2022年7月2日土曜日

右翼的なものの再来


 「だが、「右翼」であることには、様々な形があり、「右翼」は何度でも再来するということ、そして、「右翼」であることは、何よりも日本の庶民の情緒的、あるいは心的な構造の中に内在するものに根拠を持つものであり、現れる様々な変遷を辿ることによって、時代の変遷を、社会的変化を描くことができるということを示したように思われるのである。我々は、戦後というものを戦後的理念=「平和」、あるいは民主主義の理念とその批判的な受容、そして、その内在化といった観点の変遷から考えがちである。だが、そうした観点は、知識人の頭の中にしかないもので表層的なものでしかない。むしろ、生活する人間の情緒的なものに根ざした観念的世界がいかに時代の変化を蒙っていくのか、ということのほうがより根底的であり、中上が「右翼」を描くことによって示したのは、こうしたものである。」(河中郁男著『中上健次論』第3巻 「幻想の村から」)

 

参議院選挙を来週にひかえているそうな。

私自身はあまりいわゆる政治、その「いわゆる」を代表するような選挙には興味が持てないでいる。成人式にもいかない若い頃はそれどころではなかったし、教養的に落ち着いてきた今でもその意義が理解できないでいる。仕事での付き合いにはかかわらないようにしているので(私にとってはそんな日々の駆け引き闘争こそが政治的である)、現場に関わりなく自由に投票はできる。食料や電気、最近はリフォーム中の家を含めて、生活クラブを利用しているので、その経由でか、今の住所では立憲民主の蓮舫と辻元の推薦と、長妻昭から自筆の手紙が届いてくる。自民圧勝は避けたいから、第二政党に頑張ってもらう必要があるのだろうな、との考えも浮かぶのだが、釈然としないのが今回の気分。いつもは、女房の言われるままに近いのだが…。

はじめて、NHKの日曜討論などをみて、代表者の意見を聞いてみたりする。肌感覚的には、N党の立花みたいのが面白いし、考えは違うとはいえ、ホリエモン周辺の天皇制的な同調メンタリティーから切れているグループには頑張ってもらいたいのだが、いきなり防衛問題で敵基地攻撃容認派らしく、だいぶ、自民にすり寄ってきていると感じる。その立花と犬猿の仲のように日曜討論ではみえた、山本太郎を、フェイスブックで応援する知人のメッセージも読んだ。たしか3年前くらいか、彼と飲んでいて、その名を知っているかと聞かれたので、「芸術は爆発だ!」の人かい? と聞き返すと「それは岡本太郎だろ!」と返されたので、「ああ、走れ! 走れ! とか歌う人だろ?」と訂正すると、一瞬考えこみ、「それは山本コウタローだろ! おまえ、何も知らねんだなあ」とあきれられたのだった。しかし、今なら、知っている。そしてやはり、演説中の目の玉の動きと身振り手振りが気になってしょうがない。なんだか、ヒトラーの演説と重なってきてしまうのだ。本心で、何を考えているのかわからない、怖さがある。

と考えていたら、次の日曜討論、草野球やってて見逃してしまったが、N党の幹事だかをまかされている「つばさの党」の党首、黒川あつひこが、安倍晋三はおじいちゃんからCIA~とか歌い始めて、討論会をぶちこわしたとか。私はコロナ関連ニュースから、前身である「オリーブの木」での彼のYoutube活動を見知っていたが、会の存続が危うくなってN党と共闘をしはじめ、「ユダヤマネーをぶっこわす!」とかいう決めゼリフを吐きはじめると、そこまで言うと間違いになるのでは、と思って敬遠しはじめていた。が今回のこの突破は、必要なことだったのではないか、というのが即時的な判断だった。

私のその判断の是非を検討するため、他の人の意見をさぐってみた。哲学系ユーチュウーバーじゅんちゃんが、民主主義の三番底抜け、とうとうここまで日本は落ちたか、と批判している。一方、副島隆彦は、とうとうここまで日本の民主主義が進展してきたか、と褒めている。私は、副島に軍配をあげよう。

こう考えてみればいい。底が抜けないでこれまでのままとはどういうことなのか、と考えてみればいいのだ。宮台真司は、日本の自滅加速主義の立場をとるそうだが、成り行きで自滅したって、そこから這い上がるようになるとは私は思えない。自覚的、意識的にやって失敗して、はじめてそこからまた這い上がれるものになっていくのだと思う。

底が抜けるなら、抜ければいい。じゅんちゃんは、山本太郎についても、大衆政党としてはしょうがないとはいえファシズムへの危険性を指摘していたが、実際にホームレスなような浮動大衆である私(たち)が、なんでファシズムを恐れる必要があろう。受けて立ち、それでつぶれるならつぶれろ、しかしただじゃつぶされんぞ、既成勢力もろともひきずり降ろして奈落の底へと引きずり込め。自覚的にやって、はじめて、這い上がれる。傍観的に加速を待つより、自ら加速度をあげていくことが、必要なのではないだろうか?

