2023年1月23日月曜日

葬儀

 


 父の葬儀には、父と母の身内にあたる親戚へと連絡をしただけだから、数人が集まるだけだろう。それぞれ五人は越える兄弟姉妹のなかで育ったといっても、すでに他界している兄や姉がいるし、生きている者も高齢だから、そう来られるものでもない。自らが勤める施設で父が亡くなったときも、ほぼ事務的に処理されてゆこうとする地元の新聞への告知を、直希は断ったのだ。告知されれば、教師をしていた父の教え子たちが知ってかけつけてくるかもしれず、自ら監督となって息子たち三人とともにやり始めた少年野球チームの同級生たちが顔をみせに来るかもしれなかった。しかしその場に、二人の兄がいないことになるのだ。母は、仙台の実家を守っていた弟の死去後の処置をめぐり、一番下の弟が無理なことを言い出したと不平をもらしていた。父から大学に進むのにも一番世話になった末の弟が一番つれなくて葬儀にも来ないだろうと呟いていた。が、自らの息子たちが、父の葬儀の場にいないのだ。末っ子の直希だけが、葬儀を行う部屋の前の椅子に座ってうつむく母の傍らに立っていた。

父が食を口にしなくなったのであと一週間もしないで看取りになりそうだと、介護施設の担当の者から連絡が入ったのは十二月も半ばを過ぎた頃だった。別棟で仕事をしていた直希は、日勤の職務を終えるとすぐ裏にある入居施設へと向かった。まだ日暮れて間もないが、西側からは覆いかぶさるように山が迫っていたので、裏山へと向かうアスファルトの道は一気に暗くなっていた。振り返れば関東平野が一望できる開けた東の空になお青い残光がとどまっているはずだが、暗さに瞳をならすように、一歩一歩の足元を目に焼き付けるようにして坂をのぼった。街灯のところまでくると、足元から現れてきた黒い影がいきなり立ち上がって前方の道へとのびた。その行く手を仰ぎ見るように顔をあげて、父のいる部屋の灯りを確認した。

当番のインドネシアの青年から夕食のプレートを受け取ると、直希は父の横たわる部屋へと入っていった。もう一名が横になっているベッドとはカーテンで仕切られている。流動食をいれた三つのお椀をのせたプレートを壁際にあるテーブルにのせてから、父の足元の方へもどって、自動でリクライイングさせるベッドのスイッチを手に取り高さを調整させた。もう、自力で目を開けられなくなって久しい。苦しい様子はないが、一定の苦痛に固まってしまったように、片膝を少しあげたまま、動かなかった。耳も、どこまで聞こえているのか、わからない。昨年の末も、もう年を越せないのではと言われていたのだった。そうして、一年がたった。

直希は消毒液で手指を洗うと、ベッド脇の机に整理されたカテーテルを袋から取り出し、痰吸引機のチューブにつなげて、スイッチをいれた。カテーテルの先を握り、いちどアルコール綿で拭ってから、すでに口を開いたままの父の顔元へその管を運んだ。まだ夜更けているわけでもないのに、静かで、蛍光灯の光がなおさら薄暗さを滲ませてくるようだった。口から喉奥へとすっと吸引の管を差し込む。管の先を折って押さえていた親指の力を緩めると、痰が切られ吸い上げられてくる音が沈黙を破裂させるように響いた。その音に感応するように、勝手に手が動いた。もう施設に泊まる老人を看るようになってからどれくらいたつだろう。何人の老人たちの世話をしてきたろう。管を握る指先の振動と音で喉の粘膜を傷つけない手加減が意識するでもなく調整された。作業をしている間、腕が、携帯用の機械と一対となったロボットのような気がしてくる。ああ~、と、父が声をあげた。管を口から取り出し、またアルコール綿でカテーテルを拭きながら、父の様子をうかがった。もう一度、管の先を入れてみる。濁った音が、数珠のようにつながってくる。まだ外国から来た研修生の身では技術が不十分なのか、だいぶ喉奥に痰が残っているようだった。いや日本の熟練した介護士でも、どこまで親身に接することができるだろうか。それは、手を抜くということではなかった。自分の腕の匙加減ひとつで、施設に入居してきた老人たちの寿命が調整されていくことがわかってくる。直希が、父を自宅の近くの施設から、空きの出た自分の山際の施設へと移動させたのも、その施設の暗黙の方針に気付いたからだった。見舞いに訪れる家族からも、言葉にはだせない意向は伝わってくる。ひとりひとりと向き合う現場の者として、自分たちはただ勤務をこなすだけだった。熟練すればするほど、頭の想念とは別に腕が、指先が、感覚が研ぎ澄まされた機械になっていく。が、その機械が、疲労や日常の忙しさからか、突如、魔が差したように鈍ることがある。ちょっとした誤作動はすぐに忘れられても、数日後には、誤嚥性の肺炎となった死として、現実はやってきた。日々、自覚されるようになっていった。その堆積は、自分が人を殺してしまったのではないかという反省を、確信犯に変えてゆく。その認めたくない悶えにあらがうように、ニヒルな無関心と、虚しい陽気さが起伏し、耐えていけない者たちは、次から次へと職を辞していった。

その日父は、よく夕食を飲み込めた。食べている途中でまた痰がからむので、吸引のカテーテルをおこないながら食事をさせた。たぶん、以前の施設で末期を予期され、昨年宣告された最期をも逃れて今にいたっているのは、自分が勤務後に立ち寄って痰の吸引を続け、父の消化のペースにあわせてスプーンを口に運んできたからなのだろう。あとから入居してきた、まだまだ元気な老人たちが、ほどなくして亡くなっていったのだった。父は、まだ肌艶もよく、痰がからめば大きな声をだせた。今年も、年を越せるかもしれない。週一の夜勤明けの休日に、看取りとして母を特別に面会させてやることができるだろう。第八波と呼ばれる新型のコロナ流感は、少しおさまってきていた。自分が父の担当者になることは施設の規則でできなかったが、状況をみての特別な計らいを処置してもらうことはできた。

 しかし母と実家で暮らす長男の慎吾は、東京の知り合いに呼ばれたと家を出たきり、戻っていなかった。次男の正岐は、もう若い頃から、ほとんど連絡がつかないままだった。地元の進学校を卒業して学生として上京したその先で、兄たちに何がおこったのか、三男の直希にはわからなかった。

 母は、うつむいたままだった。真ん中より少し下の毛がごそっと抜けたところがあって、そこを脇の毛で被せて、茶色い大きなヘアクリップでとめていた。父がまだ施設で息をしている間は杖もつかずに歩けていたが、本当に亡くなってみると、もう自力では立っていられなくなったように、下駄箱に立てかけてあったハイキング用のスティックを引き寄せて、すがるようになった。父と母は、同じ一月の二日が誕生日だった。米寿を迎えたその十日後の夜半、父は直希が見守るなか、息を引き取った。その静かに仕舞われた息を引き継ぐように、母が、小さな力ない息となっていった。口数も少なくなった。忌引き休暇をもらったここ数日、直希は実家に寝泊まりしながら、葬儀への手続きをおこなっていった。例年になく死者が多くなっているため、居住区の葬儀場にあきがなかった。火葬場の費用を支援から自己負担に変えて、直希の勤める施設に近い県下でも随一大きな斎場へと父の遺体を移した。忌引きの休日の最後尾まで日取りはずれたが、そうすれば、兄たちが式に間にあって駆け付けられるのではないか、という期待も持った。が母に声をかけてきた身内は、父の一つ下の弟と、母の一つ下の弟、そして父の本家を守っていた長男の息子夫婦だけだった。

