2017年9月23日土曜日

映画『ひかりのたび dream of illumination』を観る――北朝鮮情勢をめぐって(2)

「絓 …(略)…柳田は基本的に天皇制は祖先崇拝ということで、縮小した敗戦後の「日本」の版図をまとめた。この祖先崇拝というのは、基本的に呪物としてのコメを作る農民をベースにしてるわけです。農民ってのは先祖代々土地に縛り付けられているから、祖先を崇拝するわけだ、と。それで農業で食っている人口は戦後はまだ四~五〇パーセントくらいはいたんですか。敗戦後も、農民人口は明治維新時と変わってない。で、農民ベースに考えれば、祖先崇拝=天皇制は護持できると、柳田は、あるいは戦後日本は、考えたわけでしょう。…(略)」
「絓 ところが、ドゥルーズ/ガタリの戦争機械というのは、本来的にはそれをまったく外部的なものだと想定しているから、「土地」への執着がないということになるわけですね。こうしたドゥルーズ/ガタリ的な考えに由来して、日本でも、一時は(今も?)「ストリート系」と呼ばれる運動がもてはやされました。「だめ連」とか「素人の乱」とかは、その代表的なものだし、いわゆるニューアカ以後の若い学者たちが、いろいろ意味づけしていました。おれは、ストリート系の運動の意義を認めないわけではないけれど、「土地なきパルチザン」というのは、本当に可能なのか、かなり疑問なところがあります。詳述は省くけれども、それはつまり、キャンパスでビラも撒けないことを良しとするSEALDsに帰結してしまったわけでしょう。」(堀内哲編『生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ』第三書館」)

先週だったか、映画「ひかりのたび」を、雨の中、観に行く。新宿駅まえの通りは、神輿をかつぐ祭りの男女でごったがえしていた。私は、監督の澤田サンダー氏のことは知らないが、副島氏がHPで推奨していたことと、撮影場所が地元の群馬(中之条)だということもあって、観に行く気になった。鑑賞後、モノクロで静かな断片性で終わるこの映画を、どう受け止めていいのかとまどった。副題に、光の夢、とあるのだが、なんでそうなのだかわからない。最後、高3のひとり娘がバイトするレストランが夜の暗闇に消えていくのだが、その背後の森で、懐中電灯か何かの光が踊るように点滅して動き回っているのがうかがえたのだが、それはどこか手旗信号か、モールス信号のようで、注意深い鑑賞者へメッセージを伝えているのか、とも思えた。もしかしたら、「illumination」とは、啓蒙の意味の方なのかもしれない。では、だとしたら、何を?
映画上映の時間にはまだ間があったので、紀伊国屋書店に立ち寄っていた。その際買ってきたのが、上引用の著作である。そして帰宅後読みながら、まさにこの映画の解説になっているのではないかと、思えてきた。とくには、引用した絓氏の発言などにである。

映画のストーリーは、水資源にもなる山を代々受け継いできた元町長をはじめとした地元の人間と、そこへアメリカ人の注文でそれらの土地を買占めに派遣されてきた、不動産ブローカーとの人間模様である。冒頭、自転車に乗った女子高生、ブローカーの娘が、山林を背景に広がる田んぼ脇の坂道を疾走するところからはじまる。その構図からして、この映画の社会背景が、新自由主義的なグロバーリズムと、絓氏が指摘する戦後柳田的な日本の伝統的体制との相克が意識されていることが伝えられている。元町長もしまいには、奥さんの病気や選挙での敗北を受けて借金をおい、土地を手離すことになる。ブローカーは、職務的な忍従と優しさで客を獲得していったようだが、その仕事上の誠実さを評価されながらも、「やっぱり売らないほうがいい」と悔いを残す客の意識において嫌悪されている。元町長も、売り払ったことを町の人々に知られたくない、わからないように引っ越しをしてくれと、苦し紛れのような哀願をし、東京への転属を告げるブローカーを非難する。その一方で、娘は、はじめて一つ所に4年もの間とどまり友達もできたことから、たとえ父親の仕事でつらい目にあわせられることが予期できたとしても(学校で自転車がパンクさせられたりしている)、この地方にとどまって仕事を捜したいことを父親に告げる。東京や海外での進学を進める父と娘は、そんな進路をめぐって対立していたが、バイト先のレストランで、うたた寝をしていた父がコップの水をこぼして店員に平謝りを繰り返す様子をみて、娘はその滑稽さに安心したように微笑みを浮かべ、父に返す。父親も、娘が自分を受け入れ許してくれたような安心感を得たように、ほっとした笑みを返す。この二人の微笑みが、町長をはじめとした地元の人のネガティブな感情、醜さとも受け取れる様子とモノクロ的な対照さを際立たせている、といえようか。

