2016年4月4日月曜日

檜原村から――内山節氏をめぐって(2)

佐藤 私が最悪のシナリオとして怖れているのは、舟でたくさん中国人が渡ってくるでしょ、数百万人のオーダーで。それで日本の限界集落に住みついちゃうこと。
家もあるし、一応電気も通っている、そういったところに住み着いて、実際に生活の拠点をつくり始めてしまったら、なかなか動かすのは大変ですよ。しかも、難民のエネルギーというのは、ものすごいものがありますからね。」(『竹中先生、これからの「世界経済」について本音を話していいですか?』(竹中平蔵・佐藤優著 ワニブックス)

東京都では、島嶼部を除いた陸地での唯一の村と謳われている、奥多摩の檜原村に行ってきた。小学校の教科書にその地域のことが取り上げられていて、息子が行ってみたいと以前から言っていたからである。また内山節氏の『ローカリズム原論』のなかで、檜原村で活動拠点になる宿の経営を試みている若い人たちがいるということをちょうど知ったときだったので、私も興味を持ったのだ。
私が感じ取りたかった点は一つ、秋葉原事件に連なるような若者の孤独と、それとは違う志向をもった若者たちの感性がどういうものなのか、触れてみようということ。それはトッドの「シャルリとは誰か」の分析にもあるような、自らの志向を越えて歪曲されて関係づけられていってしまう人の社会的動きに、耐えられうるようなものがあるのかどうか、私自身がもっと突っ込んだ思考を展開できるきっかけを得られたら、ということ。とくに、ちょうど出発の三日まえ、早稲田古本屋の店主と、高度成長期やバブル時代を知っている我々(団塊世代)や君たち(新人類)の、どうしてもカウンター・カルチャー的になってしまう運動とは違って、不景気と日本の後退しか知らない今の若者の動きは、一緒に考えてはいけないのだ、という意見にも接していたからである。その店主自身は、アパートも経営しているので、そこに賃貸する若者と接してそう言うのだし、地方の運動を支援する内山氏も、そうした若者の潔白さに触れて応援したくなるのだ、というようなことを言っていた。しかし、職人共同体で20年以上働いてなおお客さんな私には、その認識には疑問があり、その疑問は私のこれまでの理論的な追求においても発生してくる。

まずそもそも、理論を論理的に詰めて追う思考自体が、ヨーロッパ移入の近代発想だ、それがよくない、世界を前提にしたような普遍的思考(どこにでも通じることを観念した「場所的普遍」)ではなく、地元やその現場の時間を大切にしたそこからの工夫・思考に基礎をおいた「時間的普遍」でなくてはならない、「大きな物語」はいらない「小さな物語」だけでいい――この実践前提は、説得力があるのだろうか?

たとえば、
(1)我が子を失った親は、なんでその子がこんな目にあったのか、その真実を知りたいと欲求する。むろん、その説得物語は、論証的で辻褄があっていなければならない。この思考欲求は、ヨーロッパ近代からの借り物なのだろうか? 

(2)勤め先の老人ホームのマンションから老人を放り投げてしまった若者の事件を、その勤め先の現場においてそうならないよう処理することができただろうか? 秋葉原事件を起こした若者は、地元青森での仲間関係はあったが、それよりも自己の孤独をほっとやわらげさせたのは、第三者との「斜めの関係」であったという。ローカル(現場)な処理志向だけで、現今の問題を解決できるのだろうか?

(1)において、もう少し突っ込みをいれてみることはできる。我が子の死を惜しむのも、それは医療技術があがって少子化の核家族が基本共同体になってきたからだ。近代以前では、赤ん坊のうちにたくさん死んでいくので、たくさん産み、たまたま生き残った子供たちが育っていく。そうした社会・自然条件の下では、この子の死の謎を裁判的に論証していくことで自己納得し死を受け入れていく、そんな発想はとれない。ゆえに、現今の親たちの死を悼むまでの欲求の在り方自体が、近代的に制約されたものなのだ、と。なるほど、ならば、その制約をとれば、我々はまた、その子は死んでいない、魂が裏山に行っているだけだ、という物語で納得するのだろうか? おそらく、たとえそんな地元物語を受け入れるようになったとしても、すでに裁判的論証論理と、どちらが今の自分を生きやすくするか、と再選択せざるをえない過程をもつだろう。すなわち、物語にせよ論理にせよ、その発生には、なぜかと追求を迫るような欲求があって、それは洋の東西変わらないのではないか? 人間の嘆きは、終わらないのではないか?