 葬儀の時間が近づき、直希は母を立たせて、父が眠る部屋へと歩かせた。いつよろめいて倒れるかもしれない背中に手を添えながら、白い棺桶の手前に並べられたスチールの腰掛へ座らせる。黄色と白の菊の花で波のように飾られた祭壇には、青い空を模している背景の遺影が、こちらを覗いていた。施設にいるときに撮った写真を拡大して、母の意向で、背広を着たように合成させたものだった。父にも、浴衣ではなく、直希が母の言われたとおり、背広を着せた。膝を上げたままの父にスラックスを穿かせるのは容易ではなかったが、葬儀屋の係の者と二人で、注意深くおこなった。棺桶も、膝の骨を折って押し込むわけにはいかないので、平のではなく、高さのある少し値が張るものを使うことになった。

 通夜をむかえ、棺に身を横たえた父の前で、直希と母は、住職の経を聞いた。遺骨を納める寺は曹洞宗だったが、永代供養として、無宗派の形で埋葬することに母はこだわった。父には、遺書があった。そこには、そう希望することが毛筆で書かれていたのだ。しかしその家族に当てられた置手紙は、まだ父が六十を少し過ぎた歳に書かれたものだった。介護施設へ入居したあと、部屋の整理をしていたら、神棚の奥から出てきたものだった。当時のことを、直希はよく思い出すことができなかった。長男の慎吾は、帰省してそのまま精神科へと入院したが、その措置がすみ、退院しては自室に引きこもっていたのではなかったろうか。次男の正岐からは、東京の新宿のほうで植木職場に身を寄せたと連絡があったころだろうか。直希には、母を助けろ、と息子たちに当てたその遺書は驚きだった。自身の自殺を思いつめていたとしか考えられない内容だった。末っ子の自分には、父の深刻さや真剣さはすぐ腑に落ちてくるわけではなかった。が考えてみれば、教育者としての父の息子たちが世間に顔見世できるような成長をしていないことは、心残りであっただろう。仕事の件もあった。勤めていた私立大学の事務長をしていた父は、学部増設のための先頭にたっていた。国からの認可がおりないまま、新学部の建物はできあがっていた。同僚には、追い詰められて自殺してゆくものがいた。まだ中学生だった直希には、よくわからないことだった。なんとか計画は進んだが、理事長の席には予定の父ではなく、天下りの役人がやってきたということだ。父は退職し、再雇用として、裏方にまわった。そうして、何年かたったころなのだろう。

棺の前に腰かけたお坊さんの読経がはじまった。母は、うつむいたままだ。葬儀やその後の処置をめぐる母との話し合いは、父の最期の話が幾度となくあったので、だいぶ以前にすましておくことができた。だから実際の処理を進めるのは、手際よく事務的におこなえた。突如だったら、やはり母に話を聞けるような状態にはならなかったろう。そう、当然のように直希は思えてきたが、子が親をおもんぱかる気持ちと、妻が夫をおもいやる気持ちとでは、だいぶ違うはずである。それは、まずは男と女との関係であったはずである。直希には、中学生の頃からの幼馴染の恋人がいたことがあったが、独り身を選んできた自分には、長い年月をともにした男女の連れ添う気持ちが、想像できてくることとも思えなかった。父の手紙には、自分の想いを募ったものだけでなく、父の祖父にあたるのだろう、昭和のはじめに亡くなった男の家訓の写しが別封筒のなかに入っていた。子供たち八人に当てたもので、名誉のために職に就くな、投機は破産のもとであり一時で稼ごうとするな、近所隣は我が事と思って助け合え、と十か条のような箇条書きで要約されていた。最後には、辞世の歌が添えられていた。株分けし培いおきし白牡丹去年にまさりて咲くぞ嬉しき……もう一通あった。怒りは敵と思え勝事ばかり知て負くる事を知らざれば害その身にいたるおのれを責めて人を責むるな及ばざるは過ぎたるよりまされり……それは、東照公御遺訓として一般にも読めるものの抜き書きであるらしかった。

父は、母を助けろと言葉を遺し、痴呆になっていった。その痴呆の期間は、長く続いた。もう直希が三男の息子であることがわからなくなっても、なお母のことはわかっているようだった。認知症の進行を少しでもやわらげようと、父と母は区民館でおこなう詩吟や書道に通った。放浪癖がではじめて帰宅できなくなったことを契機に、まずはグループホームへと父がはいった。家に残った母は、父の最後の墨絵となったものを書斎の本棚に貼り付けて飾った。展覧会でも特別に展示され、指導した先生からも、これは相当に筆遣いになれた人でないと描けない絵だと評価されたものだった。確かに父は、次男の正岐が小学生の頃、一緒に書道をはじめてから、ひとりずっと続けていた。年賀状も、毛筆だったはずだ。その展覧会の半紙に書かれた墨絵は、大根の姿なのだったが、すぐにはそうは見えなかった。どことなく、蛸に見えた。ユーモラスだが、一筆一筆にのびのびした迫力があった。脇には俳句が添えられていたので、なぜ蛸の足のように何本もの線が引かれているのかがわかるのだった。母と育てた家庭菜園で収穫したものなのか、一本ではなく、何本かまとめて結わき吊るしているものを捉えたからなのだ。大根干す昨日と同じ風の向き……直希は、経の合間に設けられた葬儀代表の挨拶で、その絵と俳句の言葉を思い出した。もう認知症が進んでいる最中で、風を感じ、その向きを感じ、昨日と同じだと感じとる、そうした冷静な父の一面には、はじめて出会ったような気がします、通夜の席で、父親とはもくする山、乗り越えられない山なのだという住職のお話がありました、それは、もう黙ったまま語ることのなくなった父とは、みあげればいつも新しい一面をみせてくる山のような、尽きることのない目安として聳え立っている山のような存在としてあるということなのだろうと……。

父を載せた霊柩車は、山へと昇っていった。そこから連なる山峰は、中部地方をこえて、北陸までも続いているはずだった。いや列島の背骨として、それは南北に貫いているはずだった。その劣端の頂上を切り開いて建築された火葬場の駐車場からは、東北の峰を背にした赤城山の腹筋のようないくつもの尾根が赤く輝いて見え、開けた平野部を跨いで近づいてくるかのようだった。大きな空の真っ青さが、広げた掌で蓋をするように、冬の木々の枝先へと降りてくる。透き通った冷たい風が、なびいた。車から降りる母の手をとりながら、その温もりを冷ます風の向きが、昨日と同じ向きのものなのかどうか、直希にはわからなかった。

2023年1月15日日曜日

「アートキャンプ白州」とは何だったのか

 


先週、千葉は市原湖畔美術館に、《試展―白州模写「アートキャンプ白州」とは何だったのか》を見にいった。去年の末にスマホでそういう展覧会をやっているのを知った。

 

