2011年11月19日土曜日

人と体制

「からからと鈴懸の枯葉転がれる 音をし聞きて 冬の喪に入る

枝伐られて すぐに葉繁れる鈴懸よ 斬られし腕の生えるごとし」(坂口弘著『常しえの道』 角川書店)

住んでいる団地の欅5本を、自分で切ることになる。もう7階まで頂上の枝が届き始めたその様を、これからどう伸びていくのだろうと、6階に住む部屋からデッサンしていた木だ。今年にはいってまもなくに銀杏から落ちたさい、それを余め知らせるように壁からはたと落ちた絵の枝だ。息子の誕生日に買った青い手乗りインコが、不吉に騒ぐようだったら、どうしようかとおもっていた。また逆に、この青い鳥は私を守るために遣わされたはずだから、落ちることもないだろう、とおもっていた。仕事も怪我で満足にできない時分、息子の友達づてで、団地の草刈に呼ばれたのだった。なんだ植木屋さんか、20年もやっているんだって、ならば角の欅が坂下の団地のBSアンテナの障害になっているから剪定予定になっているんだ、だから見積もりに参加できないか、と声をかけられたのだった。親方は、7万円とだした。団地の緑化委員はそれを見てたまげて、いや住人の申し出だからと低く見積もる必要はないですからと再度要求し、じゃあ10万円と……しかし、よその業者は、人力ではのぼれず、ユニックもはいらず、おまけに高圧線上に枝がかかっているから、鳶に頼んで足場をかけるとかで、その一本で80万円以上の話なのだった。私としては、あの角のはのぼれる、しかし他のものはのぼれないと親方に報告しておいた。緑化委員の人も、苦情のある角の欅を短く剪定するのはいいとしても、他のを伐れというのなら、裁判で受けてたつ、とかいう話だったのだが、こんなに見積もりが安いのならと、5本ではいくらになるのかという理事会の話になって、いくつかの業者の見積もりと比較しても、でかいのは一本あたり十分の一近く、全体の金額でも比較にならない位なので、全部やってもらおう、枯葉の苦情がひどいから、葉の落ちるまえに、という話になったのだった。自然樹形で縮約するような剪定は無理だし無意味なので、一度寸胴切りにしてから仕立て直す、ということにする。それならできるかな、とまだ地下足袋は足の腫れがひききっていないので履けず、運動靴でのぼっていく。見た目ではよく読めなくとも、二連のハシゴを木によりかけた段階で、すぐ終る、とみえてくる。3日で全部の作業をおわらす。結局、親方をふくめた手元二人をつけて、すべて一人でのぼって切り下ろしたのだった。無事安全に作業をおえたとき、ピー太くんに感謝した。

こういう作業をしていると、かならず、「なんで切るんだ」「商売のためか」「ばかものめが!」と声をあらげたり嫌味をいってきたりする人がでてくる。原発作業員よりも、「ただちに」死ぬ確率は高いのだし、それは見ればわかるだろうとおもうのだが、いわゆるヒューマンな人たちには、同情の余地はないのだろう。自然というものに対する理念的な思い違い、自然(樹木)を剪定する技術にたいする無知、そういう理論的に簡単に反駁できるような議論はおいとくとして(「里山」がまったく自然ではなく、手を入れたものであることを考慮すればすぐに理解できること――)、問題なのは、切ってしまうという体制側の人間として、目の前の下っ端労働者がいる、ということである。この労働者の顔をまえに、単に「ばか」と言ってすませられるような態度なら、そうした人たちの反動を食らうだけだろうから、(左翼)実践としてはそれこそ「ばか」な観念インテリになってしまうだろう。しかし、<体制>と<人(労働者)>を分けて実践するような理論(やり方)を具体的に考えて整理し、それを区分け不能であらざるをえない現実の中で実践してみることは、複雑に錯綜した運動であるように思われる。しかしそうした理論的なおもいやりがないと、末端の労働者はすぐに観念の偽善(言葉が浮ついていること)に気づくし、意地(死ん)でも理念とそれに寄りかかる者たちを攻撃するだろう。それは、なお福島原発の現場にとどまり作業をおこなっている者たちに、商売のためか、利権のためか、「ばかものめが!」と嫌味を飛ばすことが世の中でどんな実践になりうるのか、と考えてみればわかるだろう。

……しかし、東京の植木屋さんの仕事も、庭木の手入れというより、こりゃ除染作業だな、と日々おもうようになる。雨どいの下だの、小学校の芝生養生シートとかに検出されてくる線量率の報道に接していると、あまり事故現場30キロ圏内とかわらない。そういうところを、マスクもせず、箒やブローで埃をもうもうと噴き上げて掃除しているのだから、若い人の間では、数年後になんか症状がでそうな状態だ。しかしそのときでも、われわれ労働者の被曝が話題になることはないだろう。むしろ、体制に屈従するしかないバカな怠け者だからだろう、とおもわれるのだろうか?

*東京の都の許認可を受けて営業している植木残財処理場では、チップにした木材のはけ口が流通ストップしているために、残財の山となっている、と捨て場にいってきた職人が言っている。どうも、普段は牛の敷き藁や堆肥としてリサイクルされるようになっているのだが、牛が被曝するというので、東京のそれは引き受ける農家なり業者がいなくなっているのだ。都がどういう対策を考えているのかわからないが、牛ではないヒトであるわれわれは、それでも住民の苦情処理のためにと、せっせとあいかわらぬ除染剪定をしている、ということになるのである。

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