2012年4月23日月曜日

二つの方向(人類叡智と現実)

「ドストエフスキイが批判者の近代的思考を向こうにまわして民衆の熱狂を擁護したのは、「問題を民衆的精神において解決する」という基本的な立場においてであった。…(略)…彼にとって近東戦争が問題なのは、それが民衆の生活の基部から必然的に生成する幻影とかかわるかぎりにおいてなのである。…(略)…彼は、聖地巡礼がロシア民衆の中に長い伝統を持っており、彼ら巡礼者たちに関する物語が広く民衆の間に流布していることを述べたのち、そのような物語には「ロシア民衆の気持ちからいうと、なにかしら懺悔と浄めの力を持ったものが含まれているのだ」という。彼によれば、農奴解放後の彼らの現実、すなわち「飲酒癖の増加、富農の増加と強化、自分たちを取り囲む赤貧、自分自身の体にしばしば現れる野獣の相」に対する彼らの悲哀が、「より善き神聖なものを求める」渇望を育てていた。…(略)…彼は一見ここで伝統の重さとそれへの随順を説いているようであるが、実はそうではなく、政治思想のもっとも根本的な課題は民衆の意識の底に胎まれている夢想と幻影をどのようにして現世的なものとして実現することができるかということだという前提のもとに、その夢の伝統的な形式を看過すべからざる必須の因子としてとり出してみせているのである。その伝統を賛美するつもりはいささかもないといいながら、随所で彼は事実上賛美に走りがちであり、「多くのことを説明し得る事実」としてどころか、彼の言葉を借りればそれを民衆の「善の探求」の唯一の形式として意味づけている。この場合いわれている「善」とは、せまい意味での倫理的価値ではなく、幸福とか充足とか平安とかをふくむもっと広い意味、要するに「夢」という一語でおきかえるほかないような意味であろうと私は理解する。」(渡辺京二著『ドストエフスキイの政治思想』 洋泉社)