いくつか前のこのブログで、杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』の感想を綴ったが、その中で、文芸批評家・中島一夫氏の、<三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。>という言葉に触れて、ふと何故か、まだ結婚まえだったろうか、ダンサーの女房に連れられて見た、この白州でのフェスティバルのことが連想されてきたのだった。ダンス界の田中泯氏を中心に始められたその活動なのだから、演劇ではないのだが、私にはともかく、言葉より先に体が動く人たちの性向としてジャンルの境界が捨象されてきたのだろう。そして年明け、週刊文春での池上彰氏と柄谷行人氏との対談の中で、演劇界での鈴木忠志氏の富山利賀村での活動で、その過疎化激しくなった地での農実践が始められた話、さらにはアメリカでの再洗礼派のコミューンの発展の話があった。のでなおさら、あの白州での、ニワトリやロバたちのなかで、人びとが賑やかに蠢いていたあれはなんだったのかな、と考えはじめたのだった。

 

しかし実際の展示を見回りながら、また考えは複雑に折り重ねられた。一室に設けられた大きなスクリーンでの1992年時の光景を移した映像のなかに、中上健次の姿を認めたからだった。六畳くらいの部屋の中でか、活動の関係者だろう若者たちの中に座って、いくぶん気後れした表情で煙草を吸う姿が一瞬映し出された。見学に訪れた時があったのかな、と思ったが、美術館で出版された書籍によれば、最初から準備委員として関わっていたことが知れる。

 

去年撮られた主催者との対談の中で、田中泯は、一番印象に残った関係者として、ふと中上健次の名前をあげている。私にはどこか以外であった。小説中では、こうしたアートな共同体活動を想起させるような話はなかったと思えるからだ。『地の果て至上の時』では、草原になった路地跡にキャンプし占拠する元住人たちの群れはでてくる。中上は、住民にとってはこの活動は黒船のようなものなんだ、泯は責任をとれ、と言ったことがあったそうだ。中上がこの活動に関与したのは、自らの路地なきあとである。そこで、谷川雁と物語をめぐる対談もしている。主人公秋幸のそれからには、このアートな活動の痕跡は刻み付けられるのだろうか?

 

私は、いまこの時に中上が生きていたらどう考えふるまうか、と想像してきているが、最近ふと、答えとして、たぶん生きていられない、と思えてきた。病死とはいえ、その作家の死は、三島と同じ悶絶のように思えてきたのである。しかし私がこうして生きているということは、そこまで思いつめているわけではないということだから、そういう者として、やはり考えなくてはならない。元総理を暗殺した男をめぐり、地元の共同体の崩壊とともに衆人環視の信仰のあり方も崩れ、強引に勧誘してゆく宗教への淘汰圧力もなくなり、バラバラになった個人が密かに浸透されやすくなった、という意見がある。そんな宗教でも、救いになりすがりつくような人びとの現状は、若い世代ほど深刻になっているのではないかと予想される。だから、どうすればいいんだ?

 

考えは、こんがらがるばかりである。

そういう中でも、田中泯のインタビューの返答は、ヒントとして、さらに色々考えさせられる。

 

以下引用;―――

 

<まず最初に、僕は「ひとり」という概念が非常にない人間かもしれません。僕ら一つ一つの生命(いのち)は、この地球上でどこまでも繋がっている。それを観念でなく真剣にこのカラダを通して感じて生きてきた気がします。僕にとっては非常に大きな問題なのであえて説明しています。そういう意味で、「身体気象研究所」という言葉は、グループ名とか集団名というような気持ちではなく、要するに体系を作ることにはなんの興味もなかったし、単なる呼び名程度と受け取ってもらった方がいい。僕にとって、名前や名称ってのは全てそのようなもので、人と人との繋がりは秩序よりも、より一個一個の生命の「群れ」でありたかった。>

 

<「舞塾」も「身体気象研究所」も一緒になって考えたり、ワークショップをするのに一番いい方法は何か、いっそのことみんなで一緒に集中できる場所に移動してはどうか。いつでも稽古に移行できる仕事といえば農業が一番いいのではないか、と考えたのです。>

 

<都会にも人間しかいない、スタジオにも人間しかいないし。人間ではない生き物、植物も含めて、生きている物たちというのに最初にやられました。種蒔きはまさに、あの種の中に生命があって、それがあるきっかけで休みから覚めて生きはじめる。種と人間の手との関わり、というのが…、種を持った手に種の側がその手と化学反応する、というような…、何かの物質を感じるわけです。それぞれの人間の遺伝子を種が(植物の側が)キャッチしているような感じです。彼らが信用する手かどうか。>

 

<美術行為が始まったことに尊敬があるのだと思います。洞窟の中の絵画から始まり、ひょっとしたらそれ以前からあるかもしれませんが、自分の身体を使って自分の外にある世界を表現していく。踊りは間違いなく消えていきますが、美術は固定することができて、いろいろな素材を考えていくこともできる――そのことへの憧れでしょう。>

 

<きっかけは美術だったけれど、僕自身が他のジャンルの表現への興味が強かった、ということもあります。僕はそもそも表現を日常と切り離して考えていなかったし、今でもそれは変わりません。「祭り」はまさに営みという日常の連続があるからこそ起こり得る。舞台やギャラリーのない場所で、どう自分の表現を生き返らせることができるのか、成立させることができるのかということが僕にとって大きなテーマだったと思います。>

 

<ダンサーというのは自分の身体に感じたことを生きる人でもあると思うので、根っからのダンサーだということかもしれないですね。そう思っていないダンサーのほうが世の中には多くて、自分の作った踊りを自分が表すということが自分の才能だと思っているけれど、僕は「ダンスそのもの」のほうが、圧倒的に才能があると思っています。わかりにくいかもしれないけれど、「僕よりはるかにすごいものがダンス」です。それに携わっているのが僕です。こんな単純な話はないのではないでしょうか。>

 

<ダンサーが言葉にならないと言っていることの大半は嘘です。言葉になります。そのうえで本当に言葉にならないものを探すべきだと思います。一昨年「ドン・キホーテ」の終演後、マイクを持って舞台で「踊りは言葉を待っています。切望しています」と叫んでしまいました。踊りは言葉を生んだ動機になっていたはずだと言いたかったのです。>

 

<時代が大きく変わってしまったような気がします。そういう意味でボランティアの存在、ボランティアの人たちのせいだけにしてしまってはいけないですが、世の中全体の他者に対する好奇心や未来の見方が凄く変わってきたんじゃないかと思ってます。それ自体、政府の責任のような気もしますが、未来の見せ方がいい加減になってきたような気もしました。それから、ITの大きな変化も影響していると思います。>

 

60年代の終わりころから八ヶ岳のほうにも部落共同体ができたり、試みの集団がたくさんでてきましたよね。でも僕はなんか違うと感じていました。運命まで一緒にしてしまっていいのか。僕は運命は個々のものだと思っているので人から決められるものでは絶対にないと、思ってます。自然や地球のスケールを運命の中に仲間入りさせないと人間だけの話になってしまう。それは生物として、とってもつまらないことですよ。>

 

<僕らは毎年会議を開いて、今年は開催するか否かを真剣に話し合っていました。本質的な意味を失っていないか?と自分達に問いただしていました。自分達にやり続ける価値があるものかどうかを毎年毎年考え続けた。その会議を繰り返して99年の時には開催を止めた。ただ、それだけなんです。

 本当にこれを読む人が誤解をしてほしくないのだけれど、そもそも継続する努力をする気はなかったと言えるんです。過剰な言い方と受け取られるかもしれないけれど、僕は、瞬間にかけていた、しかも毎年、毎日、11日を本当に大事にしていた。それは今も僕は変わらない大事な部分なんですね。>

 

