2025年7月15日火曜日

平野啓一郎著『本心』(文藝春秋)を読む

 


前回ブログで言及した「死者とテクノロジー」での鼎談で知って、平野啓一郎の『本心』を読んでみたいと思った。はじめて読む作家の作品である。

 

この作品は、母と僕(息子・朔也)との関係をテーマに据えたものだけれども、妻と私(夫)との関係にも重ねられてくる(そう予想したから読んでみたくなったのだけど)。それくらい、問いが抽象化、一般化され、つまり今を生きる人たちへ共有できるようよく考えられている。しかし妻を亡くした私にとって、この小説が他人事でなくなるのは、この社会問題を浮き彫りにするべく導入された、母の遺言のような言葉、「自由死」を願うまでになった彼女の「もう十分」という発言をめぐって考察が進められているからだった。妻は、わたしは好き勝手に生きたの、だからもういいの、と自らの死を意識しはじめたのだろうとき、私にそうもらしていたからである。私は、死後になってなおさら、その「本心」とはどういうものだったのだろうかと、彼女が遺した文献に直面して、問い返さざるをえなかった。

 

著作は、いわゆるバブル崩壊以降の、失われた30年と呼ばれた時期を若くして生きた「氷河期世代」の女性の老後、近未来社会を生き死んでいった母として設定されている。(作家自身が、そう通称された世代である。)

 

<多くの人間が、自分が生きているという感覚を、疲労と空腹に占拠されている社会で、僕は母の「もう十分」という言葉を聞いたのだった。>

 

妻は、「もう戦後ではない」と経済白書に宣言された時代に生まれ、高度成長期、バブル期を若い頃生きた世代である。しかしこの時期、女性にとっては、そう言われる世間と自身の被る現実とのギャップを身に染みて感じさせられたのだ、と学説的に跡付けられるし、このブログでも、その時代を生きた女性作家たちの発言に触れてきた。この『本心』では、母と付き合いのあった、母より一回り以上年上の作家・藤原の認識がとく「十分」という意味に、妻の世代の言葉は近くなるのかもしれない。――<何度も戦って傷つき、『もう十分』という人もいますね。>――私は、妻のダンス「エンジャル アット マイ テーブル」の、私(女)は闘っているのよ、というパンフの言葉を思い起こした。妻にとっての「闘い」とは、まずこの男女ギャップ、ジェンダー的な意図が孕んでくるものだった。

 

しかし「氷河期世代」の者たちにあっては、この問題がより一般的な社会問題に包摂されてしまうのだ、という認識を『本心』は示す。

 

<結局のところ、僕は愛の問題ではなく、生活の問題だと考えようとしていた。今のような世界では、たった一度の人生の中で、人がより豊かな生活を求めるというのは、当然のことだった。結婚だって、恋愛がその動機になったというのは、短い僅かな時代の、壮大な、失敗した実験だったと、今では多くの人が考えている。必要なのは、より良い生活を共にするための相手だった。>

 

こうした認識前提から、作品は、対幻想よりかは共同幻想としての世界への対峙、社会的テロの背景問題、そして男女の家族的な営みも、同性愛やペットとの同居と同列になるようなパートナー関係、軋轢を前提としない理想がめざされ、「より良い」ものとして想定される。セックスワーカーをしていた女性・三好と僕との同居から、彼女と身障者のIT起業家・イフィーとの将来へ向けての同居も、その理想が志向されている。「リアル・アバター」という僕の仕事の同僚の、仮想現実ゲームを利用しながらそのままのリアルなテロ決行を試行させられた男・岸谷も、仕事でのバーチャル・セックスを続けることはできず不能におわる。作家が示し前提とした認識は、世代的に共有されている身体的な傷であり、それを深めたくないという辛さが、パートナー的な関係を理想とみさせるかのようである。

 

この認識は、次のより若い世代にも共有されてくる、より一般・普遍的な在り方になっていくのかはわからない。が、より昔の世代で意識化されたことと比較することで、ここにある差異の検討をすることができる。

 

『本心』を読むと、夏目漱石の『こころ』を思い起こす。

 

漱石の『こころ』の一般的な理解では、そこに提示される男女関係は、三角関係であり、その男と男との競争関係のなかで、女を所有したいという欲望が生まれるのだ、とされてきた。ジラールの、欲望とは他者の欲望であると前提する、欲望の三角関係論である(この見方は、大衆社会での消費行動の説明にもなる)。そこからさらに、ゆえに本当に問題となっているのは男と男との次元(競争)なのだから、実は同性愛が、ホモ・ソーシャルが掲揚されているのだ、というフェミニズム的な批評がでる。

 

