「人間がネコを認識するときに「目や耳の形」「ひげ」「全体の形状」「鳴き声」「毛の模様」「肉球のやわらかさ」などを「特徴量」として使っていたとしても、コンピューターはまったく別の「特徴量」からネコという概念をつかまえるかもしれない。人間がまだ言語化していない、あるいは認識していない「特徴量」をもってネコを見分ける人工知能があったとしても、それはそれでかまわない、というのが私の立場だ。
そもそも、センサー(入力)のレベルで違っていたら、同じ「特徴量」になるはずがない。人間には見えない赤外線や紫外線、小さすぎて見えない物体、動きが速すぎて見えない物体、人間には聞こえない高音や低音、イヌにしか嗅ぎ分けられない匂い、そうした情報もコンピューターが取り込んだとしたら、そこから出てくるものは、人間の知らない世界だろう。そうやってできた人工知能は、もしかしたら「人間の知能」とは別のものかもしれないが、間違いなく「知能」であるはずだ。」
「そして、そうして得た世界に関する本質的な抽象化をたくみに利用することによって、種としての人類が生き残る確率を上げている。つまり、人間という種全体がやっていることも、個体がやっているものごとの抽象化も、統一的な視点でとらえることができるかもしれない。「世界から特徴量を発見し、それを生存に活かす」ということである。…(略)…私の研究室では、ディープランニングをこうした選択と淘汰のメカニズムによって実現しようという研究を行っている。組織の進化も、生物の進化も、脳の中の構造の変化も、実は同じメカニズムで行われているのではないか。そう考えると、個人と組織、そして種との関係性は思ったよりも密であり、そして「システムの生存」というひとつの目的に向けて、備わっているのかもしれない。」(松尾豊著『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』 kadokawa)
アパートをさがしている。どうも(たしか)、夫婦げんかをしたからなようだ。そこで、学校を休んで、東京の街中を歩いてさがしている。(ということは、私は息子のイツキの立場に重なっている、ということか? そもそもこの夢は、その日の午前、イツキと女房で勉強をめぐるバトルがはじまったことを受けているのだろう。前もって逃亡を防ごうと女房は自転車を隠していたので、イツキは激しい雨の中、歩いて知り合いのジイサン・バアサンの所へ避難しに行っていた。)今住んでいるアパートは、私が学生の頃借りていたもののようにオンボロだ。どうも(たしか)、豊島区の方に近い街中に、いいアパートをみつけた。(ということは、「初夢」として見た今年の夢のつづきでも、あるらしい。)年があけたら、移ろうとおもう。保証金は払ってきたが、夫婦喧嘩か、仕事がうまくいったら、引っ越す必要がなくなるかもと、状況を見るために、しばらく(年末のことのようだ)、実家に帰ることにする。母との折り合いがつけば、移らなくともすむような気がする。洪水が起きる。ナイル川が氾濫する。その規模を示す世界地図、アフリカを中心とした地図が解説として映像に出てくる。洪水は、アフリカ大陸の西側までは広がらず、借りてきたアパートは大丈夫だとわかり、安心である。(どうも、西側のナイジェリアの辺にアパートはあるらしい。)というか、洪水になってもそこまでいかないという知識が前もってあるようで、平然なようだ。母が、以前のオンボロ・アパートを訪れたことがあるように、新しいアパートに移ったら、やはりまた訪れてくるだろうか、と思ったりしている。(女房と母が重なっているようだ。)そうこう思っているうちに、夢に気づき、目をつむったまま、この夢の分析をはじめていた。洪水を恐れていない。また寝ると、忘れてしまうので、起きてメモにした。4時半ごろ。寝たのは10時ころか。映像の少ない夢。というか、これは夢なのだろうか? わかりやすすぎる。その雰囲気も、夢の中というよりは、意識的な感じだった。浅い眠り。
その晩(つまりは、夢を見るまえ)、NHKの「ファミリー・ヒストリー」での、オノ・ヨーコの特集をみていた(女房も大会社の社長の娘だったので、重ねているのだろう)。「あの子は(サッカーでは)立ってるだけ、(勉強では)写しているだけ。一生懸命やることを覚えさせるのが大切だ」と、なにかの拍子でまた夫婦喧嘩になって、女房、以前の「人として最低限のことは覚えさせる」という論理とは違った理屈で、自分の暴力を正当化してみせる。そこで私が反論した理屈。「オノ・ヨーコが、結婚して子供ができたら、九九が覚えられないといって蹴とばすか? そうやって子供を追いつめるか? 黒沢美香が、子どもを産んでそんなふうになるか? そうした途端、自分がやってきたダンスが偽物だった、まがいものだった、ということになってしまうんだぞ。」「そう生きるには、覚悟が必要なのよ」「俺は文学をやっている。就活などしたことがない。今日ここで喧嘩していられるのも、植木屋で仕事がないからだ。あの時死んでたら、いまどうなっている?」――その二日後か、お盆で帰省した際、母がイツキのことを心配しているから電話をかけてくれと兄からメールを受けていたので、実家に電話した。母は、私と女房が、私がプリントしてきた谷川岳の地図をめぐりちょっとしたいざこざになった際、イツキが下を向いて悲しい表情をみせた、という。「あれは、虐待でしょ。(と、実家に帰った際も宿題をやらせようとする女房とイツキのやりとりを、何年もみてきたので。)児童相談所に言ったほうがいいのではないの?」「あれでも、だいぶおさまってきてる。」「何かあったら、こっちに避難させてもいいから」「突発的なことがないかぎりは、大丈夫だよ。」
夢は、「システムの生存」が私たちの目的なのかどうか疑わせしめる。死への衝迫の感触は、環境適応とは別の論理、潮流の在り処を私たちにほの見えさせてくれているように思える。
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