2016年3月28日月曜日

交換、継承――飛弾五郎氏をめぐって

「一つは、何故各個人にとって動機も背景も一様ではないはずの一大事である自殺の数が、この国で毎年ほぼ一定数であるのか不思議でしょうがないから、なんとか理由を知りたい、説明を試みたいという欲求がわくのだろう。そうして、もう一つは、その数が1997年の約二万四〇〇〇から1998年の約三万二〇〇〇に急増し、翌年からは再び、ほぼ一定数を保っているのだが、1997年以前も二万三〇〇〇前後であまり変動がなかったことから、この1997年から1998年にかけて何かめざましい変化がこの国で生じたと考えられるので、その変化について考えをめぐらせたいと思うのだろう。
だが、表向きはこの二つだが、考えざるを得なくなった一番深い動機は、1997年の前半に自分もまた明らかに自殺の衝迫の内にあったからだ。当時のことは、まともに思い返すのを避けてきた。嫌悪感と恐怖の故である。」(飛弾五郎著「自殺について」・『飛弾五郎の初心とその持続――飛弾五郎文選』所収 高澤秀次編 associations.jp )

「社会学がひとつの科学であり始めるのは、社会学が、人びとがときに本人たちの意識を超えた社会的な力によって動かされるものだということを認めるときであると、デュルケームは言った。人びとが自分たちの行動に与える意識的解釈は必ずしも正確ではない。かくして、近代社会学を創始した著作である『自殺論』は、何人かの自殺者たちが遺した説明や、死亡を記録した係官によって特定された動機を拒否するところから始まっている。デュルケームはむしろ、自殺行為が客観的統計の中で、時、空間、家族状況、宗教によってどう分布しているかを見ることによって現象の意味――あるいはむしろ複数の意味――を探究している。それこそがまさに、「私はシャルリ」という現象を理解するためにわれわれがやらなければならないことだ。このような展望において、デモ参加者たちを煩わせることはしないでおこう。彼らはしばしば、自らがデモに参加して何をしていたのかを本当には説明することができなかったのである。」(『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』 エマニュエル・トッド著 堀茂樹訳 文春新書)

飛弾さんが亡くなったかもしれないと、友人からメールで知らされたのは、もう半年近くまえだろうか。その真偽がようやくのこと確認できたのは、年末になってから。そして昨日、その確認の労を知り合いづてにとってくれた、今は早稲田の古本屋の店主から冒頭引用の追悼冊子のコピーをいただいた。彼は、その冊子のエセーの一つ、柄谷氏の社会運動たちあげにかかわる熊野大学での「七人の受講生」の出会いをつづったものの中で、「H氏」と紹介されている人物だったが、私が問い合わせるまで、飛弾さんのことは知らなかった。年に一度は訪れてくれていたのが最近みえてなかったからそれは本当かも、とすぐに思いつく連絡手段で探りはじめたのだったが、そのH氏と私の電話がつながるまでに、数か月が過ぎていた。普段はいつも店じまいなような古本屋の座敷で話しこんでから家にもどると、さっそく確認できたと電話がくる。自宅へのものであったので、受話器をとった女房とそのまま話し込む。というのは、私の女房も、その飛弾さんのいう「七人の受講生」のうちの一人で、「Y]と紹介されている女性だからである。だから、もともと、私よりも女房のほうが、その真偽を知りたがっていた。

私が飛弾さんと出会ったのは、柄谷氏の始めたNAMがその著作を通して参加者を呼びかけはじめてからで、私の、たしかルソーと植木屋技術のことを掛け合わせたメールでの文が飛弾さんの目にとまって、東京の事務所でチューターをやってくれないか、と声をかけられたのがきっかけだっただろう。「ダンサーのY]こと女房と話したのも、おそらくそこでの会合が最初であったろう。あれから、その社会運動が、あのような解散にいたる顛末をふむことは、飛弾さんにはだいぶショックだったろう。そして、その解散へ向けて一躍をかった張本人の一人であるかもしれないと飛弾さんは推察したろう私のことを、飛弾さんはよくおもっていないな、と私は感じた。だから、私は、ここで飛弾さんを追悼するようなことはしたくない、というか、できない。自らの命を贈与するまでにしてあの運動にかかわっていたかもしれない者の真剣さと、いま向き合える私がここにいるとはおもえない。私はただ、遺作集として組まれたその小さな冊子を読んで、ほとんど自動的に思い浮かんできた想念を、ブログとして書いてみるだけである。