ゆえに、だろうか、評価は、故郷を守る地元の人間倫理よりも、故郷のないと言える親子の、自立していこうとするひたむきな態度に、好印象がでるようだ。たとえば、まさに柳田の『遠野物語・山の人生』をあげて、この作品を評価している学者もいる。おそらく、アーティストの澤田氏も、世間的な勧善懲悪(よそ者を叩く)に疑義を呈したい態度の方が強い傾きがあるだろう。それが、「啓蒙(illumination)」ということであり、作者の公平への願い(dream)なのかもしれない。

が、故郷とは、あるいは「土地」とは、そういうものだろうか?

このブログ「北朝鮮情勢をめぐって」で、私はプーチンの、「北朝鮮は雑草を食ってでも、自分たちが安全だと思えるまで核開発をつづけるだろう」という発言を引用した。暗黙には、本土決戦も辞さない覚悟だろう、ということを含むだろう。私は、ニュースで、勇ましい体制側の意志を暗唱してみせる北朝鮮の民衆のその言葉を、文字通り受け止める気にはならない。植木屋に成り初めのころ、中国は上海からきた青年と一緒に働いていたが、その彼が、毛沢東が死んだときみんな号泣していたけど、あれは嘘泣きだからね、と言っていたのを思い出す。戦時中の日本でも、天皇に対し、似たような面従腹背だったろう。しかしそんな本音と、「雑草を食って」でも命令を遂行していく態度とは両立する。現に、ジャングルでの日本兵だの、そうだったと言えるわけだ。同じように、今の日本人は、内心はアメリカのことを「ふざけんな」と思っていても、自分たちが「雑草」を食うようになっても、アメリカに貢いでいくだろう。こっちは体張って戦争をしているんだぞ、だすものだせ、との脅しに屈する習慣性、その脅しを道理として変換させて自分を安定化させていたほうが、自分を変える勇気をもつより楽なことだろう。「雑草」を食うなどと経済的には不合理な現実を突きつけられても、自分のメンタル的な合理性にまず従ってしまう傾向を、人はみせるだろう。――しかしならば、現在、日本はアメリカの脅しから逃げる現実的な文脈があるか? 沖縄基地問題をめぐり鳩山氏が総理を辞めることになって以来、そう言い張る潜勢力が沈滞してしまったように伺える。短期的には、戦争させられるならその参加を縮小させ、金を出させられるならその金額を値切る、ぐらいのことしかできそうにない。いやそうやる勇気ぐらいはもった政治家は誰なのかな、と探ってみることぐらいだけが、現実関与として有効、というようにしか私には見えない。来月の選挙で、共産党が政権をとるぐらいにでも躍進すれば、また自立を志向する現実的文脈、大義名分がだせるかもしれない。そういう現実的変化なくアメリカへモノ申しても、人間的に道理がわからないおかしな奴、としか思われまい。

しかし、選挙を通した代表制(間接民主主義)だけが、現実有効な文脈、潜勢力を作っていくわけではないだろう。しかしその実践は、あくまで中・長期的な持続意志によるしかない。冒頭著作の編集者の堀内氏は、現に「共和制」を目指して運動している実践家だから、短期も長期もないかもしれない。が、現在ある選択に辟易している私には、そうした道筋を示して手続きしている氏の作業を知って、だいぶ共感する。私もこのブログで、9条よりも天皇条項のほうが問題で、そっちを改革する方が先だ、とか表明してきた。「共和制」という言葉も、使ったかもしれない。ただ私のそれは、坂口安吾の、「人間にできることは少しづつ強くなることだけだ」という言葉への共感による。安吾の天皇制批判は、その制度が日本人を真に「堕落」することを防いでいる、邪魔している、逆にいえば、天皇を差別化して日本人が甘えている、防波堤として利用しているということにあったろう。さらに哲学的につめれば、その態度は、スピノザの自然観を私には思わせたが、それも、浪人中から学生中によく読んだ、柄谷行人氏の『探究』経由である。

本土決戦……覚悟していようといまいと、その戦争を仕掛けようと回避しようと、すでに公的に言ってしまった言葉の習性に押されてやってしまう事態になる、というのが人間の歴史(「言葉と悲劇」=柄谷)でもあるようだ。ジャーナリストの間では、すでに今回の北朝鮮との戦争は、表向きの過激な舌合戦とは別に、対話・交渉解決へ向けて動いている、という話もでている(世に倦む日日田中宇の国際ニュース解説)。絓氏の「土地」への現実感は、イスラエルを連想させ、澤田氏のそれは、ISな感じ、と言えるのだろうか? 実践的な運動経験もほぼなく、次男坊だからというわけでもないが地元を離れて暮らしている私には、ブローカー親子への共感、もちろん、逆境にもめけず微笑んだ、そういうシーンに促されてだろうが、遊動民的な在り方への共感の方が生活実感だ。しかし地元といっても、その多くの人びとが、ちょっと前世代からそうなっただけであり、群馬の山民も、もとは移住民だったはずで、私の職場が三代目だといっても、じいさん世代は旅人的な渡り職人、非常民である。しかし確かに、闘うには、根城があったほうが有効なのかもしれない。植木屋として独立しようにも、脚立や道具、トラックを駐車できる土地が確保されていなければ仕方ない。暴力団世界でも、新地に進出する場合は、事務所を持つようだ。大阪からはじまった柄谷氏中心のNAMでも、東京に事務所を開いて、私は最後は事務所番みたいな活動をしたことがあったが、なんもおこらなかった。

澤田氏の、この「土地」をめぐる葛藤、農民的なロマンチックな祖国と、やはりローマン的にもみえる遊動民的な居候性――その描写が、嫌味なく受け止められるのは、やはりあの少女の笑み、による気がする。別段、コップの水をこぼしたのが父親ではなくとも、それを大した問題だと平謝りする人の真面目さを滑稽なものとして受け止めた上でほほ笑む、ことはリアルな話だと、私には思える。つまり、彼女の態度は、父―娘という家族関係を超えて、より普遍的な位相から発したもののように、私は受け止める。滑稽として受け止める客観性、自分を突き放した冷静さと、だからあざ笑うのでもばかにするのでもなく、ほほ笑むという寛容性、他者を受け入れる振舞い、彼女が、そんな倫理を実践できたのは、何故だろうか? おそらく、「土地」とは関係がないだろう。単に、面白いことがみれたのだ、滑稽なことが。だから、彼女はまず、自分を他者として見出し受け入れただろう。それが可能だったのは、彼女が、「土地」から遊動している在り方だったからだろうか?

北朝鮮の民衆は、真面目にインタビューに返答する。現体制と金委員長を称えるその身振りは滑稽である。おそらく多くの日本人は、その様を軽蔑する。しかし彼女は、ほほ笑むのだ。

このほほ笑みは、「土地」にまつわるものから来るのだろうか?

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