2015年5月19日火曜日

イスラム国の人質(8)――平和の論理


栗田 二〇一三年夏にシリアのダマスカス郊外で化学兵器が使用された疑いが浮上し、フランスをはじめとする諸国が軍事介入を主張した際も、オバマ政権はイギリス議会での否決や国際的な反戦世論の高揚を考慮して逡巡し、最終的にロシアのプーチンの仲介に助けられるかたちで軍事介入を回避しました。日本のマスコミ等では批判的に語られましたが、中東への新たな軍事介入を思いとどまったことは評価に値するとおもいます。」(「罠はどこに仕掛けられたか」西谷修×栗田禎子『現代思想』3月臨時増刊号 青土社)

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手嶋 ところが明らかにシリアのアサド政権が「レッドライン」を越えたにもかかわらず、オバマ大統領は”伝家の宝刀”に手をかけようとしませんでした。…(略)…それどころか刀に手をかけるそぶりすら見せなかった。この「オバマの不決断」が中東に出口のない混迷をつくりだしてしまったのです。
佐藤 オバマの躊躇をじっと見据えていたのが”ロシアの半沢直樹”でした。プーチン大統領は、同盟関係のあるアサド大統領を説得して、化学兵器を国際機関に申告させることを約束させました。こうすれば、アメリカがシリアを攻撃する大義名分はなくなってしまう。外交の主導権を久々に超大国アメリカから奪って「倍返し」をしたわけです。」(手嶋龍一×佐藤優『賢者の戦略』 新潮新書)

上記二つの引用は、化学兵器を使用したというシリアの情勢に対し、相反する態度を表明している。上のほうは、単純だ。”平和”を願っている、ということだろう。もちろん、後者の識者だって、そうに決まっている。しかし、「だからこそ」、暴力(軍事介入)を導入しなくてはならない、と説く。後者によれば、イスラム国の出現に対しても、その侵攻はナチスと同じであるから、平和主義外交がそれを助長させ二次大戦の参事を招いてしまった歴史教訓を握持して、地上部隊を一気に導入して叩き潰すという戦術の法則をも無視したオバマ政権は、弱腰として批判されるべき態度となる。ナチスであれ、普通の国家であれ、自らが願う平和を獲得するために暴力を選択したのだから、その平和のための暴力という形において、二人の識者の「賢者の戦略」も変わらないだろう。そこに、実質的な、内容としての差異があったとしても、平和と暴力を結びつける論理の形、その矛盾した複雑さが、凡庸的な人にはわかりずらいということでは、同じだろうからである。それどころか、いつもそんな論理で戦争という歴史が繰り返されているようにみえるのだから、いつまでたっても理解できるようになることとは思われないのである。
 佐藤優氏の発言を掲載したネット上の「インテリジェンスの教室」でも、子供にどう説明すればいいのですか、という母親からの質問がある。それに佐藤氏は、テロに対する子供向けの他人の著作を紹介して、それを参考に、自分の頭でそういう世界の複雑さを考えられるようになるといい、という間接的な返答をしている。しかしまた一方で、実はそれは難しい話ではない、とも。

佐藤: これはわからない話ではない。わかりやすい話なんです。自分たちは絶対に正しいと信じることを世界中に強制して、言うことを聞かないヤツは殺す、あるいは奴隷にする。こういうことを考えている人たちだ。そういうような人たちというのは、どの時代にも世の中には少しはいるものなんですが、そういうような人たちに大手を振って歩かせてはいけないということなんですよ。>(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42643

そんな人たちの程度、内容的実質は問わないとして、やはり形だけみれば、まさに官僚要する国家とは、一般的にそのようなものであろう。国民とは、形式的には奴隷である。また冤罪による死刑という殺人がおこることをおもってみても、イスラム国も、普通とされる国家も、そこで変わるのか? 私たちがつまずくのは、そこに実質的な差がある、という複雑さによるのではない。単純な論理からくるのである。佐藤氏は、同じHP上で、広島市長の単純な平和希求の立場に、プーチン・ロシア側の現実的な評価を対置させる論評も行っているが、このいわゆる平和主義者と現実主義者の相違も、凡庸な私たちには理解するのが難しい。私達は、そういうどちらの立場もある、ということは知っている。無知なのではない。が、その相反する両者が、どうして「平和」という、争いのない静かな状態として一義的に明快であろう目的語に決着しるのか、その論理が腑に落ちないのである。

この論理を、解明的に納得できなければ、私たちは、この戦争に反対なのか、賛成なのか、平和を願っていいのか、駄目なのか、私たちが無力なのか、平和ぼけな能天気なのか、それすら自己確認できない。私自身、佐藤に質問した母親のように、わからない。佐藤氏が直接それに応えないのは(ネットの公開部分だけでは伺えないだけか?――)、答えられないからなのか、それとも、自分なりの答えをもっているのだが言うのがはばかられるからなのか?

おそらく私は、はばからずに、こう言いたいのだ。――「イスラム国がナチスだって? いいじゃないか、やらせれば。俺は死んでやる。」

平和とは、そういうもんなのではないか? 私はこう書いて思うのだが、凡庸な庶民は、実はみなそういう態度が心底にあるのではないだろうか? だから、いわゆる現実主義者の論理が、複雑な、不可解なものに感じられてくるのではないだろうか? 私達の平和の論理が明解なのは、私達が単純で平和ぼけなのではなくて、すでに人類が、諦めている、それくらいの争いの歴史、自然史を抱え込んでいて、それが無意識のうちに沈潜している、そこから、発せられるからではないだろうか? だから現実主義者とは、諦めの悪い奴、心の声は無意識的には聞こえているがゆえに、「だからこそ」、とひねくれた理屈を自身の心に向かって訴え自己催眠させないとやっていけない、そんなある意味、不幸な人々なのではないだろうか? 私が、諦めた非暴力を万人に強制させる、そんなイデオロギーとして言葉をだしているということではなくて、すでに、人類史が、その我々が意識できない自然史が、我々をしてすでに諦めの境地に達しさせている……そう、私には思われるのである。

もちろんそれでも、私は女房はなぐるし、子供が殺されたなら銃をかついで参戦するかもしれない。が、私はすでに、生まれるまえから、この世界の複雑な論理にもまれるまえから、平和を知っているし、おそらくはその実現の手だてにも気づいている。が、わかっちゃいるけどやめられない、その自己肯定のために、明解な論理の内側に、ひねくれた屁理屈が挿入されて、無意識と意識がこんがらがる、ゆえに理解できない、という感覚を覚えさせられる、ということではないか?

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