2016年10月16日日曜日

教養雑感

「現下の歴史的転換は、経済に関する転換である前に、その基盤において家族、人口、宗教、教育に関する転換です。大学の優先的課題の一つは、大学が提示する課題、資金を投入する研究の中に、人類の人類学的要素、宗教、教育、芸術などの変容の内部に経済史を組みこむような経済史へのアプローチを再導入することであろうと思われます。審美主義でこんなことを言うのではありません。われわれ人類に起こることの多次元的な性質を知ることが切迫した必要となってきているから言うのです。」(エマニュエル・トッド著/堀茂樹訳 『問題は英国ではない、EUなのだ』 文春新書)

蓮實 一方で、今おっしゃったように、大学に学部というものが存在するのは世界的にかなり特殊なことなのです。もちろん、ドイツには学部が残っていますが、フランスには学部は存在しないし、そもそもアメリカの大学には、学部など存在していない。ハーバード大に唯一あるのはArt & Sciences の学部だけです。つまり、リベラルアーツ教育が大学の主流であるのですが、それが日本では受け入れられておらず、「あの子、法学部受かったんですって」みたいなことがまかり通っている。十八、十九のガキが自分は法学部に入ったなどと思うなと、私は言いたい。たんなる学校秀才でしかない若い男女が真のエリートへと変貌するには、数年間の知的な放蕩生活が必要なのです。本来専門分野は大学に入ってから選択するものでしょう。…(略)…
渡部 その場合、やはりアメリカ式で四年間リベラルアーツをみっちりやらせて、その後二年間ぐらい専門をやるというビジョンですか。
蓮實 そうです。社会に出るまでにそのくらいの年齢的な余裕があるべきでしょう。日本のように二十一、二歳で就職するなんていう国は他にありません。しかも、就職にあたって大学の学部教育に対する信頼は企業の方にまったくありませんから、三年が終わったぐらいの段階で採ってしまう。すると何が起こるか。途方もないミスマッチです。だから何年か経って会社を辞める人の数がずいぶん増えている。大学を卒業してすぐ入った会社で、「自分の未来はこれだ」と思ったとしたら、そいつはバカでしょう。自分の未来はもっともっと先で決めなければいけないはずなのに。それで良い人も半分ぐらいはいるかもしれないけれども、残り半分はそんなことでやっていけるわけがない。
渡部 将来をもっとゆっくり決めるというのは理想的だと思うんですが、社会がどうしてもそれを受け入れる方向に行かない。そこはどうしたらいいんでしょうか。
蓮實 それは社会が悪い、大学も悪いし、やはり日本はつぶれると思ったらいいんじゃないでしょうか。」(「「文学部不要論」の凡庸さについてお話しさせて頂きます」『文学界』2016/9月号)

トッド氏の考察に注目したのは、今から十年以上まえ、ちょう柄谷氏がはじめたNAMが解散を決めたころだったようにおもう。アート系のプロジェクトの会合だか飲み会で、ディドロを研究していた仏文学者の、今年『脱原発の哲学』を上梓することになる田口君に、この人の思考は面白い、と紹及したことがある。統計的な実証的・経験的方法は信用がおけない、というのがそのときの返答だった。それはそうなのだとしても、トッド氏の思考は、近経的なアプローチというよりも、やはり演繹抽象的なマルクスの発想に近いように思えるのである。しかし、トッド氏は、経験・実証的にわかるところ、目に見えるところで抑えて論じる、という節度を維持している。家族関係が原理的にすべてを動かしていると言っているのではなく、経済や宗教、国家といったものが別原理で関わりながら世界を動かしているだろう、ということは経験的に明白なので、その明白さの限りにおいて関わりを述べるだけだ。だから冒頭引用箇所の次では、氏は、自分の「知的姿勢」は「体系的ではないにせよ」と解説している。柄谷氏の「世界史の構造」は、家族(互酬)、経済(商品・資本)、国家(収奪・再配分)との関連は体系的に演繹(仮説)されているのが前提(原理)である。またそこから、両者の決定的な相違、柄谷氏のいう「高次元」を認めるか否か、理念するかいなか、つまりは経験からの飛躍を志向するかいなか、の思想的な個人的態度の有無が生じてくるだろう。トッド氏はおそらく学問態度的には、それを認めない。

ところで、その柄谷氏が『世界史の構造』を出版したとき、私は、それをトッド氏の論考に引きつけて論じている。( http://www.geocities.jp/si_garden/kansekaiko.html

トッド氏にとって「教育」とは、家族関係の進展に影響を及ぼす関数的な「変数」ということになろう。家族の骨格は変わらなく進んでいくとしても、その進行度合いや一時的な歪曲などが、とくには「高等教育」の普及度合いによって知れてくる、とされる。とくには、女性の識字率や進学率の高騰と、逆に男のそれの低下、または、中産階級者の「自殺率」などだ。

そうした統計的変数は、まったくひとごとではないな、とおもわざるをえない。
私の父は大学出だが、母はそうでない。おそらく、女房のほうもそうなのではないだろうか? そして、女房自身は高卒である(妹は進学しているが)。そして今のところ、イツキが大学まで勉強したいと思えるような雰囲気はない。これは階級的には、低落になろう。社会的には、活力の減退を意味してくるかもしれない。蓮實氏と渡部氏の「文学界」での対談は、そんな減衰を追認しているような話になるのかもしれない。が、自殺への衝迫を鬱として抱えこみはじめている世の空気のなかにあって、蓮實氏の久しぶりに聞いた辛辣な饒舌は、何か活力を奮起させてくれる叱咤激励として機能していくところがあるのかもしれない。私には、鬱屈のなかでも必死に読書していた学生の頃の自分が、ふと我に返ったような感じになった。

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