「加害者を憎んではいない」と言った私の言葉に、家族の者たちは唖然とした。その顔が怒りに変わっていった。
「あんな奴は、焼き殺してやる」
「あんな奴を放置しておくからこんな目に遭うんだ」
「憎むべき、だ」
家族の者たちの言葉を「つぶて」のごとくに聞いていた。
私には、「加害者」を「憎めない」という自由もないのか。こうして人に厄介をかけて生きていかなければならなくなった人間は、ただ言いなりになっていくことしか許されないのか。「自分」を剥奪され、行き場を失って叫び声を上げてしまった加害者Mと、私も同じ……。
悪いのは、「加害者」だけだったのか……。
晩夏の庭には柿が実のっている。私は家族の会話を耳にしながら無表情を装い柿を見つめていた。柿はまだ、青い。
――大丈夫。いつまでも生きてはいないよ。大丈夫だよ。今だけ。今だけのこと。柿が赤くなる頃には私は死んでいる。」(杉原美津子著『炎を越えて 新宿西口バス放火事件後三十四年の軌跡』 文芸春秋)
後藤さんが殺されてしまったようだ。ビデオに映る後藤さんの毅然とした表情から、私は彼らの友情が発動されるのではないかと希望していた。交渉が可能な相手ではないと世間は言うが、私は、彼らはそれ、友情を理解したとおもう。ただその心の動きに従うには、世界に動かされているそのことの情動に駆られるのが大なのだろう。心の芽吹きに耳を傾けさせる余地をあたえまいと、世界が、国家群が、より大きなうねりをひねり出して、人々を、後藤氏を殺した彼らのように、押し流してしまうのではないかとおそれる。戦争を抑止するために意図した同盟関係が、たった一人の殺害を契機に、意図しない拡大を招いて世界大戦になってしまった、という現代史の警告を紹介しているのが佐藤優氏と手嶋龍一氏の最近の対談である(『賢者の戦略』新潮新書)
かつて、私の女房のダンス公演を論じたものをおもいだした。――2003年「テロリストになる代わりに」
また、チェチェンの紛争の犠牲者になった子供たちの映画に言及したものを、自分のHPから再引用、再確認したくなった。
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