私はその飛弾氏の冊子を手に取る前、上引用の、トッドの『シャルリとは誰か?』を読んでいた。その作品を、柄谷氏が書評でとりあげていると、飛弾氏の件を真っ先に知らせてくれた先にあげた友人のメールにあったからである。私はすでに、シャルリ・デモには懐疑的なブログを書いていたので、柄谷氏のほうが先にその作品を書評してしまったようですよ、と。またその友人のメールには、最近神田の古本屋で、かつての『批評空間』を買ったら、飛弾氏の定期券がはさまっていた、ともあった。
柄谷氏のトッド評とは、トッドの統計学を、「家族内での交換様式」としてみる見方、と自身の「世界史の構造」的な理論に引寄せることから語られている。そして飛弾氏は、日本における自殺件数の1997~1998年にかけての急激な増加を、その交換理論において納得しようとした。――「様々な人間の集団が形成されるのはこれらの交換関係に基づくと洞察するこの理論は、任意の社会構成体に法則が見い出されることの説明をなしうる。…(略)…資本主義万能、すなわち商品交換が圧倒的に優勢だった社会構成体から、収奪と再分配という交換関係が、すなわち国家が前面に露出した社会構成体への移行があったのではなかったか、と疑ってみたい。」(前掲文)
日本バブルがはじけたとされるのは、1992年ごろである。一度に多くの会社が決算を迫られると、むろん貨幣が足りなくなるので(信用で実際の貨幣量よりは多くの取引がなされているので)、そこで破産がおきる。が、実際の会社の倒産までには、時間がかかる。「待ってくれ」という命乞いのやりとりがあるのだ。しかし、いつまでも待ってはくれない。その時間切れが、1997年ごろからはじまったのだろうことは、倒産件数の急激な増加、その統計結果をみればわかる。要は、自殺数の増加は、実際の倒産件数とパラレルであることがわかるし、おそらく、そうみるのが常識的な線だろう。私の草野球仲間だった不動産屋の社長も、それより少し遅れてだったが、小学生の息子とまだ小さな娘を残して、自動車の中で睡眠薬を飲んで自殺している。そのときの保険金で、妻子は暮らせているのかもしれない。当時まだ40代のその社長は、死ぬ前、若い衆を2・3人つれて、韓国へカジノにいっている。むろん、金はだしてやっている。まさに、命をかけた賭けにいったのだろう。
なんで自殺数の増加があったのか? バブルがはじけたから。その言い方を、交換理論を使って、難しく言うことはできる。資本が信用でまわっている交換様式C(商品交換)のうちはいいけれど、それが破綻・中座してしまえば、その回路とは別系統であっても、なんとしても金を回収しなくてはならない。全額は、信用でヴァーチャルに膨らんでいただけだから、物理的に無理である。だから、収奪と再配分という、国家的暴力、すなわち交換様式Bに頼らざるをえなくなってくる、と。この二つの言い方の違いに、何か意義があるのだろうか? 本当に、この言い換えで、飛弾氏は、自身の自殺衝迫をなだめることができたのだろうか?