2008年くらいから、もうやめようという雰囲気がありました。2009年はやめるにあたり、「四つの節会」として、春から始めて短い期間だけれど4回やることにしました。来た人には季節の違いを体験してもらおうと。僕も4回踊りました。>

 

<でも重要なことは、「終わった」とか「仕舞い」と、僕が本当にそう本質的に思っているかどうかです。世の中でいう「継続」ってのは一体何のためなんでしょう…。それ自体が大事な事なんでしょうか? 本当にそうなんだろうか? そのことで消失していることはないだろうか? もっと一瞬の命を感じられる時間を僕らが動物や植物のように生きられたら、どうなんでしょう。>

 

1989年に電通総研が第一回の白州フェスティバルを事例研究として取り上げたシンポジウムがありました。そのときに中上健次が「これは白州の人たちにとっては黒船だったんだよね」って言ったんです。「泯、お前責任とれよ。お前の立場はそういうものだと思うよ」と。>

 

<何かが始まって何かが終わること、それが悪いことのように語られること、でも本当にどうなんだろうか? 本当にそうなのかな? この身体と共にある「時間」は無くなっても終わってもいない。

 

これからでしょ!>(「田中泯インタビュー<白州>の20年を語る」

2023年1月7日土曜日

柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む


「人間という種がもつ驚異と独自性は、弱者の生き残りに由来する。病人を看護するという習慣がなければ、人類一般における不具者と弱者が文化と文明の高みに達することはできなかったであろう。部族の男たちが戦場におもむくとき、背後にとどまらざるをえなかった傷病者が、おそらく最初の語り部、教師、(武器や玩具を作る)職人になったのであろう。宗教、詩、英知の草創期の発展は、不適応者の生き残りに多くを負っている。狂気に陥った呪医、癲癇症の予言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小人が、そうした人びとである。最後に、病人は医術と料理の発展に貢献したに違いない。」(『魂の錬金術』エリック・ホッファー著・中本義彦訳 作品社)


柄谷行人著の『力と交換様式』(岩波書店)は、後回しで読もうと思っていた。これまでの読書で大まかはわかっているのだからと。が、YouTubeにアップされた鈴木宗男氏の大地塾の講義で、おもにはウクライナ情勢について検討する議場で、佐藤優氏がエマニュエル・トッドとともにこの著をあげて推奨し、さらに、週刊文春で池上彰氏が、柄谷行人氏が哲学のノーベル賞とも呼べるものを授与されたのを受けて対談していたのを目にした。そこに、私はもしかして、ジャーナリズム言論の世界で、イデオロギー上のヘゲモニー争いみたいのが発生しているのかな、と感じた。柄谷の若き頃のエッセーにも、年上の批評家から君はどちらの派からも好かれるよ、と言われたというのがあったとおもうが、柄谷の言説内容が隙間にあるがゆえに、左右どちらの陣営からも、自分の言動を正当化するための根拠として、引っ張り合いでも生じているのかな、と。確か『世界史の構造』をめぐっては、理論左派から、これは中国の帝国(主義)を擁護するような言説になるのではないか、みたいな批判があったと思う。がこの度一読吟味してみて、もうそれはありえないだろうと思われた。しかしそれゆえに、どちらでも読める。池上との会談で、ウクライナ戦争についてどう思うかと聞かれ、戦争状況一般の話にかえて立場を曖昧にしていることからも、その自覚は伺える。少なくとも左派は、ウクライナ戦争支持としての反戦、右派(佐藤・池上)はそうした世論迎合に距離を置いている、ように見えるから。岩波と文春、その隙間に柄谷がいる、ということだろう。



が作品を読めば、そうした下世話のことはやはり興味がなくなる。文体的に、三部までは随想温和的、四部はまた切断文体が復活して、社会学者が切られていた。がそういうことも超えて、はっとさせられる人間洞察が星屑のように散りばめられている。トッドの洞察が、核家族は近代ではなく猿から人への時点にさかのぼる、という一点にあるとしたら、柄谷の洞察は、交換というビッグな着眼点だけではなく、細部においても様々な転倒として指摘されている。推理小説を読んでいるようだ。



が、私自身は意見・主張を異にする。現状(戦争)においては、交換A(氏族魂)の高次元回復であるという交換Dなるものでいいとしよう。がそこに、未来があるとは思わない。私はこのブログでもトッドの抜粋引用で物語的に提示したように、フェミニンな立場(「かかあ天下」)に立つ。



*****



「力(パワー)」は、「交換」から発生するのか? それとも、「交換」が「力(霊)」から発生するのか?



(1)「つまり、カリスマとは、まさに交換から生じる霊的な力に他ならない。」(p129)


(2)「クラ交易は、共同体と共同体の間の交換を可能にするものが、贈与交換において働く“霊”と同じであることを示している。」(p134)



上の例文では、(1)は「交換」から「力=霊」が、(2)は「霊=力」から「交換」が発生していると言っているに等しい。こうした曖昧さは、読んでいてどこか不透明感を漂わせてくるのだが、相対的には、「交換」から「霊=力」が発生するとする記述が多い。しかしこれは、論理的には循環論法だが、そもそもが、フロイトの無意識と重ね合わされているわけだから、その無意識が医者と患者との対話においてしかない、ように、霊や力も、その交換でこそ発生して消える、みたいな同時的な在り方と理解はできよう。だから、鶏が先か卵が先か、という反論は意味をなさない。がその連鎖は、商品に一般等価形態が、つまり「貨幣」が定着するように、その一回性の「反復」は「想起」される(柄谷引用のキルケゴールに沿って言えば)。その定着=想起があるからこそ、「交換」は「様式」的になり、AからCまでの型が言語化される。



そして交換Dとは、交換Aの高次元の反復である。それはまだ、歴史的に、定着=想起として、様式としては成立してはいない。資本主義の危機において、これから大々的に到来するであろうと予想されるものである。しかし、資本主義の萌芽が近代以前においても、たとえば「貝殻」が「貨幣」であった当初から、交換ABCDはともに潜在的な現実性としてあった。ゆえにこそ、現今の資本主義絶対のような定着構造見方が相対化されて、その構造が変革しうる、AからDまでの力の割合が組み替えられることによって、交換Dの優位が確立されうるところに、希望がある、とされるわけである。



しかし、「高次元」とは何か? どんな実践なのか?



<だが、“高次元”とは何を意味するのか。通常、これは「生産様式」(生産力と生産関係)の観点から見られる。つまり、生産力が高度になった段階において、太古にあった共産主義を取りもどすことだと見られる。しかし、交換様式の観点から見ると、そうではない。共産主義とは、「古代社会」にあった交換様式Aの高次元の回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。>(P368)



上の記述は、トートロジーであって、「高次元」を説明していない。共産主義ではなく古代社会をとりもどすことだ、とされながらも、それは、「高次元の回復」でなければならない、と言うのである。だから、高次元って、何? と普通の読者なら、突っ込みをいれたくなるだろう。



しかし、読者は勘繰ることができる。第一部第一章「交換様式Aと力」で、フロイトの「死の欲動」を導入する箇所を参照することによって。



<誘導的な狩猟採集民たちは、社会的な葛藤や縛りをもたなかった。したがって、特に利己的なわけでも利他的なわけでもなかった。しかし、定住した後、彼らは未曾有の危機に出会った。一口でいえば、定住が「有機的」な状態をもたらしたのである。無機質の状態に戻ろうとする死の欲動があらわれたのは、そのときである。それは先ず、他に向けられる攻撃欲動として奔出したが、さらに、それを抑えて他者への譲渡=贈与を迫る「反復強迫」があらわれた。それは「霊」の命令として出現した。それが、後期フロイトが「超自我」と呼んだものである。>(p94)