『本心』はどうだろうか? 僕と三好とイフィーとは、三角関係になる。僕をリアル・アバターとして使用した三好は、アバターとしての僕の口を通して、三好に「好き」なのだと告白する。僕に好意を抱いていると暗黙には理解している三好は、「憐れみの色」をさして僕をみつめ、「……どうかしてる。」と呟いて首を横に振って、二人の男の下を去る。イフィーは、何度となく、僕と三好とは恋人関係ではなく「ルームメイト」にすぎないと、あらかじめ確認していた。そしてこの事件のあと、僕と三好は話し合う機会をもち、好きな男ともセックスができなくなるほどの心の傷を自分は抱え込んでいると三好は打ち明ける。だから打ち明けてきたイフィーと関係を作ることにも自信がなく、打ち明けてこない僕の真意も測りかねている。が、最終的な僕の言葉、「イフィーさんも、自分の障害を三好さんに受け容れてもらえるかどうか、不安がってました。それぞれに事情があるんだし、理解しあえますよ、きっと、大丈夫です。」に勇気づけられるように、イフィーと新しい関係を作っていく決意をする。ここで見ておきたいのは、三好にそう決意させた、僕の「決心」の論理である。

 

<僕は、イフィーとして、三好に伝えた「好き」だという言葉を脳裏に過らせた。そしてそれを、自分自身の思いとして、今こそ改めて口にし直すべきではないか、と卒然と思った。/そのたった二文字分の、僕の声の響き。僕と彼女との間に保たれてきた距離の振動。そのささやかな出来事が、三〇〇億年間という宇宙の途方もない時間の中で、起きるということと、起きないということ。そして起きなければ、僕は死後、起きた宇宙ではなく、その起きなかった宇宙であり続ける、ということ。ほとんど終わりさえなく、永遠に。……/僕の心拍は昂進した。固唾を呑んで、三好を見つめた。/……しかし、こんな誇大な考えは、一人の人間を前にして、何かの行動を促すには、却ってあまりに無力だった。たとえ、あとから振り返って、それがどれほど痛切に感じられようとも。――僕の気持ちは、恐らく、伝わっていないこととされたままで、既に伝わっているのだった。/僕は三好を、僕の側に引き留めたかった。/しかし、その願いが成就したとして、結果的に、三好が幸福となる機械を逸してしまうのであれば、僕に一体、何の喜びがあるだろうか?/僕は、彼女に対してではなく、自分自身に向けて、改めて僕の彼女に対する思いを問いかけた。それはまるで、僕ではない僕からの声のように、重たく胸に響いた。/僕は、三好が好きだというその一事を以て、彼女がイフィーを愛することを祝福しなければならない。――そしてこの時、僕は本当に、そうする気持ちになったのだった。/こんな考えは、あまりに卑屈であり、キレイごとめいていて、そうした理屈に縋る以外、術がなかったと言えば、その通りかもしれない。それでも、僕はそう思えた時、悲しさや寂しさだけでなく、何となく、気分が良かった。ふしぎな心境だった。嫉妬に悶え苦しみながら、自分の思いを押し殺した、というのとも違っていて、必ずしも無力感ばかりでもなかったのだった。イフィーと三好という二人の人間との関係を、同時に失ってしまうことを、恐れてもいたのだろうが。……>(作中強調傍点はブログ機能上省略。/は改行。)

 

この「キレイごと」(理想)への「決心」は、僕とティリという、コンビニでバイトしていたミャンマー人の女性との関係でも反復される。僕は、脅迫的に嫌がらせを受けている彼女を善意で助けたわけではないのだが、そのリアル・アバター仕事中の出来事が動画で拡散され、僕はネット空間上で「英雄」とみなされてしまう(アバター制作で億万長者となったイフィーとも、この拡散動画をきっかけに作られる)。しかし僕は、「本心」ではないとしても、その「善意(キレイごと)」の方向性で生きることを「決心」するのである。

 

ここで重要なのは、他者を介在させているメディア(テクノロジー)である。この新しいメディアが、本心(欲望)を出現させると同時に、つまりリアル(起きた世界)とバーチャル(起きなかった世界)という区別の迫真性を喚起させると同時に、それを融解させている。ジラールは、心理的次元(あくまで言葉というメディアを通したもの)において、本心(本当)は他者の欲望であると指摘した。が、たとえば、その人の消費行動をバックアップし、他との世界的関連でその人の嗜好を解析して商品を提示してくるAIメディアは、その速度と宇宙的な関係の広範さが、欲望を喚起させてくると同時に懐疑心をも付着させはじめる。本当にそれを自分が欲望しているのか、不透明になる。だからこそ、「本心」とは何か、本当にこれが欲しいのか、という問いにつきまとわれる。

 

母の「本心」への問いは、亡くなった母をヴァーチャルなアバター(VF、バーチャル・フィギアと呼ぶ)としてよみがえらせるAIの機能進化とともに深化してゆく。入力データが増進し、リアルに近づいてゆくほど、懸隔が感じられてくる(実際の葬儀実用でも、「死者とテクノロジー」によれば、この懸隔は、「不気味の谷」と呼ばれているそうである)。そして最終的に、僕はアバターの母から離れてゆく。――<僕が<母>を必要としなくなったのも、それが却って、母の記憶を生きることを邪魔していたからかもしれない。>――自分が本当に欲していたのは、外(機械)的な母の反応ではなく、「心の中の反応だった」のだ、と。が、この外と内の区別自体が、進化したメディアによって深刻化されたものだ。しかしゆえにまた、「他者」とは何か、母の他者性により近く直面させられる。僕は問いの進化(深化)とともに、「母の人生を、一人の女性の人生として見つめ直し」はじめる。それはジラールが前提とした認識がより深度を増して、つまりより微細になってきて、欲望(他者)とは何かという問いがより根源的に一般化して立ち現れてきた事態と平行しているのだろう。