アメリカの社会運動の作品翻訳を数多く手掛けている高澤氏編集のこの遺作集に、「写真」という、熊野大学のセミナーからうまれたという文集『牛王』へ掲載予定だった、飛弾氏の遺作になったエセーが収められている。それは、飛弾氏の父親の葬儀をめぐって綴られたもので、飛弾氏の長男、飛弾氏の父からすれば孫にあたる3代目の世代までの集まりのことが書かれている。妻と、次男・三男は実家にやってきたが、「自分と折り合いの悪い長男が来てくれるだろうかという一点」が喪主たる飛弾氏の「気がかり」だったが、長男は喪服姿で現れてくる。それどころか、その晩は打ち解けることもない様子の長男だったが、翌日の散会後、偶然帰りの電車で一緒になった姉の姪とその主人に、長男は自分から話しかけてきたと飛弾氏は報告を受ける。「父が活躍している」と、飛弾氏は感じる。そうした家族間の経緯があったあとのある日の反原発デモ、自分のすぐ後ろで写真を撮っていた仲間の一枚に、今の自分と同い年くらいの父が写っていた……このエセーは、飛弾家3代にわたって、なんらかの価値が伝承された、交換されていったことを伝えている。互酬的交換様式Aである。
飛弾氏が自殺統計から着目した1990年代後半といえば、郵政民営化(郵貯の市場への流入即ち市民貯蓄の収奪と再分配による借金返済)が議題にあがり、小泉純一郎という3代目政治家が登場してきた時期である。現総理も3代目なのだから、その国政の空気が続いていると言えるだろう。おそらく、彼ら3代目も、祖父から、トッドの日本家族の分類からすれば、直系相続的な様式から、なんらかの価値交換を果たしてきているだろう。

私の勤め先の植木屋も、3代目になってきている。以前のブログでも言及したが、今は一社に二つの会社があるようである。親方と団塊世代職人と私の、寺社やこれまでの顧客民家を請け負う旧い会社、役所からの公共仕事を中心として新しく3代目が自身で取って来た仕事をこなす会社。そうなったのは、独立心のある3代目が、合理的計算がたち設け(発展)を期待することのできる仕事を独占しようとしたことにある。女房をとおしてつけてきたそんな話を、ならばやってみろと、2代目親方が明確に区別した。数か月で、3代目がひきとった見習い職人は、怒ってやめていった。その人間関係というよりは、合理計算の関係に嫌気がさしたからである。そんな計算は、1代目ではほぼ無視、2代目では考慮しなくてはならない時世なので口からは商品交換的な価値意識はでてくるけれども、それは方便で、しかし、3代目にはそのニュアンスわからず、その価値を文字通りを引き受けて実行するのだった。だから、人間に愛想をつかれてしまった。これで3人目だ。「もうあいつもわかっただろう。」と2代目親方はいう。価値教育なのだ。しかし、意識レベルでは合理計算価値でも、無意識では、むろん同じ家族で生活してきているので、実は、違うのだ。雇われ人の私には見えている。そんな雇われ人の方にこそ、親方自身の価値と技術は継承されていると認識されているので、この会社を受け継ぐのは私なのかもしれない。日本では、養子縁組が多い。が、私はかつて、その結婚から逃げているし、なるほど、2〇年以上も勤めていれば、この世界の価値観が身体的に受肉化されてきもする。が、それは個人身体的にであって、どうあっても、親方や長屋暮らしのようだった団塊世代職人さんとの、その価値共有は成立しないのである。親方自身、やはり私をお客さんとみる見方が離れないだろう。3代目も、意識と無意識で二重化しているが、私も二重化している。そして私には、それが見えるので、3代目に対しては、状況によって対応変わらざるを得なくなるので、立場に立てない。しかし、プチブル出の私に受肉された互酬性強い共同体的価値は、その受肉を反映する私自身の家族の内には反響し、共有化の道を歩んでいるのだ。すなわち、私の息子、その長男へと、受け継がれる。上州の農家の地主鈴木家(父)と、おそらくは仙台の武士あがりの商家菅原家(母)の間で生まれた私と、両親ともに仙台の女房との間で生まれた私の息子は、なんらかの価値変更を被るだろう。が、両親の家系がどちらも東国の人なので、職人共同体の価値にもともと近かったともいえる、だからこそ、私は野球部をつづけてこられ、その息子もサッカーを続けてこられたのだろう。……

トッドが分析してみせるのは、そのような、「家族内での交換」が、彼らの意図をこえて、実際の現実でどのように絡まり、反転し、政治的な行為へと現象してくるかである。

飛弾氏の想いが、図らずも必ず、交換され継承されていることが、この遺作集で確認できる。そして、その運動自体は不死=父子であると、私は見届ける。

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