東日本が震源の震災と原発事故を一年にして、それを起点とする言説の潮流は、おおざっぱに相反するニ方向に分岐しだしたようにみえる。原子力発電という近代科学技術の象徴的な頂点のあり方を折り返し点に、脱原発的態度は一致しながらも、それをより近代的なあり方の徹底という方向で乗り越えていく考え方と、前近代的なものの見方・あり方を回復させていくことによって、という方向である。これは、戦前の思想界でなされた、「近代の超克」的議論を連想させる。実際、なんらかの反復的な事態なのだろう。その反復自体を批判していく態度もありえるのだろうが、私は今を生きている者のためにも、様相(衣装)を変えてでもこの反復を整理し理解し、少しでも脳味噌の混乱を慎めていく必要があると考える。「技術」という項目のブログを記述した後に、このような思考整理の文章を書き始めている私自身が、まさに反復潮流をなぞっている。脳力弱いなあ、と自省しながらも、いたしかたないことなのである。
というか、そもそも「近代」の夢とが、この人間個人の、神(伝統・共同体)から自立した自身のコントロールというところにあった、ともいえないだろうか? 自然をコントロールする技術と、自分をコントロールする技術……「できたらいいなあ!」と。ということは、その夢の内には、その内実的な現実とは、それができるほど自分が強くないこと、自立するには弱いということが観念され、ゆえに暗黙には、他の者たちへの依存や共同性が願望されているということになる。ならばその夢が、なにかあるたびに、上のようなニ方向になるのは当然といえる。ただし、近代を徹底する方向でそれを乗り越えてゆく考え方の人なら、もしその実現の暁には、人間は違った夢をみれるだろう、ということが仮説されえる。そうした視点からは、この震災後の民衆の有り様を、相も変らぬ「愚民」と呼びつけ、その在り方を「天皇制」というこの国の規範形式として把握し批判する向きもあるようだ。私はその大塚氏と宮台氏の『愚民論』(太田出版)は読んでいないが、そんな言葉使いをされただけで読む気が失せる。自分も愚民だろうなあ、と思うからである。まだ浅田彰氏の「野蛮人」のほうが気分がいい。
しかしそんな私は、天皇制には反対である。日本国憲法に、その「天皇」という言葉を挿入すべきでない、と考える。まず第一に、テレビでみていると、天皇およびその家族が人間(個人)として可愛そうにみえる。その地位を面白くこなしている皇族もいるだろう。がそれが嫌なとき、降りれるのだろうか? そして第二に、やっぱり人間(個人)は強くなければいかん、とおもうからである。はじめから、つまり憲法的な制度で、あるものを生贄の地位に祭り上げておいて自身の安定を担保としているのはよくない、卑怯だ、と感じるからである。努力してだめだったら仕方がない。いやし方がないうちにも、努力をもって生きていくべきだ、と考える。が、学問が教えているのは、何万年と生きてきた人類は、もう仕方がないとあきらめて、ゆえに権威(共同体)と権力(個人)を分けて治める叡智を培ってきたのだと。しかしヨーロッパ発の近代とは、そんな人類(「野蛮人」)の知恵を捨てて、王様(権威)の首を切りもう一度個人権力に権威をとりもどさせる政治体制を作ることだった、ということである。近代化が中途半端だった日本では、あるいはマッカーサーでさえ、日本の王の首を切らず、人類の叡智に従ってしまった。しかしその結果、神に変わって自然(太陽)をコントロールする人間の科学技術を所持することに耐え切れず、今回のような原発惨事を招いてしまった、ということになるのである。われわれがもっと個人的に強ければ、事故が起きてもおろおろせず、むしろ絶対安全などという神話を信じず対策も実験済みであり、ゆえに初動体制で惨事をふせげただろう……こうも、愚民批判者は考えるかもしれない。それゆえにまず、個人が「天皇制」から脱出する必要がある、と。
ほんとうに「天皇」という権威的象徴がいなくなって、日本という共同性は保てるのだろうか? 個人がばらばらになっても、だいじょうぶなんだろうか? 人類の叡智に反することを現代人がやっても、平気なんだろうか? 権威と権力をわけなくても、われわれはもうだいじょうぶ、それぐらいは強くなっているのだろうか?
自己責任論に立脚する近代主義者・小沢一郎氏は、このように言っているという。

<「小沢先生」「なんだ」「日本の政治家として一番やってはいけないことはなんだと思いますか」「そりゃ、天皇制をいじることだ」
 天皇は国家の権威を持っている。日本では権力は政治的指導者にある。アメリカでは大統領が権威と権力を兼ねる。たとえば政治指導者がスキャンダルを起こしたとしよう。アメリカは権威も権力も傷がつくだろう。しかし、日本の場合は権威には及ばない。それが日本国を維持させている政体である。であるからには、天皇制にまつわる問題はなにがなんでも原理原則を崩してはならない。>(石川知裕『悪党 小沢一郎に仕えて』 朝日新聞出版)

私は、小沢氏が、教養的な理解で、人類叡智に従い、天皇制をいじるな、と言っているのではないだろう、と予測する。人類叡智に反して作られた欧米の近代政治体制の現状認識から、実用的に言っているのでもないだろう、と思う。おそらく、飼い犬の鳴き声でその家が自分に投票するかどうかわかる、と言うぐらいの職業政治家として、肌で感じ取っていることなのだろうと考える。この「肌」を信じるならば、わかる事実とは、われわれがなお愚民の夢のなかにいるということである。小沢氏自身、こういう危機のときこそ強いリーダーシップ、個人が必要なのになお日本の民度がひくい、というような発言をしている。ということは、天皇制を信じる民衆はなお崩せないが、個人として強くなるよう努力すべし、私も啓蒙的に戦う、ということなのだろう。むろんこの「肌」の位相からは、われわれが「野蛮人=愚民=人類叡智」をほんとうに超克しえる存在なのかは不明である。わかるのは、あくまで、今は無理、ということ、そしてゆえに、みんなで頑張ろうという共同性と、強い個人の待望は、その相反するニ方向は、「寄らば大樹の陰」として両立するということである。

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