2013年4月7日日曜日

贈る言葉

「サッカーはまた、ルールがアバウトである一方、一度試合が始まってしまうと、監督や選手がタイムを要求するということはできないため、作戦とか監督・コーチの指示といったものが機能する範囲は、きわめて限られる。逆に言うと、選手が自分の判断だけでゲームを動かす度合が非常に高い。…(略)…つまり野球の試合というのは、監督を頂点とする頭脳集団によって動かされており、選手は与えられた役割の中で「いい仕事」をすることを求められるのだと言って過言ではない。ルール上、そのようになっているのだ。/ このことが、集団で規律正しく動くことを好む日本人の感性に合っていたのだ、という見方は、決して皮相ではないであろう。」「このように、リスクを自分で背負い、チャレンジする勇気が、個々の選手に求められるのがサッカーなのであるが、サッカーの持つこうした特性こそ、行き過ぎた集団主義とマニュアル文化に汚染された日本人が、もっとも苦手とする分野ではないだろうか。日本のサッカーがなかなか強くならない原因は、まさにこの点にあるのだ。」(『野球型vs.サッカー型 豊かさへの球技文化論』 林信吾・葛岡智恭著 平凡社新書)

父親がアル中のため施設に入院したということで、実家のある田舎へ見舞いにいく。精神障害を抱えた人や、薬物依存になってしまっている人、前科者の更生、とう幅広く受け入れている病院だそうだ。「若い女の子が多いな」、「風呂にはいると、入れ墨をしている人も多いよ」、「いい社会勉強だ」と、もうじき80歳に近くなる父は言う。当初は入院措置をとろうとする母や弟には反対していたが、アルコールをたって血色や肉付きもよくなってきているのをみて、ほっとする。近所の知り合いでも、同じくアル中でその病院に入院措置をとった方がいたのだが、途中で自殺をしてしまったそうだ。私は、父も山に隔離されることで気が持たなくなって、そう追いこまれてしまうのではないかと心配だった。いや、それは心配といえるのだろうか? 田舎から、ふるさとから逃げてきて、その精神分析的な対象になるようなおぞましき世界から脱出している自分が……なお自分は、そこに生還できる気がしない。高校生になって間もなく引きこもり始めた私に、仕事のストレスで気のふれた父が「なんで学校にいかないんだ?」と焦点の飛んだ瞳で子供部屋にまで声をかけにきたとき、「あっちへいけ!」と私をして蹴とばさせた世界は、なお実家に生々しい痕跡を残している。あの家で、父は私に、何を教えてきただろう?
だから逆に、いつまでも東京の両親のもとから仕事場へ通う若い者たちのこともよくわからない。私はまた、職場で一人の従業員となった。一人は酔っぱらってでてきて親方の息子と喧嘩になりやめ、もう一人の若い子は、「あんたにはついていけない」とその息子に言い置いてやめていくことになった。一挙手一投足あげつらわれ個人の尊厳をつぶされ、神経質で陰険な現場のありさまにばかばかしくなり、その師弟関係にストレスがかかっていやになっていく気持ちはわかるが、それを真に受けてしまう自分の感受性が問題ではないのか? やることがあって積極的にやめていくのならともかく、そのままでは、自分も、自分と他人との関係も変えていく試みや技術も知らないままじゃないか? いやそうやって、みなまわりの人は逃げていったのだ、いやなところから。私はいつもとどまっている、取り残されてきた。どこでも。しかしどこに? 私は、逃げてきたのではないだろうか? いつまでもたかの知れた職場に居残っていることこそが野球部仕立ての奴隷根性ではないのか? 私の息子には、そんな根性で苦しんでほしくない。……上手な子は、より強いしっかりした
組織のチームへと地域をこえて移っていく。まるでプロ仕様のように。一希は、残っている。私の判断は、私の退行世界にひきずられているのだろうか?

一希は、トレセンに受かっただろうか? そのサッカー・テストの一問めは、面白い。マーカーまでのドリブル・アップのあとで、コーチは次のような問題をだす。「これからチームごとの競争をします。一人が一度はボールにさわって、マーカーまでいってかえってくること。コーチへの質問はなしだよ。作戦タイムは一分。さあ、スタート!」なりゆきから、競争とはドリブルのリレーであって、作戦とは初対面の子同士で編成されたチーム内での順番を決める、ということだろうとほとんどの子、チームが考えドリブル・リレーを開始したが、一希の所属したオレンジチームだけはちがった。スタート地点にボールを一個をおくと、それをみなで手でタッチし、全員でさっさとマーカーまで走ってかえってきたのだ。私もコーチの話すイントネーションの変化から、これはとんち問題だなと察していたけれど、オレンジチームのアイデア解答は笑えた。一希の話によると、各クラブチームのキャプテンが集まっていたとのことで、だから、自己紹介からはじまってコミュニケーションがとれていたのだそうだ。最後のトレーニング問題は、作戦中、しゃべってはいけない、という条件までついたが。

私は、何を教えられるだろう? 父は、私に何を教えてきただろう? 1対1でやってきた野球をとおして? そこで発せられてきた言葉は、私の心には残っていない、とおもう。いや、反面教師なぐらいだろう。しかし、そんな言葉をこえて、父はやさしかった気がする。黙って私を見守るやさしさだ。そんな包容感が、心というより体の髄に残っているような気がする。
川崎フロンターレの中村憲剛選手は、父から、というより中村家の家訓として、こんな言葉をもらっているそうだ。「感謝、感動、感激を感じる人間になれ」、「感謝、感動、感激を感じてもらえる人間になれ」(『幸せな挑戦―ー今日の一歩、明日への「世界」』 角川oneテーマ21)。
私には、どうも息子に贈れるような言葉はないようだ。しかし、父が無意識のうちにそうしてくれたように、やさしく包まれている、という安心感を息子にあたえられないだろうか? そうありたいと、願っている。

1 件のコメント:

suzuken2002 さんのコメント...

最近の僕は老父について似た感情を持っています。仕事についても同感で、自分から辞めるのは好きではありません。