2015年1月8日木曜日

サルのホームと原発社会

「それでも、恐怖心を一〇〇%取り除きたいと言うのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はありません。それはどんな人でも分かっている。しかし、止めてしまったらどうなるか。恐怖感は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の努力は水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです。」(吉本隆明著『反原発異論』 論創社)

「サルの社会は、個体の欲求を優先します。個体にとっての利益とは、「なるべく栄養価の高いものを食べること」と「安全であること」です。…(略)…弱いものにしてみても、食べ物をめぐって無駄に争うよりは、遠慮したほうが結局は得だという知恵があるのです。/ これは非常に経済的なシステムです。絶対的な序列の中にいるから、効率がいい。サルが群れているのは、集まっていたほうが得だからにすぎません。その証拠に、サルは群れから一度離れれば、その集団に対する愛着を示すことは一切ありません。」(山極寿一著『「サル化」する人間社会』 集英社インターナショナル)

ホーム、ということを、昨年末のブログにつづき、もう少し考えてみたくなった。いや、なお考えていることに気づかされて、この冬休みの際(13日までで子供よりながい)に、もっと突っ込みをいれてみようと。昨年は、算数や高校数学までの復習をやりはじめ、数学理論書の概説書や柄谷氏の「内省と遡行」なども昨日は読んでいた。それがなぜなのか、「ホーム」ということに、どうつながるのか、といまようやく思い至ったのである。

まず私は、ホーム、ということを、サルから考えようとしていたことがかつてあったはずだ、とおもいだした。探してみると、それは、柄谷氏の『世界史の構造』への感想文として提示されている。そこでは、エマニュエル・トッド氏の『世界像革命〔家族人類学の挑戦〕』(藤原書店)が引用され、大家族から近代への核家族へとむかうという通念とはちがって、むしろ人類の原初期の方こそが核家族であったこと、そしてその上での引用として京都大学学術出版会の『集団ー―人類社会の進化』から、その人類学的新知見が、類人猿の研究成果からも後押しされている、と指摘した。サルからヒトへの初期段階、なおサルの生活形態を継承していたかもしれない人類は、父ー母ー子を中心とした、核家族的、単雄単雌集団で縄張りを形成していた、という仮説を。だからならば、近代化してこそサル化に再び近づいた我々は、なおサルのままでいるものたちのサル知恵から学ぶべきことがあるのではないか、とサルを肯定評価したのだった。

ところが、この冬休み中に読んだ、冒頭引用した二著者は、サル化に否定的である。吉本氏は、原発開発をやめることは、サルにもどってしまうことだと批判し、逆に山極氏は、そうしたアトム(個人)化がサル社会に近づくことだと批判するのである。資本主義の個人利害優先の進展と、その自然的限界を乗り越えて資源問題を解決していくため、原発技術を基礎的に据えていこうとする社会に対し、行くも退くも「サル」だということだ。もちろん、私がいう「サル」と、山極氏のいう「サル」は意味がちがう。山極氏によれば、私のいう「サル」はゴリラ的であり、研究者はそこを区別し、氏自身の批判する「サル化」のサルとは日本猿のような分類に属するものである。そしてその両サルの違いは、前者(ゴリラ)は核家族的集団であり(現歴史での実際は単雄複雌的)、後者のサルは単に個的な群れであって、集団的なアイデンティティーはない、とされる。ならば、このサル内の区別は、核家族的な近代と、個人=群としての、ドゥルーズ的なかつてのポスト・モダンという概念上の区別ともつながる。むろん後者は、その実践結果としては、資本主義の形式的な戯れ進行を肯定してきたわけだ。吉本氏も、この人類の歴史の進展は不可逆だとして、そのアトム化を、文明論・技術史的に首肯している、ということだろう。しかし、比喩的には「ヒトからサルへ」となるだろう近代を起点とした進化は、本当に不可逆なのだろうか? 原発を開発させた技術の根底には、数学史上の変転、数学基礎論として問われた根底的な問いからの解放として、つまりは、対象の真実を極めるという真剣さからの解放として、そのアイデア体系が無矛盾ならばよしとする形式的な戯れ態度の受容がある。
数学者の岡潔氏は、その数学者の態度変更を批判していたわけだ。高瀬正仁氏は、その岡氏と、カルタンに代表されるような形式主義的態度の数学者を区別し、前者を評価する。前者とは「わかる」という「発見の喜び」があり、その感情が共有されうるが、後者は「理論は簡単な論理の連なりであるから難解ということはありえず、だれにもやすやすと受け入れられる」が、その「論理の連なりが非常に長いため、途中で退屈のあまり放り出してしまいたくなることはある。車の運転を習ったり、コンピューターの使い方に習熟するという感じ」で、「機械操作」だと(『近代数学史の成立』東京図書)。この感じの区別は、山極氏のヒトとサルとの区別と似ているだろう。前者は他者と共感しえる集団性をもつが、後者は個人的な習熟や満足=満腹で終わってしまうと。そしてこの後者の数学が現今にいたるまでの科学技術を支え、我々はそこで唯一その数学態度を有益的として存続証明してみせている原発社会を生きている、ということになるのである。ならば、吉本氏の前提とする不可逆史観は、少なくとも数学基礎論的には、むしろ怪しい、というべきだろう。むろん、我々はもはや何万年と消えない原子力のゴミを抱え込んでいるのだから、実際的には、吉本氏の常識に反論することはできない。可逆だ、その近代の起点に帰ってやり直すこと、今の態度を変えることは可能なのだ、といっても、それはまさに言っているだけにしかならないのである。つまり、我々にできることは、ただ態度を変更することだけなのである。その実現した態度変更が何百年とつづけば、何万年後に原子力のゴミの害がなくなったときに、洗浄されたユートピア社会が実際的に機能してくるだろう、と夢見ることができる、ということか?

少なくとも、たとえ原発社会からもはや脱出することが不可能であっても、私達はやはり、ホームということ、他者と共感しえる喜びのある社会のほうがましだろう、それをめざそう、と思わざるを得ない。志向=思考せざるをえない。津波のなかでの逃げまどいと、放射能からの逃げまどいには、違いがあったろう。前者は助け合いだったり人間の尊厳がみられたが、後者の際には、夫婦の間でさえ考えの違いが問われ露わにされ、つまりは人をアトムとして孤立させて対立させてきたのではないだろうか? この逃走、夫婦喧嘩のなかで、私たちは、もう原発社会はこりごりだ、とおもわなかっただろうか? その感情は、もはや原発社会から抜け出せない、という史的事実とは、別次元にある、違う位相にある態度を要請しないか? 少なくともその根底にある感情は、「恐怖心」ではなく、もういやだ、ということである。そしてフロイトは、それこそが「戦争」に反対しえる不可逆な態度だ、とアインシュタインとのやりとりで表明したことなのだった

数学をはじめからやり直そう、おそらく昨年、私が算数からやり直しはじめたのには、そんな願いがあったからだと、いまわかるのだった。

0 件のコメント: