2018年9月25日火曜日

父の介護から


「…アラブの話である以上、戦争状態が長く続いていた国々だということぐらいは小学生だって知っている。もし知らなかったら、一般常識として会議は紛糾するものだ、ぐらいはわかるだろう。知識として知らなかったとしても体験でわかるはずだ。
 要は、一般常識と体験からイメージするのである。…(略)…原理はそういうことだ。一般常識や体験から類推し、イメージを膨らませることは可能なのである。
そもそもイメージとは、わかりにくいものを即座に理解するためには不可欠なものなのだ。
 もしも、なかなかうまくできないというのであれば、ひとつトレーニング方法をご紹介しよう。
それは喩え話だ。あるもの、ある事象を他人にわかるように一言で喩えることがイメージの訓練となる。自分の仕事の分野の専門知識や専門用語を、一般的な言葉、日常会話で言い換える。
そうすれば、発想は飛躍的に上がってくるだろう。…(略)…数学的思考がどういうものであるか、しっかり理解し、その上で、立体的なイメージが構築できれば、すべてのことがクリアになってくるだろう。
数学的思考はあらゆることを可能にする思考なのである。(苫米地英人著『すべてを可能にする数学脳のつくり方』 ビジネス社)


週末の連休が続いたので、認知および腰椎骨折のため入院していた、父の見舞いおよび介護のために実家へと通った。その間、女房の父親が介護施設で亡くなった。去年の秋には、母親の方が亡くなっていた。私の母の方は、自宅での父の世話から解放されたが、自身の疼痛が激しくなり、歩くのもままならない。退院したら施設からたまには帰宅するだろう父のために、庭をバリアフリー的に車椅子が押せるようコンクリで均したが、飛び石につまずいて骨折してしまうかもしれぬ母のための予防目的の方が大きいだろう。
学生として上京して以来、まともに家には帰っていなかった次男の出現は、当初、疑いをもって見られていただろう。没落していくような家のことはおまえはかまうな、外で生き延びろ、みたいな母のスタンスだったが、ここにきて、実際的な能力をみせている私に対する信頼感が出てきたようだ。家にいる精神障害者の兄は、そうやって家での私の地位が上がっていくことに安堵しているふう。私としては、仕事の合間をみてまめに家を世話している弟のアイデンティティに阻害をきたしたくはない。所詮、どうなろうと、間近な死はどうなるというものではない。もう、親たちは十分生きたはずだ。なお生活を作っていかなくてはならぬ私たちのほうが問題だ。無用な疑心暗鬼、身内争いはいらない。現実は、直視しなくてはならない。作家の高橋源一郎氏は、母親の介護を申し出た際、母親から、逃げたいのだろう、と見破られたそうだ。現実からの逃避ではなく、現実に抵抗し、作っていくために、この現場に関与しなくてはならない。
 
人間50年から、人間100年へ。人がこんなにも長生きする事態に直面したのは、今の老人たちが初めてなようなものだろう。だから、その最後の身の振りにあがくようになっても、仕方がない。一昔まえは、長生きしてしまった者は、自ら食を減らして自然に衰弱死していくよう最期を作っていったそうだし、姨捨山みたいなのも、強制的なバイアスだけではないだろう。老人たち自ら山にグループホームを作って生活し、若い世代は近づけず、一人づつ死ぬに任せていった村の知恵もあったそうな。思想家の西部氏は、そんな伝統を喚起させながら自死の思想を説いて、私にはドストエフスキー『白痴』でのイポリットのような死に方をしたインテリのようにみえるけれど、早とちりな認識、人へのみく びりが前提とされているのではないだろうか?
 
車椅子から、休憩所のソファへ腰掛けたいと立ち上がる父を支えたさい、肩に噛み付いてくる。先週も、医師からの許可もなく介護技術を持っている人が回りにいないときは駄目だよと制したとき腕に噛み付いたように、歯のない口で噛み付いたのか? 今回私は、自分でも支えるくらいはできるだろうと(飲み物を飲ませる際むせさせて、介護師の弟から「素人がやると誤飲性肺炎になるよ」といわれた)、要望に答えたのだが…。「お父さん、なんで噛み付いたんだい?」私が目を大きくして覗き込むと、父はわかったような気をみせた。私が次男のマサキだとわかっているのだろうか? 食べる、歩く、原理的な体の動かし方は消えていないし、新聞の漢字もよめた。母とのじゃんけんは、後だしですべ て勝つ。記憶がなくなったわけではなく、思い出すための回路の複雑さが築けないのだ。細胞のネットワークが、寸断状態になっているのかもしれない。だから、単純な作法に還元し、代用する。叩く、噛み付く、…看護士は、そうした意志表現を、「パニック」という言葉で説明した。そしてそのことを、自身で意識している。だから、あきらめがある。伝えたいことが言えない、やりたいことができない。あちこち首を振って、故郷の風景を確かめる父の表情には、どこか悲しさがある。「もう帰るから」と私がいうと、バイバイと右手をあげて振る。握手しようと手をのばすと、馬鹿力で握り返してき、両手で引っぱるように振り回す。あの時噛み付いたのも、とっさにしがみついて体を支えるための知恵だっ たのかもしれない。そして今、私にしがみついたのも、ふと、自分がもう死んでいく存在であると意識したからか? 握手がすむと、またすぐにベットに背を持たれて、右手を振った。あきらめた、と感じだ。骨折手術後に面会に行ったときは、「お家に帰ろうよ」と何度となく口にしたが、もうそんな言葉は聞かれなかった。
 
私たちや、もっと若い世代には、こんな長生きする時代は来ないだろう。しかしそのときのために、こういう条件下では人はこうなり、そのときのメカニズム、記憶とはなんでどういう原理をもっているのか……身近な材料として考えて、死んでみせ、後世に、若い奴らに伝えろ。少しでも、生き抜くことが、楽になるように祈って。

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