ここの記述では、「霊」の方が先なるものとして前提とされているわけだが、それはともかく、「高次元」とは、攻撃欲動が外にではなく、内に向けられること、と推定しうる。「古代社会」の戦闘的な氏族つまり武士の欲動が、敵にではなく、自身という内に向けられるとはどういうことか? もちろん、切腹、である。民俗学者の千葉徳爾は、このサムライの切腹という儀式は、狩猟民が己の潔白を示すために、獣の内蔵を白日の下にさらす儀式から来ている、と説いていた。そして私は、その系譜において、現日本国憲法9条とは切腹なんだと提示した。それは、氏族魂の、「高次元の回復」である。



「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマは、それ以降、サッカーが戦争の代用になったこと、そしてそこには、ナショナリズムを超えた、男の自立(自由)と威信(死)が賭けられているのだと洞察した。そして本当の戦争が起こった。柄谷理論とも踏まえれば、それは交換B・Cが優勢な現状における、交換Aの「低次元の回復」ということになろう。が「高次元」であれ、「低次元」であれ、そんなものの回復が今のあり様なのだ。



フロイトは、「死の欲動」とは、「無機物」への回帰の衝動だと言った。有機物が多細胞生物となったとき、おそらく「筋肉系統」が刺激されたのだと。だから、男たちの出番となる。が無機物であれ、有機物であれ、それはあくまで「物質」への回帰である。が、原爆に連なる量子物理の世界が露呈させてきたのは、さらにミクロな次元における、「無(波)」の力(フォース)である。柄谷が力点をおくのは、「パワー」である。それは、「観念的」な力とされる。自然との「交通」ではなく、人間の間での「交換」における「霊=力」を見ることが大切なのだと。



<あらためていうと、交換様式Aは人類が定住した時点で生じた。>(P389)



言い換えれば、「観念」は、定住とともに発生した、ということだろう。なぜか? 「定住革命」の西田正規がどこかで、おそらく定住によって言語活動もが定着していったのではないか、と推論していた。人の脳みそはでかいので、それを活性化していないと、脳内のエントロピーが増加してしまって、不快感に耐えられなくなるのではないか、というように。身近な例として、散歩という遊動を思い起こしてみよう。ハイキングなど、自然の中での散歩はあきないが、住宅街の中での散歩は、たしかに筋肉系統の維持には役立つけれども、あきてきて、気が滅入ってきやすい。なぜか? 自然の方が現象として多様なので、視覚的にも刺激が連続するからだけではない、身体を介した、ミクロな物質との「交通」が盛んになってくるからでもあろう。が、定住と都会化は、いつも見慣れた風景の中で暮らすようになるので、脳内のエントロピーが増大し、その不快感が惹起してくるのだ。だから、遊動にかわる「観念的」な活動が必要になる。その「様式」が定着するとは、いわば頭でっかちになる、ということだが、肝心なのは、その「観念」への発生は、遊動や戦争をして気晴らしができる男たちによってではなく、それができない者たちからこそ発生したのではないか、ということである。



冒頭引用のホッファーの洞察をあげたのは、それが言いたいがためである。



そもそも、男たちのように遊動できない者たちがいたのだ。ホッファーは女性をあげてはいないけれども、そこに、女性や子どもたちが入るのは自明であろう。彼らは、空腹と脳内の不快に対処するために、観念に通じる活動を行っていた。こんなことを想像してみよう。獲りたての生肉のおいしいところを食べた男たちの残り物の骨付き肉を、なんとか食おうと茹でたり砕いたりしているうちに、料理ができ、骨の破片のかけらで武器もでき、それを石で叩いて憂さを晴らしていたら音楽もできたぞ、と。そして、その技芸を、男たちが強奪することで、観念的な活動が反復されていくのだ。



氏族や部族社会では食べ物を平等に分け与えていたのだ、と奇特な男たちを想定したとしても、この想像の現実性は残るだろう。ここにあるのは、交換の残余である。あるいは、交換のネガである。それは、パワーからくるというよりは、男たちのフォース、自然の暴力、それとの「交通」から発生するのである。



そそそも、柄谷の理論自身が、ダンバー数(150)なる自然の神秘さに依拠している(p66)。氏族から部族へ等の拡大は、その基礎数による、というのである。さらにそもそも、世界を4で区切る、という思考そのものが、そうした自然の神秘に依拠している。これはどこかで、柄谷自身が、構造というのは4でないとだめになっているので、というような発言をしていたろう。トッドによれば、これはデカルト主義であり、大陸の合理論であり、ピタゴラスの神秘主義である。そしてこの自然の神秘を、排除することはできない。物性物理でも、花びらの数とかなぜか五角形になるような現象がミクロな世界での結晶作用として現れてくるし、有能なアーティストなどの作品も、黄金分割として分析できてくる。竜安寺の石庭の配置も、黄金分割だとされている。



柄谷は、現今残ったスピリチュアリズムは、交換様式Cによって生まれた宗教である、と言う(p373)。が、それがどういうことなのかの説明はない。私からすれば、それは交換の残余であり、ネガであり、それは自然との交通、フォースからくるのである。



岡崎乾二郎氏の『抽象の力』(亜紀書房)などの理論は、この「フォース」に関わるものだろう。量子論を踏まえて哲学考察をした人物との討論などもあったようだが、私はまだ読んでいない。今日の私、明日の私、昨日の私…、と絵本にあったが、それは芸術としてあるだけではなく、量子論を背景にした物理的な力をふまえての表現なのだ。そしてこの力点に立つからこそ、ABCDのパワー・バランスの枠ではなく、それらを根底的に一掃する自然が射程に入ってくるのだ。岡崎氏が原発に反対するのは、そうした自然、フロイトの「エス」という観点からで、観念的な「超自我」ではないのである。



そしてそれは、女性的なるもの、「無(波)」との関係ととりあえずは言い得る表現をもつ。トッドも、そこにこそ未来の希望があると、家族人類学から示唆するのだ。



<男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。>(上57)



つまり、交換Aとは違った交換がありうることを示唆している。がそれは、Dではない。ヘーゲルの「絶対精神」に行き着くのかもしれないE…Xとかではありえない。強いていうならば、交換D′、ダッシュ付き、である。なぜなら、それは交換の残余であり、ネガであり、物理的にいうならば、ダークマターであるから。物質への回帰ではなく、反物質への回帰を示唆するから。

2023年1月2日月曜日

エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、いまどこに居るのか?』――ノート(8)

 


エマニュエル・トッド著の『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(堀茂樹訳 文藝春秋)の抜粋。引用後の()内は上下巻とページ数。誤字脱字もあるだろう。抜粋後に、すでにこのブログで言及してきたページの参照リンクをつける。トッド・ノートの何番目に当たるのかわからなくなってしまったが、(8)とつけておく。

 

*****抜粋開始*****

 

序章 家族構造の差異化と歴史の反転

 

