2019年6月24日月曜日

切腹といいね!

「ねえ、トーツキイさん、話によると、日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかした、だからおれはきさまの眼の前で腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。そして、ほんとに相手の眼の前で自分の腹を切って、それで実際に仇討(あだう)ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」(ドストエフスキー『白痴』)
「恥辱だけが生きのびるような気がした。」(カフカ『審判』)

夕飯どき、高1になった息子に、中学時代に同級生だった友人の家まで届け物をしてこいと女房が言う。届け物は、私が仕事中にとった梅の実らしい。初めてその要件を頼まれたわけではなく、息子はとにかく理屈を言って拒否していた。私には、その友達を含めたサッカー部活のお別れ会で、息子が拒否する理由は推察できていた。今はいかない、雨が降っている、検索すると1.8kmと遠い、とか物理的な理由を言う息子に対し、そうやってぐたぐたする、スマホばかりする、勉強もしない、と、とにかく自分の思う女づきあい(欲望)を貫徹しようと次から次へと関係ない理屈を並べてまくしたてる女房。「自分で行けばいいだろ」「場所知らないでしょ」「沼袋のライフの前のラーマン屋の三階だよ」「沼袋じゃなくて新井のライフでしょ。なら近いでしょ」「店の名前なんか知らないよ。沼袋駅の近くにあるんだよ」「新井でしょ。近くなんだから行きなさい!」「沼袋だよ!」とどうでもいいことにエキサイトしてくる。ちょうど兄との電話の最中だったのだが、うるさくて実家の話はよくきこえず、それを察した兄が電話を切り、食卓に座っていた私は固定電話の子機を持ったまま、息子に言う。「いっちゃん、ここは我慢してママの言うこときいてやったほうがいんじゃないの?」テレビの下に寝転がりスマホをいじっていた息子は、たちあがりざま、「じゃあいっしょに行くか」と女房へすごむ。「じゃあ行くよ」と女房。「もし沼袋だったらぶんなぐるからな!」と息子は食卓の椅子を女房の足元にたたき投げ、ドアを思いきりガシャンと閉めて外にでてゆく。ごそごそと用事をこなしてから女房はその後を追うが、1・2分の間合いのために、次にどんな展開がやってくるか、私には想像がついた。30分もたたないうちに息子がもどり、しばらくして女房がもどってくる。「なんであそこでもどるの! わからないでしょ!」「あとはまっすぐ行けばいいって言っただろ!」「届けに行きなさい!」「行きたくないんだよ!」「そんなの関係ない。行きなさい!」「なんで行くんだよ!」どうも梅の実の入った袋を壁にたたきつけたのか、ぐしゃっ、という音がする。「もうこんなの食えねえよ!」「持っていきなさい!」「なんでだよ? 俺は、あいつが嫌いなんだよ! いつもいじめみたいにしやがって。行きたくねんだよ! なんでそんなやつのところへ行かなくちゃいけねんだ!」そんな奴とは、二枚目な優等生だった。副キャプテンだ。お別れ会では、彼がキャプテンを支えたから、チームがなんとか分解されずにすんだ、というのが顧問の認識だった。私はほとんど全く部活の応援には行かなかったが、最後の紅白試合や納会を見れば、状況は一目瞭然だった。チームメイトに一番の影響力があるのは、息子だろう、がそれは、口先達者な調子者だからで、そこに、熱心な信者みたいな友達数人がついているが、少数派だ。実力もあり、真面目に取り組もうとするキャプテン以下の者たちに、後輩たちもついて、こちらが多数派だ。小学生でのクラブチームも一緒だったキャプテンは、息子には頭があがらず、うまくチームをまとめきれていないのを、成績も学年でトップに近い副キャプテンが、その軋轢を制するために、息子には「いじめ」ととれる正当な反論を展開していたのだろう。親馬鹿の女房には、息子は人気者なのでチームをまとめているとおもっている。が内面的な人間関係の構造はちがう。私にはそれが見えていたけれど、あくまで推察にしかなりえないことなので、口にはできなかった。言っても、事実として生起しているわけではないので、女房はとりあわず自分の思い込みに突き進むだけだ。が、いまはっきりと、息子は「あいつが嫌いだ」と言った。女房は、息子を「八方美人」だと形容していた。「相手も、イツキのことをうさんくさがってるんだから、なんでわざわざこんなことで来るの、にしかならないよ。」母親同士のことはわからない。たしか、彼は母子家庭だったかもしれない。ラーメン屋の三階に暮らしている、というのだから、そうだったかもしれない。子供の、いや男の自尊心を、女の欲望づきあいが、うまく補正できるのだろうか?

ただ私はうんざりしていた。ばかばかしい。女・子供の喧嘩の傍らで、自分が腹を切る空想をしていた。横に切り、縦に切り、内臓をこぼす……ばかばかしいとは、恥ずかしいということだ。言っても通じないばかばかしさとは、説得させることのできない自分の不甲斐なさを恥ずかしいとおもうことでもある。真実は、そんなところにねえよ、しかし、俺はそれを言い聞かせることができない、女房は、女連中は、薄々はそう感づいているが、それを見たくないから、子供や動物の動画を見ては可愛い、「いいね!」することで自分が善人である、悪いことから遠いところにいると自身を慰める、怖いものを、真実などみたくない、錯誤のまま自分が良きひとであることを確認・承認させておいてくれ……ハラワタを露わにした私は、ニタニタしている。女は、真理を欲していない、とニーチェは言った。おまえには、これでもわからないだろう。おまえらには、わからないだろう。恥ずかしい。私が恥ずかしい。そして私は、この恥が、日本の文化を超えて、人類的に根源的な欲望であると知っているけれど、それがゆえに正しい、気概で生きることが正しい方向へと私たちを導いてくれるのか、くれるものなのかは、知らない。そして、苦痛に笑う男たちをアホらしくみる女たちの欲望が、その関係が、真実から遠い生存の原理が、本当に良きものであること、私たちをより良く導いてくれるものだとは、疑わしい。

FaceBookが、暗号資産と呼称されたもの、ネット通貨を発行する計画だそうだ。不特定多数というよりは、特定的多数が市場とされるなかで、神の見えざる手は、働くだろうか?

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