 

そしてそうしたこれまでの前提が深刻に曖昧化していくなかで(逆にいえば、軽薄的に付着してくるなかで)、僕は他者を傷つけまいという善意(キレイごと)を引き受ける、外的にメディアに拡散されたイメージを引き受ける方向に「決心」していくのだ。(それはまた、母がよく読んで男女付き合いもあった「自由死」を願った作家・藤原が、「優しくなるべきだ」と本心から決心するとされる態度とも重ね合わされる。)

 

しかしこの論理的流れには、盲点があるのではないだろうか?

 

僕は、最終的に、母は、このような意味で「もう十分」と言ったのではないか、と推論する。

 

<しばらくその意味するところを考えていて、僕は不意に、「お母さーん!」と叫んで自爆する戦友たちの記憶を語った、あの老人のVFの言葉を思い出した。/「あの時、一度、なくしたはずの命だと思えば、私はもういつ死んでも満足です。」/母が七十歳で、改めて「もう十分」という言葉を口にした時、胸に抱いていたのは、それと近い心境だったのだろうか。……/そして藤原が最後に記していた次の言葉が、いつまでも僕の心から離れなかった。/「最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。」>

 

しかし、この「お母さーん!」と叫んで特攻したその飛行機が、最愛とは遠い知らない他者を殺していた、との認識を引き受けて前提したら、どうなるのか? 本心ではなくとも善意(キレイごと)を生きるという決心の認識前提が崩れるのではないだろうか? 高校を中退し生活に困窮する僕も、売春する三好も、テロ未遂の岸谷も、自分たちはまだ一線を越えていない。が、超えてしまったということを引き受けるとしたら? 過去を、歴史を引き受けるとは、しかしそういうことではないだろうか? どこかこの作品は、「氷河期世代」という被害者の認識前提に依拠しすぎているきらいがないだろうか?

 

妻が、「もういいのだ」ともらしたとき、自らが犯した悪を想い起したのかもしれない。いつだったか、彼女は瀬戸内寂聴の名前をあげたことがあった。遺された文献から、似たような経験をしていたからだと知れる。間接的にせよ、自分が決心した行為が、他者を破壊し殺めてしまったかもしれいなからである。しかしそう自らの死の迫りを意識してもらして言った彼女は、訪れてきた死のひと月前の間で、そうも思えなくなったのではないかと、私は直面する。私自身が、他者として立ち現れたからである。そしてもう一度、彼女はその他者を見直し、愛し直そうとした。その他者への問いには、男とは何か、という問いが孕まれ、自分が殺してしまったことになるのかもしれない男との関係への修復が重ねあわされていたことだろう。(そう推定しうる具体的なやりとりがいくつか続いていたのだ。)

 

私の妻への問いは、彼女が抑圧し、家庭をもっていくなかで忘れようとしたネガティブな面、現在には消えてしまった文脈こそを掘り起こすことになっている。がしかしそれは、そこにこそこの慣れ果てた今の時代と歴史に展望を開かせる潜在的可能性があった、あるのだと洞察するからだ。それは、彼女が「闘って」きた痕跡である。「起きなかった」世界、発生しなかったとされた宇宙、つまり抑圧されてしまう現実にこそ、今の世界(家庭生活)を変えていかせる力がある。その力は、妻の死後も、続いてあるのだ。

 

    冒頭写真は、つい一週間ほどまえ、押し入れから発見された、妻が二十代後半の頃であろう描いた絵である(それはポーの「失われた手紙」のように、普段使っている布団の脇にあった)。「講座名 デッサン 題名 般若」とある。妻は二十代のころ、絵を習っていた。私はそれを彼女の父が筆写して額入れした「般若心経」の隣の空間に飾って眺めていた。鬼なのだが、悲しんでみえる。スマホで検索してみると、嫉妬に狂った女性の怨霊で、顔上半分が悲しみ、下の口まわりが怒りを現わしてあるという。この狂った女性を、ある僧が「般若心経」を読み聞かせることで宥めた、という能の話があるという。そして同じ段ボール箱からは、もう二枚、同じモノクロ写真、彼女の等身大のポートレートが入っていた。ひとつは、発泡スチロールに投射された厚みのあるものである。たぶん、三十三歳、ニューヨークへいった頃の写真なのでは、とおもう。まるで女優のように可愛いく、美しい。しかしこれは、おそらく「遺影」のつもりで彼女は撮り遺すつもりだったのではないかと、私は推論している。彼女の「本心」は、誰にも読み取られることがなかった。