を取り込んで選挙演説をしていると指摘されているが(参政党もそうやって、大衆になびくことで分断しなし崩しにしているということになる。れいわの支持者と参政党の支持者がかぶっている、と指摘されてもいる。)

 

陰謀論的枠組みを信じる者は、ではナショナリストなのだろうか? ナショナリズムの再来なのだろうか? 佐藤優は、そう警告をはじめている。私は、それはおおざっぱすぎて、現実を、現実を動かし始めた差異を取り逃がしているとおもう。

 

たとえば、私の息子は、運動部活動をやめたが(つまり戦後民主主義の側に立ったが)、警察官へと入っていった(つまり戦前的な封建規律の世界に戻った)。あるいは、職場では、家を継いだはずの長男若社長は、父の仕事としての寺社や民間の仕事は引き継がないと公共工事中心の仕事にこだわり(つまり戦後民主主義の方へ。職人出ずら封建方式よりもタイムカードあるサラリーマン労働にあこがれ)、その結果、若い人がみなやめ一人きりになり、それでも民主的な公共工事にこだわり自らが元請けのサラリーマンなように街路樹作業に駆り出されて大変な労働をやらされるはめになる。私には、プーチンではなくバイデン親分を選んで地獄に深入りしていくゼレンスキーに見えてくる。その風貌も、年恰好も、女房の見かけも。少なくとも、私の親方は、自分の職人が元請けの社員のごとく扱われることに徹底抗戦した。独立している、自分の会社であり自分の社員だ、という気概があった。タイムカードで時間管理し年金徴収や源泉徴収もしっかりした民主的な元請け会社の監督の言う事ではなく、俺の指示で働くから俺の会社であり、会社として独立している、ということだろう。トヨタの下請けどころかその工場でもないぞ、と気概ある経営者は、そのバランス駆け引きに気を配ってきたはずだ。が、もう、そうした気概どころか認識もなく、ただいいイメージな方に、いま金払いの高いほうになびく以外の意識しか知らない。それは、ナショナリズムだろうか? しかし、それしか意識が知らなくとも、無意識は、知っているのではないか? 

 

宮台は、原爆落とされてもアメリカの民主主義の優等生たる日本人は、ケツに糞がついていてもそれを舐めているのと同じなんだ、と愚民を批判している。が、舐めてしまう時代変化はあったろうが、その変化ではすまされない変化しないものが噴き出しはじめている。そして噴き出すことで変化しないものがまた変化しはじめている。息子も、若社長も、それではすまないはずである。もちろん、自滅というのも、すまないことのヴァリエーションの一つではある。

 

右翼だとしても、私たちの心情において、何か変異が起きている。今度の選挙は、それが垣間見えてくるものになるかもしれない。私は、たぶん、第一、山本太郎、第二、黒川あつひこ、でいくことになるだろう。