「進化しているのは誰か?」「先進的なのは誰か?」という問いが、単純に解けないもの、それ自体として矛盾しているものとなる。中東はなるほど経済的には遅れているけれども、最も複合的な、最も「進化した」家族形態を持っている。内婚制共同体家族は、父親と既婚の息子たちを結びつけ、次にその息子たちの子供同士が結婚することを推奨するわけだが、このシステムは五〇〇〇年もの推移の帰結なのである。北米は、経済的グローバリゼーションを先導してきて、今ではそれへの異議申し立ての先頭に立っているわけだが、イギリスや広大なパリ盆地にもまして、ホモ・サピエンスの原初のモデルに最も近い核家族形態を地域的に代表している。東アジアに視線を移すならば、われわれはまた次のことを認めなくてはならない。すなわち、一八六八年の明治維新のときに日本で主流だった家族システムは、核家族のそれと異なるけれども、当時中国で支配的だった家族システムほどにはホモ・サピエンスの原初的な家族の型から離れていないシステムだったということ。日本の直系家族は、当時の農民階層では、ただ一人の跡継ぎと、最多で二組の既婚カップルを結びつけていた。つまり、理想的には一人の父親を既婚の息子たち全員に結びつけ、三組かそれ以上のカップルを同居させることのできる中国の共同体家族よりもシンプルだったのである。(上53)

 

 というわけで、これから本書で見ていくように、最も先進的な社会ではまず家族と宗教が変容し、次に教育普及の停滞と出生率の低下が起こり、その現象が経済と国家の危機の先駆けとなる。ある面から見ると西洋は今や母権制への未踏の道に分け入りつつあるのだが、その西洋が過去において父権制への道を踏破したのだと考えるとしたら、それは誤謬なのである。男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。(上57)

 

ソビエト共産主義の崩壊に後続した時期、一九九〇年~二〇一〇年の大きな政治的・経済的決定は、世界中のシステムが収斂していくという仮説に基づいておこなわれた。つまり、自由貿易は世界を統一するはずであり、単一通貨がヨーロッパを同質化するはずであった。その後、歴史的現実の中で誰もが目の当たりにしたのはその正反対で、経済的パフォーマンスと生活水準が分岐し、分散していくありさまだった。なぜか? 人間が究極の人類学的意味――後述するような共通の原初的特徴を有するホモ・サピエンスという一つの種が存在するという意味――でたしかに普遍的であっても、社会のほうは、そこに定着している諸価値や人びとを組織する方式によって多様だからである。(上57)

 

1章 家族システムの差異化――ユーラシア

 

父系制原則は、すべての戦士たちをまとめる一つの秩序を、全員を網羅する序列を確定する。氏族は民間の軍隊である。否、そのような定義ではまだ不充分だ。さらに、戦争のための民間組織だといわなければならない。征服に乗り出すのがその運命なのだから。…(略)…対称化された父系制の組織編成によって軍事的に無敵の集団となった砂漠や草原の遊牧民たちは、彼らを教育したメソポタミアや中国の定住民たちを隷属させることができた。そのとき、こう言ってよければ、彼らは、彼らが負っていた父系制という負債の返済をすることとなる。奇しくも、政治的な支配を通して定住民たちの直系家族を共同体家族に変えるというかたちで、である。(略)共同体家族は、直系家族の権威主義に、遊牧民氏族における兄弟の対称性を付け加える。(上94)

 

2章 家族システムの差異化――先住民たちのアメリカとアフリカ

 

3章 ホモ・サピエンス

 

ホモ・サピエンスの家族は核家族だったが、けっして孤立してはいなかった。狩猟または採集の特定の時期にはばらばらに行動することもあったが、そうした時期が過ぎると必ず再集合していた。われわれは今や、単一の核家族のレベルを超え、ホモ・サピエンスの人類学的システムの完全な再構成を試みなければならない。人類の居住する世界の周縁部で、農耕民の集団にも、狩猟採集民の集団にも見られるのは、家族の集住である。(上134)

 

一人の男性とその母親の兄弟の娘とのあいだの非対称性の婚姻〔母方交叉イトコ婚〕はというと、これはレヴィ=ストロースが彼のシステムの中心に据えた形態(彼の言う「親族基本構造」タイプ)であるが、ローラン・バリー〔フランスの民俗学者〕が著作『親族関係』で示したとおり、実際には地球上に例が少ない。そして、それが現存している場合には、父系制への変容によって生み出された非対称性の結果の一つであるように思われる(略)。構造主義思想の言う基本的交換は、自然状態を反映しているどころか、歴史の所産なのである。(上139)

 

ウェスターマーク効果と呼ばれているものが示唆するのは、近親相姦のタブーが文化事象ではなく、自然選択のプロセスに由来する無意識の行動だということである。このタブーは《正真正銘の強い本能が持つすべての特徴を備えており、いうまでもなく、他の種に属する個体との性的関係に対する嫌悪に非常によく似ている》。この禁忌は、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択されたのだ。なぜなら、内婚――ここでは核家族の内部での婚姻という狭義の内婚――による退化は当該集団の社会的効率を削ぎ、結局その集団の淘汰に行き着くからである。

 ウェスターマークは普遍主義的ダーウィン主義者である。彼が自然選択という仮説を用いるのは、あらゆる人類に共通のものを明確化し、説明するためであって、今日の社会生物学にはびこる「退化した」ダーウィニズムがしばしばそうしているように、人種間の競争と、人類の中での自然選択について想像をたくましくするためではない。明らかに、ウェスターマークが正しい。彼よりもあとに登場したフロイトや、レヴィ=ストロースその他、あんなにも大勢の学者たちが近親相姦の回避の内にひとつの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな、人文科学の歴史はこうした知的後退に満ち満ちている。(上142)

 

4章 ユダヤ教と初期キリスト教――家族と識字化

 

かつてジェームズ・ジョージ・フレイザーは、旧約聖書の物語に関して、強迫的なまでのこだわりの対象となっている長子相続の規則と、その規則に違反する相続をおこなう人物が続々登場しているということの間の矛盾を指摘した。そのような文学的表象の原型は『創世記』に見出せる。ヤゴブが母に助けられて、兄エサウの調子権を横取りするエピソードがそれである。〔精確には、ヤコブはエサウの油断に乗じて長子権を譲り受ける。母の助言と手助けで横取りするのは父イサクの祝福である〕。長男でない跡継ぎや、男たちよりも強い女たちの例は、他にも多く挙げることができる。末子に特定の役割が与えられるケースもあり、これは原初的な(フレイザーは「自然な」と言っていた)核家族に典型的なことであった。息子たちのうち年長の者がそれぞれ自分の家族を作るために次々に新しい土地へと去っていったあと、末子が親の面倒を見るというシステムであった。なにしろ、ホモ・サピエンスは移動しながら暮らしていたのであり、初期の農業は膨張的だったのだ。件の矛盾を説明するために、フレイザーはもともと古い核家族が存在していたと前提し、その仕組みと機能を、後の世に現れた旧約聖書の編纂者たちがもはや理解していなかったのだと考えた。…(略)…しかし、フレイザーの推測よりさらに一層シンプルに、旧約聖書が書かれた時代にも依然として一つの矛盾が存在し続けていたと想像してみることを阻むものは何もない。つまり、当時、長子相続は新しい概念で、先進的なものとして社会の上層部から律法学者らの文化の中に浸透していたが、ユダヤ地方の一般住民たちの習俗であった未分化の核家族がそれに抵抗していたのではないだろうか。そしてその両者のあいだの緊張関係が宗教的神話の形をとって、旧約聖書のあちらこちらに表れたのではないだろうか。(上163)

 

