まだ正月休みがつづいているが、やることが結構あって、時間がたりない。
体を使う仕事上、毎朝のちょっとしたリハビリ・トレーニングのようなものもかかせない。今朝も近所の公園ですましてきまたばかりだが、明日の天気が雪でもあるということで、そこに寝泊まりしている男性に、カイロと小銭をわたしてきた。ときおり話をする仲になっている。「カイロはいっぱいあるんだ」「(現金は)や~あ、助かるよ」と笑った。「俺も日給の肉体労働者だからなんともいえないけど」と私も笑い声をあげて、杖をついてあとにしてきた。
雪は、降るのだろうか?
おそらく今年、いまの職場を去って、空き家となっている女房の千葉の実家のほうへ移る。団塊世代の職人さんも、もうやめると言っているが、おそらく、親方から説得されるだろう。親方も必死な心痛だ。自分と、対話の切れたような三代目若社長の息子と残されるようなことになる。仕事はあるのだから経済的には問題ないとしても、それをつづけられる自分の体力と、維持しうるやりくりがどうなるのか、不透明になってくる。団塊世代の職人さんは、「まともに動けないから申し訳なくて」、「迷惑かけているんじゃないかと」、「またシルバー人材でもあれば」、「生活保護でも」と、仕事納めの酒を飲みながら、訴えていた。たぶん、やめられないだろう、親方に説得されるだろう、服従していくような関係は嫌でしょうがないのだが、そういう世界のメンタリティーで生きてきた。祖父は十手をもっていたというからそういう家系なのだろうが、近所のほかの職人さんも、爺さんは博徒だったというし、親方も、「俺たちは部落民みたいなものだからな」と、私がまだ二十代のころに聞かされていた。「俺は、幸せ者だとおもうんですよ。消防団の誰かや、親方とめぐりあって、ここまでこれた」団塊世代の職人さんは、ビールを飲みながら、語った。
しかしもう、三代目ともなれば、そんな価値観は、痕跡はあっても希薄であり、自覚がない。だから、国と金(資本)に対する距離感が持てず、長いものに巻かれていくだけだ。私は、そんなものに巻かれたくない。だから、大学でても、フリーターでやってきたのだ。もう今年で初老を迎える。まだ体の動くうちに、また自由になって、初めから出直そう。
いつも年明けには、初夢のことを描写していたとおもう。見ていちど頭にいれたが、忘れてしまった。去年は、襲ってくる洪水の夢ではなく、そこに自ら立ち向かうように飛び込んだり、そして、だいぶしばらく、水の夢から遠ざかっていたのだが、たしか初夢に、山から鉄砲水のようなものが雪崩てきた。恐ろしいとはおもわなかったが、立ち向かっていくような高揚もなかった。これはどういうことかな、と夢から覚めて、思ったとおもう。
今日はこれから、女房と息子と一緒に、小平にある共同墓地へ、義父母の墓参りにゆく。息子がいくのは、はじめてだ。明日は、息子を、私の実家につれていく。
雪が降れば、明後日になるだろう。
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