2011年2月18日金曜日

落下――天罰・守護霊・人


「今、明白な事実として、人類の一回性を例にあげたが、天地創造の世界観にあっては、天地万物、空間から時間にいたるまで、神によってある時創造されある時終る、一回限りの現象として認識されているのであるから、そこでは、人間以外のすべての現象についても法則の存在は不可思議になるはずである。/天地創造の世界観を持つ欧米の学者も法則の追及をしているから、証明とか法則とかいった問題は、人類共通の問題であるようにも思えるが、日本の学界の、法則定立への強い志向、証明ということに対する信頼ないし幻想は、目にみえている範囲のことをきちっと組み立ててゆく森林的思考方法に、よりなじむためであると考える。森林のなかでは時間は無限であり、万物流転、すべてのものはくり返している。目にみえないところまで、いずれ、きちっと、知識が積み上げられてゆくであろう。森林の学者はこう考える。/砂漠の学者は、世界は認識しきれないという前提から出発するから、私にはこうみえると主張するだけで、その「証明」は本質的に必要ではなく、ただ、他への伝達の手段として「証明」を利用する。」(鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』 NHKブックス312)


退院してきて3日ほどたつ。作業中に木から落っこちて、かかとを粉砕骨折。20メートル以上あるイチョウの木の下枝10メートル近くのところから、気付いたときは落下最中だった。すでに30メートル近くある銀杏並木を手入れしはじめて三週間目、その頂上にいながら、すでに注意力の忍耐が神経疲労で切れていることにはきずいていた。真下は保育園送迎のママチャリがいったりきたり。月曜日で調子もあがらず、労災が月曜日に多いのもうなずけるな、この木の手入れが終ったら10時の一服を長めにとって、なにか違った手を打たないと危ないな、と思い巡らしたりもしていた。相棒は二日酔いだったので、すぐに樹上から降ろして歩道のガードマンをやらしていた。まだ切りおわりもしないのに、「もう10時ですよ、速いですね、きょうあと三本くらいいけるんじゃないですか。」などと他人事のようにほざいてくる。怒るとなおさら集中力が鈍るので、一服のジュースを買いにいかせ、ために私が落ちたときはマグドナルドにいたのだった。一通り枝おろしがおわり、切り枝のひっかかりをとりにまたハシゴをのぼっていって処理したその帰りだった。枝からハシゴのほうへ降りようとしたそのとき、まだ枝が木にひっかかっているのじゃないかと、ふと魔が差したように上を見上げてしまったのだ。降りようとしながら上をみる、同時に二つのことをしてしまうというケアレスミス、普段ならやるはずもないことを、すでに注意力の切れていた状態では無意識のうちにやってしまうのだろう。空がまわった。目まいのように。手は中空をひとかきあえぎ、下をみると、コンクリートの屋根が迫っていた。あすこに頭を打ち付けて、後にそっくり返って死ぬ、そんなイメージが静かに浮かんだ。が次の瞬間、何かが起こったのだ。気付いたときは、地面側に倒れていた。足と肩に痛みがあるが、首がまわる。半身不随じゃない。意識がしっかりしている。携帯電話をだして相棒をマクドナルドから呼び、元請けの社長に電話をかけると旅行宴会中なので、会社にかけかかりつけの病院へおくってもらう手配をする。それから親方にかけると、なんで落ちるんだ注意しろといっただろこんな小さな会社が事故をおこしたらどうのこうのと長い説教がはじまる。そのうちに、元請け社長の息子と二日酔いの相棒が現場に到着する。二人に抱き起こされて病院へむかった。事故原因は? 目先の売り上げとその場しのぎ重視のため、若手育成のノウハウを思索せず、少数のできる者に危険仕事を押し付けっぱなしだからだ、落ちたのは私だけではない。落ちてみて、そういうことだったのかと改めて気付く。しかし私は、そんな馬鹿馬鹿しい世俗のわかりきったことになど、興味がない。しかし、都会のど真ん中の高木を、機械がはいらないため人力の木登りで切っていく仕事とは、いままでの歴史にはない、新しい作業である。その手仕事の新しさのこと、その馬鹿馬鹿しい弱者への押し付け処理を、だれも気付こうとしない。ならばそれは、見殺しということになるのである。実際、私の落下を、バス停で待つ人たちは目の前(上)でみていたのだから。