キエフ・ロシアのキリスト教への改宗が、モスクワ中心のロシアによる父系制の獲得にも、モンゴル人による征服にも先立っていたことに留意しよう。ロシアの父系制共同体家族が農村で完全に実現したのは十七世紀半ばから十九世紀半ばにかけて(略)、すなわち、キリスト教化より七、八世紀あとだった。東方正教会のマリア信仰熱はカトリック教会のそれに何ら劣らないので、その形に結晶したキリスト教のフェミニズム的特徴が、ロシアの父系的特徴の浸透にブレーキをかけたことは充分に考えられる。正教会的フェミニズムはこうして、十全に発展した父系制家族編成が、依然として高い女性のステータスと組み合わさっているというロシア文化のパラドクスの説明に貢献する。(上184)

 

5章 ドイツ、プロテスタント、世界の識字化

 

初期の表意文字システムの場合には、直系家族との関係はおそらく非常に緊密だ。あの種の文字を使いこなすには厳しい修練が必要なので、おそらく、直系家族の継承性と文字表記技術の獲得のあいだには必然的な関係が存在するのだろう。私がここで喚起しているのは、書記を家業とする家族内での父から息子への継承だけではない。中国の文字であり、日本でも用いられている漢字の数が、じつに数千にも上ることを思ってみようではないか。もし、継承のために考え出された家族システムもなく、その中で子供に対して働く親の強い権威もなかったとしたら、あれほど多くの文字を記憶することなど考えられただろうか。今度は二十一世紀の現在に身を置いてみよう。中国と日本の文字表記システムは今も生き延びているが、こんなことが可能だということ自体、あの両国に高いレベルの家族的・学校的規律が存在するからこそであろう。(上207)

 

6章 ヨーロッパにおけるメンタリティーの大変容

7章 教育の離陸と経済成長

8章 世俗化と移行期の危機

9章 イギリスというグローバリゼーションの母体

 

10章 ホモ・アメリカヌス

 

教育、テクノロジー、経済を考慮して言えば、一九〇〇年から二〇〇〇年にかけて、米国は間違いなく世界のトップランナーだった。しかし、誰もが認識しているその現代性・先進性を超えて、われわれは今や、アメリカなるものの人類学的基底が、イギリスのそれにもまして原始的――あるいは、もう少し中立的な言葉を用いるなら原初的――と見做されざるを得ないことを知っている。事柄を解釈するためのこの新しいカギを手に入れたわれわれは、今後このカギを用いて、米国の社会的メカニズムに固有の、一見当惑させられるような多くの要素をついに解明し得るのだ。おそらく受け容れることさえもできるだろう。それらの要素が表現しているのは、われわれの社会よりも人類の原初の状態により近い社会が大西洋の向こうに存続しているという現実にすぎない。アメリカの精髄は、原初的なホモ・サピエンスの精髄にほかならない。それが偉大なことを成し遂げてきたという事実を、われわれはやはり認めるべきだろう。(上343)

 

彼らは、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張関係と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった。(上351)

 

11章 民主制はつねに原始的である

 

アメリカがフランスに先んじて近代民主制を発明したのも、原初的な自然性というこの同じ理由による。なぜなら、近代民主制は、アメリカで人類の太古的基底に大衆の識字化が重ね合わされた結果なのだから。その基底には、自然で原始的な民主制が含まれているのである。

 パリ盆地の激しく反抗的な平等主義は結局、平等な市民の集団を確立する上で、イギリス由来の非平等主義〔平等への無関心〕よりも効率が低かった。

 歴史――古代ローマの共和政時代の父系制共同体家族が、帝政時代に平等主義的核家族になったという長い歴史――を通じて構築された平等原則によって確立できるのは、実際のところ、個人と個人の間の抽象的な平等だけだ。平等主義は集団に対しては解体的である。それは、何によっても統制されない場合は、個人が集まっているだけで、どの個人も全体への隷属を受け容れない世界、文字どおりの無政府状態を生み出す。民主制は、集団的現象であるから、無政府状態から自然に発生することなどあり得ない。(下33)

 

12章 高等教育に侵食される民主制

13章 「黒人/白人」の危機

14章 意志と表象としてのドナルド・トランプ

 

15章 場所の記憶

 

 大人たちが子供たちに強い規範を教え込む場となるテリトリーを想像すること、それは、継承という現象に関して、明示的でなくともフロイト的解釈を踏襲することにほかならない。私は純然たる家族を枠組みとする考え方から離れはしたが、依然として、子供たちは教育によって――その教育が権威主義的であろうとなかろうと――鋳型に嵌められるのだと思っていたわけである。…(略)

 ところが、経験的に確認される現実が証拠立てるのは、移住者がおおむねかなり容易に自分たちの習慣や信念から離れること、そして、ローカルな人間同士の相互作用の中で、無意識的な模倣を通じて大きな適応能力を示すことである。そのようにして、移住者はかなり頻繁に、子供時代に抱いていた価値観から身を引き離す。

 この段階において、受け入れ社会に住む個々人が帯びているのは「強い」価値観ではなく、むしろその逆で、「弱い」価値観なのだと考えてみなければならない。さてそこで、根本的な逆説は、弱い価値観という仮説こそが、各地域の気質の持続性を、いいかえれば「場所の記憶」という現象を説明してくれるという点にある。実際、あるテリトリー上の圧倒的多数の個人が有する価値観が弱ければ、これまた弱い、または相対的に弱い価値観を有していて、それを受け入れ側の集団の価値観に取り替える傾向のある個人たちが移民として流入してきても、結果として元々のシステムが希釈されることはない。

 ここでわれわれは、ホモ・サピエンスという母胎の中心的要素である柔軟性を、このたびは模倣的行動という概念と結びついた形でふたたび見出している。したがって、この分析の最後に、われわれは断言してよいだろう。受け入れ社会の個々人のレベルにおける弱い価値観という仮説によって、場所の記憶の存在が理解可能なものになり得る、と。…(略)…重要なのは、多くの個人が弱く有している価値観が、集団レベルではきわめて強く、頑丈で、持続的なシステムを生み出し得るということである。たとえば、ひとつの信念が、個々の人間によって濃密に抱かれていない場合でも、あるテリトリーにおいて、長い年月、ときには果てしなく生き続けることがあり得るのだ。(下151~153)

 

16章 直系家族型社会――ドイツと日本

 

17章 ヨーロッパの変貌

 

 第15章で述べたように、移民は大抵の場合「弱い」価値観の保持者であって、彼らの無意識的模倣による適応が、一般的には、移民受け入れ社会の人類学的システムの恒久性を担保する。しかしながら、「場所の記憶」は、移民の流入が一定のテンポで進み、かつ限定的であるという前提の上で機能する。ほんの数カ月の間に夥しい数の移民集団が一塊になってやって来るというのは、まったく別の現象である。…(略)その結果、同地域の政治的文化が反アラブ人的な方向へと持続的に偏り、一九八〇年代の中頃以降、この地域では「国民戦線」〔極右と目されているフランス政党。二〇一八年に「国民連合」に改称〕が高い得票率を示すようになった。当該のプロヴァンス地方とラングドッグ地方の元々の文化には、人びとをそうした特定の敵意へと仕向ける要素はいっさい存在しない。ローカルな基盤に変更が加えられたのだ。新たな外国人恐怖症(フオビア)が導入され、それ以降はその恐怖症(フオビア)が、まさに「場所の記憶」の原則にしたがって永続化している。(下231)