(2)については、内山氏自身が、ムリがあると再考しているのかもしれない。ムラあるいは共同体の復興には、外との関係、外からの人を受け入れる必要性を説いている。が、それは理論的にというよりも、現場での経験からで、だから理論的にはご都合主義なところがある。私の推定では、おそらく、内山氏が長く暮らす群馬の上野村の自然が、変わってしまったところからの態度変更なのだ。最近では、育てている農作物が、シカやイノシシの里山への出現で、まったく収穫できなくなってしまったという。むろん、野生動物の頻発は、杉など商品価値の高い針葉樹を高度成長期に植栽してしまって奥山に餌がなくなってしまったから、という「自然と人間との交通」の変化ということもあっただろう。しかし実際には、そんな人口樹林帯も、手入れが放置されていたので荒れ果て、つまりはもとの自然条件的な生態へと移行しはじめているのだ。今は内山氏が参照する江戸時代以上に、自然が豊富な日本の山となっている。では、それなのになんで動物が里へ降りてくるのか? それは、そこが過疎化し、畑で作物を耕している人びとが見えなくなってきた、つまりは里さえもが自然化してきたからである(千松信也著『けもの道の歩き方 猟師が見つめる日本の自然』)。そして内山氏自身、収穫ゼロの現実のなかに、人為的関与を越えた、自然自体の遷移(人が住めなくなってしまう、存在しなくなってしまうまでの自然世界)を認め、想像せざるを得なくなったのだ。だからそこで、以前にはなかった視点、「自然と自然との交通」ということを持ち出さなくてはならなくなったのである。しかし、その外部としての自然を持ち出すとは、「使用価値」に重きを置いた「自然と人間との交通」に基づく「小さな物語」の世界ではすまなくなる、ということを暗黙には意味してしまう。その理論的な不整合を、内山氏は追求しようとはしない。初期の作品にみられた粘り強い論証的態度が近代的でよくないという立場だったのだから、おそらく、著作家として世間に出てしまえばもうその緊張からは解放されるのだろう。以後は、自身の使う言葉の概念を規定してみせる面倒作業は省かれて、世間のイメージに依拠した用語法、大西巨人氏ならば「俗情との結託」と批判されるような著作態度と私には見えるのだが、しかし、もともとがそういう立場の重要性を思想として実践する、ということだったので、書き方と内容が、実践と理論が内山氏にあっては一致してきた、ということなのだろう。しかし私には、たとえ一般的な価値形態が成立して以降の「労働過程」を分析している現象学的な認識で論を進めてしまっていると、今からは批判できるものであっても、やはり初期の『労働過程論ノート』や『自然と人間の哲学』のような著作のほうが、はっとさせる着眼点がいっぱいあって面白い。彼はあくまで、「定住(定着)」以後の安定的な人間の有様を自明視して、以後の現象を認識分析してみせるのである。しかし、何万年と「遊動」していた人類が、なんで「定住」し、そこに「定着」したのか? それこそが、「自然と自然との交通」のことを考えることである。つまり、人間の外部としての自然であり、他者としての人間である。柄谷氏が、人の根本に「遊動性」を認め、それをフロイトの「タナトス(死への衝動)」と結びつけてみるのは、ヨーロッパの近代個人主義を真に受けているからだろうか? 柄谷氏の理論によれば、その死の衝動の反復衝迫自体が、歴史を構造化していく。氏が理念と説く「交換D」とは、ゆえに内山氏が事後的に経験的に認めざるを得なくなった「自然と自然との交通」ということになろう。そこには、冒頭引用した、現今の歴史情勢から想定される「難民」も含まれる、というか、そうした外部としての、他者としての人間(自然)こそが前提となる。内山氏の理論的枠組みでは、そうした本当に外からの遊動民のことは、想定外な事態であろう。あくまで、共同体を活性化させてくれる定住構造の内での他者である。しかし、上野村に全くの他者がぎょうさんと訪れたら、どうなるのか? いやそもそも、上野村自体が、もともとはそうした遊動民、難民の村であったならば? ならば考える前提は、人びとが定着(定住)してからのことではなく、それ以前の認識だろう。

飛騨五郎氏は、なんで自殺数が増加したのだろうか? と問うた。しかし、やはり、なんで人は自殺するのだろうか(洋の東西をとわず)? と問うことが前提ではないだろうか? それも、近代的な個人主義に犯された思考だというのだろうか? たしかに、その理由、ナゾは人によって違い問うても意味のないことになるのかもしれない。しかし、そうした欲求なくして、どんな統計結果分析も、無味乾燥な学術になってしまうだろう。本当に問うている切迫性だけが、論理や物語をこえて、人に説得力を与える。だから、身を以っての、死の贈与は、終わりなき緊張を贈られた当人に与え続ける。考え始めてしまった者の内では、すでに自分が、死んでいないだろうか? 私による私への贈与だ。思考の反復は、死への欲求と結びついている。

檜原村での「へんぼり堂」からの帰り際、女房が舞踏家の田中泯氏の共同体活動の話などをしだすと、一人泊りがけで宿舎を守っていた若者の表情が輝いた。男の私が話しかけても事務的な返答だったが、最後にふと素地が反応した、という感じだった。しかし、死んだ私が感じ取ろうとするのは、そんな若者個人の反応や、このムラ活動の是非ではない。こうした人の動きが、自らの意図を越えて、裏切って、どのように絡まり合い、反転して、世界はどうなってしまうのだろう、ということである。そしてそう想定される世界のなかで、私はどうしようか、ということなのだ。だから、あくまで、それはヴァーチャル、思考実験である。この世で実体的に生きる私など、もはや何ほどでもないと、観念しているのだから。

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