何がおこったのだろう? 本当なら、死んでいてもいいはずなのに。いや仕事柄、いつ死んでもいいように、子供には遺言めいた言葉をいつも残していて、女房にもヒステリックになって子供と喧嘩(教育)するのは逆効果だからもっと信頼しろ、といっている。自身のホームページでも、仕上げする前にこんな怪我をしてしまって、怪我後すぐにアップした一希との共同作『サンタさんへの贈りもの』も、遺書みたいなものだった。しかし本当にそうなるとは……松葉杖で帰宅後、私は机の下をみた。あの事故を起こした日の朝、私が仕事へいこうと食卓を立ち上がったそのとき、はらっと落ちたものがあったのだ。机と壁の脇に、私はそれを見つけだした。去年のぎっくり腰のさい、座位したところから窓の外にみえた欅のてっぺんの枝ぶりを、デッサンしたものだった。また私は、あのイチョウの木の下枝を、前回の作業終了まぎわの時間調整に切ってその片付けが終ったさい、聞いたこともない小鳥の鳴き声を頭上にきいた。その姿を探したが、甲高い鳴き声が中空に響いているだけだった。そして私は、この二つの小さな出来事を、不思議な気味の悪さとして感じ、覚えていたのだった。私は、机の下から欅のデッサンを手にしてみたとき、だからはっとしたのだ。兆しがあったのではないか? 私の身に迫る危険のことを、教えてくれるものがいたのではないか? そしていざ本当にその危険が発動された最中、私を助けてくれたものがいたのではないか? あちこちにある痣や擦り傷から推理すると、私は落下途中、ズボンの脇ポケットのタオルを入れた膨らみが、ハシゴのつなぎ目にひっかかり、20cmくらい体の向きがかわったらしい。ためにコンクリの平屋根をかろうじてかわして、そこには肩だけが激突し、体が一度ハシゴにのってから、植え込み地側の地面へと跳ね落ちたのだろう。私を落下地点とは反対のほうへひっぱる力が働いたのだ。

一瞬のふとした人間のスキやミスにつけ込んで介入してくる何か、私はその動きを、神とか自然と呼ぶ。職人や、スポーツの世界では、この感覚は日常的なものだろう。それは常に復讐であり、天罰的なものだ。食物連鎖のある生物界はむろん、人の世界(存在)それ自体がなんらかの齟齬・軋轢なのだ。しかしそれでも、その天をなだめるかのように、仲介にはいってくれる存在がいる、いるらしい。世間ではそれを精霊とか守護霊とか呼んでいるけれど、ニヒリストの私には憑いているものではないとおもっていた。しかし私の身の回りにも、私を見守ってくれているそんな霊たちがいるとしたら? だとしたら、私に何をしてもらいたいというのだろう?  ……むかしアニミズムの世界では、そう自然からの意味を読み取って、自分(たち)の物語を構築し、そのことで生と死の充実を図っていた。物語(先)を構築できること、その意志を持てること、それが人間にとっての希望であるだろう。閉じこめられた洞窟で、一じょうの光がさすとき、そこの穴をこじあけていけば外にでられる、と物語=希望が想像されてくるように。私は身の回りから、どんな意味をすくい上げて、霊に答えるような共同の物語を、希望を作り上げていくことができるだろうか?

実家からは、「植木屋やってれば落ちるのは当たり前だ、そんな仕事についているのがわるいんだ」と父親がほざいているのがきこえてくる。そう伝えてくる兄は私が構築しようとする物語に怯え、俺は病人だからとあとずさりする。親兄弟は、怪我人のもらした一言にパニックになる。仕事より大切なものがあるではないか? 身近な雑音は、退院してきた私を混乱させる。生活することではなく、生きることそれ自体の……春一番になるのか強い風が、ベランダの洗濯物を竿ごとふきとばし、空を割るような高い音をたてて、いま落としていった。

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