 

 教育領域に新たな階層化が出現し、高等教育を受けた者とそれ以外の者が分断された結果、ヨーロッパの至るところで、先行した米国の事例どおりに、かつて大衆識字化の同質性の中にしっかりと根を下ろしていた民主主義的感情が衰弱した。アメリカでは、この動きは、プロテスタンティズムが持つ形而上学的な不平等観念の痕跡によって、また特に、自由主義的で非平等主義的な家族構造――このタイプの家族システムに培われた文化は、大きな所得格差を許容する――によって助長された。しかしアメリカでは、個人はあくまで自由であり、不平等が原則として予め想定されているわけではない。それゆえ、白人たちの苦しみが、最終的には反抗と、二〇一六年の大統領選におけるドナルド・トランプの選出につながった。彼らの反抗は、本書が展開した人類学的パースペクティブに一致する形で、最初の段階では外国人恐怖症(フオビア)として表面化した。アメリカは、もしそれがアメリカに可能であるなら、よそ者に敵対的な原始的デモクラシーから、自らの内に潜在している普遍性の部分を引き受ける、より成熟したデモクラシーへの道程を改めて辿るべきであろう。

 一方、EUの領域、そして特にはユーロ圏領域において支配的な家族的・宗教的基盤は、権威主義的かつ不平等主義的である。この与件は、教育の新たな階層化に起因する民主制の衰弱を、アメリカにおけるよりも遥かに遠くまで、つまり民主制の完全な消滅にまで運んでいくことができる。われわれはすでにその段階にいる。ユーロ圏の人民の投票はもはや尊重されない。ギリシア人、オランダ人、フランス人は、どんなことでも国民投票で拒否できるのだが、次の段階では、その投票結果そのものが、彼らの指導階層によって拒否されてしまう。このシステムの中核を成すドイツの政治システムは、正真正銘の民主制と見做され得るだろう……。もしドイツの政治的エリートたちが、かの連邦議会で、またヨーロッパ議会で、「左派と右派の連立」なるものを実践していなければ――。反論が聞こえてくる。実のところ、「左派と右派の連立」の何がいけないのか? このやり方は、誰もが好んでその民主的性格を褒め称えるスイス・モデルに一致しているではないか? それに、ドイツの国民は、上から降りてくる権力を受け容れているといっても、彼ら流のデモクラシーの中で相変わらず自由だ……。しかし、もしドイツがリーダーとなるならば、ヨーロッパは間違いなく壮大な「民族的デモクラシー」に変容し、その中では、支配的な一つの民族が単独で自らの諸権利を十全に行使することになるだろう。

 繰り返そう。こうしたことは何ひとつ、アクシデントの類いではない。歴史の悔やむべき逸脱に属すものではない。ヨーロッパで発展した政治的・経済的・社会的システムは、諸国民を位置づける階層秩序、緊縮政策、経済的不平等、代表民主制の欠落などを伴い、まさに直系家族が、ゾンビ・カトリシズムの支援を得て(また、イタリア中部、バルト三国やフィンランドでは、不平等は奨励せずとも権威主義を強化する共同体家族が供給する補充兵部隊と共に)、生み出すべくして生み出した正常な形態なのである。ヨーロッパ全域を一つのエリアとして見たときには、全米におけるより拡大しているといえる不平等の擡頭も、これまた正常だ。なぜなら、直系家族が持つ不平等主義の潜在力は、複数の民族が共存している状況では、絶対核家族のそれよりも大きいからである。(下234)

 

 この章で注目している正常性の最後の要素は、システムへの反抗が、本物の自由主義的価値観を担う核家族型が支配的であるか、またはかつて支配的だったことのある国で起こっていることである。唯一、EUと訣別しようとしているイギリスでは、絶対核家族構造が一貫して強力な自由主義的民主制の伝統を下支えしている。…(略)…しかし、ハンガリーでも、ポーランドでも、フランスでも、オランダでも、あるいはイギリスでも、EUに対する反抗の構成要素の内に外国人恐怖症(フオビア)が入っていることは否定すべくもない。それも含め、すべて正常なのだと、改めて述べておく。米国においてと同様、民主主義の失地回復はヨーロッパにおいても、それが可能なところでは、原初的民主制の民族的基盤に立ち帰って、そこから出発しなくてはならない。将来的には、もしかしたら、民主制の概念をより普遍主義的なものにできるより良き日が訪れるかもしれない。(下236)

 

18章 共同体家族――ロシアと中国

 

 外婚制共同体家族はおそらくゲルマン人の直系家族とモンゴル人の父系制組織の衝突から生まれたのだが、ベラルーシと現在のロシアの北西部辺りがその発祥地域であった。(下247)

 

 しかしながら、中国の膨張主義を誇張するなら、われわれは誤りを犯すことになるだろう。反日本の外国人恐怖症(フオビア)と南シナ海への膨張は、リアルな帝国主義的主張を表出しているというよりも、困難な国内状況への戦術的調整を意味している。中国人は人口があまりにも大きいので、その内部の重みに阻まれて、正真正銘の膨張主義は実践できない。人口の塊があの国を、物質を膨張させるよりも、むしろ内に引き込んで濃縮するブラックホールのような状態にしている。(下272)

 

 女性たちを周縁化したり、家の中に閉じ込めたりすれば、彼女たちの教育にブレーキをかけ、ひいてはその息子たちの教育にブレーキをかけ、結局、父系制の親族網の中に閉じ籠るよう息子たちを仕向けることになる。こうして、男たちもまた、本物の個人であることをやめてしまう。彼らは男性集団として父系制社会を支配するけれども、しかしその社会の中でしばしば、個人としては子供状態にとどまる。この事情により、父系制の世界では頻繁に次のような逆説的事態が発生する。すなわち、男が公式の場を支配するが、自分の家の中では妻から子供のように見做されているという事態である。このような形で成立する社会は、無限に創造的であることができない。起源的文明の中心地に起こった反女権拡張的な退化が、その地域の歴史的発展の停止を説明し、さらには、進歩の遠心的な地理的移動――メソポタミアからイギリスへ、中国から日本へ――を説明する。(下274)

 

 最後に私は、ヘーゲルをもじって、歴史におけるロシアの逆説的な位置を強調したい。あの国民は、耐え難くも普遍主義的な共産主義システムを自らに課すことができた。しかも、世界を救った。ナチズムを打ち破ったことは、人類普遍の歴史への主要な貢献として特筆されるべきである。しかし、ロシアは本当に、普遍的な何かを代表しているだろうか。ロシアの共同体主義的でありながら女権拡張的な人類学的下部構造の分析は、あの国がもともと、人類学上の特異例、歴史の偶発時にすぎなかったことを明らかにしている。(下275)

 

*****抜粋終了*****

参照ブログ;

ダンス&パンセ: サルのホームと原発社会 (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 交換、継承――飛弾五郎氏をめぐって (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 教養雑感 (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: <家族システム>と<世界史の構造>――エマニュエル・トッド『家族システムの起源』ノート(1) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(2) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(3)――柄谷行人著『遊動論』と (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 「ゲンロン」をめぐって――トッド・ノート(6) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 夢のつづき(7)――ドストエフスキーをめぐって (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 柄谷行人著『世界史の実験』を読む――平和条約を前に(4) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 屑屋再考案3――トッド・ノート(7) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」をめぐり――戦争続報(5) (danpance.blogspot.com)