「安政二年(一八五五)一〇月の安政大地震直後に江戸市中に出まわった地震鯰絵については、これまでも多くの研究の蓄積がある。鯰絵のモチーフは多様であるが、それらの詞書と構図から、民族文化の本質を読みとることは可能である。たとえば大地震を「世直し」または「世直り」と表現することは、大地震によって新しい世界がもたらされるというテーマを提示していることになる。」(『歴史と民俗のあいだ』宮田登著 吉川弘文館)
NHKを筆頭とした大本営発表の手順(情報操作)からみれば、次は「水素爆発」という事態が確率として高いのだろう、と述べたのが前回プログ。するとほんとうに、翌日からは、「長期的」という事態予測のことは後景に退いて、「水素爆発」の危険を回避するための作業、ということがアナウンスされるようになった。中部大学の武田氏によれば、爆発には、「水蒸気爆発」、「水素爆発」、「核爆発」とあるそうだなのだが、建屋が吹っ飛んだのは「水素爆発」と呼ばれているけれど、むしろ水素が外界の空気と触れて発生した「水蒸気爆発」に近いのではないかと私は考える。というのは、現在の、格納容器への窒素注入が「水素爆発」を防ぐため、とされているのなら、そのような爆発がすでに一度起きているのなら、格納容器が破損をしているのではないか、とは推論ではなく、自明的な前提になってこようものだからだ。そして、もし「水素爆発」が起きるのなら、次の「核爆発」とは「ホウ素」など注入する暇もなく、連鎖的におきるものなのではないか、なにせすぐ隣接したところで「水素爆発」がおきるのだから、と素人目にはおもえる。窒素注入さえ、アメリカから進言されて数日たってから、といわれている。順調作業と報道されているが、これまでの成り行きからすると、すでに手遅れな作業と予測しておいたほうがいいということになるのだが…。最悪事態を想定してこなかった日本の手には負えず、すでに前頭指揮はその想定処理をしていたフランスとアメリカにわたっているだろうとの指摘もある。
朝日新聞の4/9夕刊では、「線量超過でも原発で労働を」と見出しされて、「事故復旧での作業員の被曝線量の上限は250ミリシーベルトだが、累計100ミリシーベルト以上になった人は、法令上は今回の復旧作業開始から5年間は原発で作業できないとの解釈がされている。現時点で100ミリシーベルトを超えた作業員は21人」、「今、作業しているのはプロ中のプロ。今後、彼らが原発の仕事に就けなくなるのは損失。規則を変えるべきだ(東芝担当)」。「上限を超えたら失業してしまう不安が作業員にはある。1人の被爆線量が上がりすぎないよう、人手を多く確保するため国も後押ししてほしい(電力総連幹部)」――との記事。下っ端労働者として、私はなんと都合のよい管理者意見だろう! とおもう。すでに実際には線量超過で死ぬかもしれないのだし、本人も死ぬまでやると覚悟しているだろう、ならば経営者や国は、将来も仕事を続けさせるためになどと馬鹿なことをいっていないで、命をかけて国民を守ろうとしている労働者が、仕事不能になり死んでからも、その家族の面倒をみてやることを法的に保障してやるべきである。前線の作業は、おそらく交代要員もいないくらいの知的・神経作業なのだろうと予測する。変わってくれる人員が育てられていない、自分たちしかいない、と内心悲鳴している彼らの覚悟は悲痛なのではないだろうか?
そして官邸は、もはやその現実を直視する忍耐ができなくなったように、単なる復旧ではなく、大きな夢をもった復興政策を、とか呑気に言うことに政策比重が移ってきている。電気屋幹部と原発推進派官僚をつれて、安全だという神話技術を海外にまで売り込みに出向いた総理大臣自らが音頭をとって。こんな常識はずれな都合のよい態度はない。まるで認知症である。目をあけていられなくなって目を覆い、夢をみさせてくれ、という。郷愁ではなく、未来への夢を、自然エネルギーを! ……恥ずかしくないのだろうか? しかし、選挙「革命」に失望した国民が、その旧体制を固めてきた過去の亡霊をよみがえらせようとしているのかもしれない。この震災は「天罰」だから「我欲を捨てろ」と説く旧知事が新知事としてよみがえる。いったん死んだゾンビが、どんな猛威をふるおうとするのか?
<ブッシュ政権にとって、市民意識の高揚や怖れを知らぬ勇気、(恐怖に動かされる闇雲な愛国心とは正反対の)世界との一体感ほどに危険なものはない。まるであの瞬間がはらんでいた未曾有の可能性を認識していたかのように、それを抑えるためなら、なりふりかまわず手を尽くしたかに見える。彼らは9.11事件を国の内外で攻撃を仕掛ける口実に利用したが、それは不可避のなりゆきでも、正統性のある対応でもなかった。9.11を言いたてるのは、じっさいのところ、おおむね帝国的拡大と国内抑圧という既定路線を実行に移す言いわけだった。ブッシュ一世は、冷戦の終結がわたしたちに与えた好機を無視し、その子息は、この新たな緊急事態が呈示した誘惑のうちの最悪の果実を摘み取った。9.11は起らなかったらよかった。けど、あの誕生寸前まできていた反応のほうは、育ってほしかった。>(『暗闇のなかの希望』レベッカ・ソルニット著 井上利男訳 七つ森書館)
3.11が9.11と違うのは、ヴィンラディンが敵だ、フセインが敵だ、との仮想的が仮構できず、自らの、つまり自陣の権力構造自体が露呈してしまっていることである。だから逆に言えば、敵にしずらい。それは自己改革になることが目に見えているからである。この大震災の一ヶ月前ほど、文芸批評家の柄谷氏は上引用した著者の『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)を書評している。災害時に立ち上がるのは強奪や暴漢などの無法状態だといのは権力側の通念(情報操作)で、実際には「相互扶助」的なユートピア社会なのだと説く本書を。われわれは、その話しが本当であることを目の当たりにしている。9.11では、このユートピア的可能性は逆用されつぶされた。3.11では、自分自身が敵になるという難しさはあるけれども、この目の当たりにしている現実を無視した、無闇な権力操作はやりづらいだろう。つまりあくまで、なお主導権は、庶民の本然が握っているのであって、政治家や財界人の「我欲」にあるのではないだろう。
私は、そのための青写真として、世の中の体制自体を作り直していくための骨格として、環境エネルギー政策研究所の飯田氏の提言を支持する。
0 件のコメント:
コメントを投稿