 

日曜討論をぶちこわした黒川氏が、参政党について調査している。私は前回ブログで、この従米ではなく反米保守は日米開戦でもはじめるのか、とか書いたが、参政党の人気者が、自らの選挙演説で、そうなりつつある風潮をそう言って批判しているのだった。がしかしこれは、黒川氏によれば、その立候補者神谷氏は、ユダヤ資本をぶちこわせと言っているがその当人たちと付き合いがありおそらく利用されている、と示唆する。私が動画で判断するかぎり、神谷はそう指摘されて気づいたが、今さらひけず、と嘘をついて選挙演説している、そんな顔だ。選挙前は、子供に日本人の誇りをもたせるよう教科書を右翼的に変えよう、とか発言していたのに(右からだろうが左からだろうが、言葉(口先)で人が変わると思うな!)、選挙では、教科書を自由に選べるようにする、とか、ごまかしている。もしかして、この神がかり的な演説者を使って、影の勢力は、野党を分裂させるというよりは、陰謀的世界に気付き始めた愛国的な金持ちの年寄りから集金しそれを陰謀的に再利用して日本の自治的な芽をあらかじめつぶしておく政略を企んだのかもしれない。黒川氏の調査によれば、まだ満州の亡霊が活躍している、ということになる。

 

おそらく、私が今回の選挙で、ありきたりな選挙行動に釈然としなくなったのは、そんな風潮が出てきたからでもあろう。れいわの山本氏も、陰謀論的言説を取り込んで選挙演説をしていると指摘されているが(参政党もそうやって、大衆になびくことで分断しなし崩しにしているということになる。れいわの支持者と参政党の支持者がかぶっている、と指摘されてもいる。)

 

陰謀論的枠組みを信じる者は、ではナショナリストなのだろうか? ナショナリズムの再来なのだろうか? 佐藤優は、そう警告をはじめている。私は、それはおおざっぱすぎて、現実を、現実を動かし始めた差異を取り逃がしているとおもう。

 

たとえば、私の息子は、運動部活動をやめたが(つまり戦後民主主義の側に立ったが)、警察官へと入っていった(つまり戦前的な封建規律の世界に戻った)。あるいは、職場では、家を継いだはずの長男若社長は、父の仕事としての寺社や民間の仕事は引き継がないと公共工事中心の仕事にこだわり(つまり戦後民主主義の方へ。職人出ずら封建方式よりもタイムカードあるサラリーマン労働にあこがれ)、その結果、若い人がみなやめ一人きりになり、それでも民主的な公共工事にこだわり自らが元請けのサラリーマンなように街路樹作業に駆り出されて大変な労働をやらされるはめになる。私には、プーチンではなくバイデン親分を選んで地獄に深入りしていくゼレンスキーに見えてくる。その風貌も、年恰好も、女房の見かけも。少なくとも、私の親方は、自分の職人が元請けの社員のごとく扱われることに徹底抗戦した。独立している、自分の会社であり自分の社員だ、という気概があった。タイムカードで時間管理し年金徴収や源泉徴収もしっかりした民主的な元請け会社の監督の言う事ではなく、俺の指示で働くから俺の会社であり、会社として独立している、ということだろう。トヨタの下請けどころかその工場でもないぞ、と気概ある経営者は、そのバランス駆け引きに気を配ってきたはずだ。が、もう、そうした気概どころか認識もなく、ただいいイメージな方に、いま金払いの高いほうになびく以外の意識しか知らない。それは、ナショナリズムだろうか? しかし、それしか意識が知らなくとも、無意識は、知っているのではないか? 

 

宮台は、原爆落とされてもアメリカの民主主義の優等生たる日本人は、ケツに糞がついていてもそれを舐めているのと同じなんだ、と愚民を批判している。が、舐めてしまう時代変化はあったろうが、その変化ではすまされない変化しないものが噴き出しはじめている。そして噴き出すことで変化しないものがまた変化しはじめている。息子も、若社長も、それではすまないはずである。もちろん、自滅というのも、すまないことのヴァリエーションの一つではある。

 

右翼だとしても、私たちの心情において、何か変異が起きている。今度の選挙は、それが垣間見えてくるものになるかもしれない。私は、たぶん、第一、山本太郎、第二、黒川あつひこ、でいくことになるだろう。

 

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