斎藤幸平氏の『大洪水の前に』(角川ソフィア文庫)を読んだのは数か月前ほどだが、前回ブログで、自身の「洪水」の夢のことが喚起され、また先日、YouTubeでスラヴォイ・ジジェクとノア・ハラリの討論の動画を目にすることになったので、斎藤氏のこの著作に関し、感想をまとめてみようと思っていたことを思い出した。(その角川文庫版では、ジジェクが後書きを寄せていたのである。)
斎藤氏の『人新生の「資本論」』(集英社新書)は、すでに私の身につけている既存教養の中に収まるような感じだったので、あまり新鮮味を感じなかったが、本屋でより先に書いていた著作が文庫版になっているのを知って読み、こちらは新鮮な感じがしたのだった。とくには、後書きとして寄せてあったジジェクの、「量子論」を孕んだ「自然」に関する考察が、私の問題意識の一つと重なって、また読み返してみたいと思っていたのである。でYouTubeでのハラリとの討論を聞くこととなった。そこでも、ジジェクは、ハラリや司会者が前提とする「自然」を攻撃していたようにみえたが、英語での番組だったので、正確にはわからなかった。そこで、さっき再読。
『大洪水の前に』が「新鮮」と私に感じられたのは、まずマルクスの言葉として、「和気あいあい」という箇所を引用してきたことである。マルクスの認識によれば、資本主義下労働以前の封建制下の主従労働現場の中にそういう「関係」があって、それを「高次な段階として――意識的に――再構築すること」が目指されているのだ、と。この「和気あいあい」は、人間関係というより、「土地」(自然)との「関係」において抽出されてきたものだが、とにかく、そこから、これまでの思想営みの中で考えが甘いとして排斥されてきた「疎外論」の視点が再導入され、そこに、環境問題(エコロジー)的な文脈が接合される。この最初の「和気あいあい」という必要な目的前提があるために、エンゲルスの客観知的な生態史観よりも、マルクスの提示したビジョンの方がいいだろう、という斎藤氏の立場が明確になる。
<マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展に基づく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動に従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。>(「第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー」)
たしかに、プロレタリア独裁なるものが実現されたとしても、そこに「和気あいあい」な関係がなかったら、生活実感として資本下労働とあまり変わり映えしないものとなろう。
が、ここで私が注記したいのは、まさにマルクスの「芸術」に対する見方である。マルクスは、ギリシア芸術がなぜなお私たちに感銘をあたえるのかを問うて、それは失われて回復しえない私たちの子供時代の感激が生き生きと再現されてくるからではないか、その生き生きしたものを私たちはもう一度意欲してはならないのだろうか、と問うた。
柄谷行人氏はここに、キリケゴール的な意味での「反復」を読んだ。そしてそれは一回性であるから、それは構造的に前提はできない、そうすることは「反復」ではなく「想起」にあたると。しかし、岡崎乾二郎氏が、絵画の分析で言うように、二度似たような現象がキャンパスに見られるということは、偶然ではなく作者のなんらかの意図があってそうしているのだとみるべきだと。つまり、そう構造(無意識)を理論仮説していいのだ、と。フロイトの精神分析の文脈でいえば、無意識とが、医者と患者との対話(交換)においてしか無い、と言っても、そこに似たようなことが繰り替えされてあるなら、そこに無意識(構造)があると前提的に理論仮説していいのだと。
問題なのは、その理論返説(虚構)が、人間の観測(分析)においてだけでなく、他の生命たちもがそうしているのではないか、と、最近の科学的知見が示唆してきている、ということなのだ。
ここで、ジジェクの、斎藤幸平氏の作品への後書き敷衍解説が、結びつく。
ならば、遺伝子とは、反復現象から構造(無意識)を理論仮設させてゆく虚構なのだと。それはあくまで、量子力学的に、観測するから現れてくる物質にすぎない、がそう反復されてくるがゆえに理論仮説された生命現象、あるいは営み自体なのである。遺伝子とは、実在的な根拠でも、依拠すべき自然なのではなくて、それ自体が生命の働きであり、その見かけの一つ、働きの一面である。が現今の遺伝子工学は、その今の科学資本下の人間にとっての必要な一面を根拠として、実在的なものとして扱っている。ジジェクは、この科学資本下での「自然」があくまで人工的なものであって、しかもその人為的な営みの進展が、その向こうに広大にあったとされる伝統的な知見、「母なる自然」もが破壊されていてもはやそこにもどることはできないのだ、と説く。だから、あくまで「科学」な態度の突き詰めにおいて実践を構想しなくてはならない、と。
〈遺伝子工学の科学的ブレイクスルーによってもたらされる主要な帰結が自然の終焉となるような段階である。ひとたび私たちが自然の構築の法則に通じてしまえば、自然の有機体は操作することが可能な客体へと変容させられる。自然は、人間的なものであれ非人間的なものであれ、そのように脱実体化され、ハイデガーが「大地」と呼ぶところの透過可能な密度を収奪されてしまうのだ。〉〈よって、私たちにはふたつの支柱から切りはなされた科学が必要だー資本の自律的循環と同じく伝統的な知からも切りはなされ、ついには自立できるようになった科学のことである。これは、私たちと自然の統一という真正な感情に戻ることはできないことを意味するーエコロジカルな課題と向き合うために残された唯一の道は、自然のラディカルな脱自然化を完全に受け入れることなのである。〉(ジジェク「解説」)
しかし、その科学は、量子力学の誕生当時から、以上の地点を「観測問題」として問題化していたはずである。それは、遺伝子という反復構造(「自然の構造の法則」)自体が、人間にとっての観測虚構にすぎないのではないか、と突きつけてくる(性差が、遺伝子だけで決定されるわけでもないことも指摘され、遺伝子にフィードバックされたわけでもない短期的な獲得形質もが遺伝されているとの報告もでてきた。ナチス下の飢餓追跡調査)。そう突きつけてくる量子的現実は、「母」なり「大地」とは呼べないかもしれないが、その人間の観測しうる向う側なのか、お隣側なのか、に、摩訶不思議な自然が、宇宙が広がっている、重なっていることを暗示させてくる。
その摩訶不思議な世界との関係が、ジジェク的な意味においてであれ「科学」の態度延長において追求進展されえるものなのか、それ自体も問うていかなくてはならない。私たちを「和気あいあい」とさせ、「生き生き」させてくれるのは、その世界に触れてこそ、なのかもしれないからだ。
ジジェクは、新型ワクチンの接種を推奨してはいなかったろうか? 私からすれば、その楽観視は、上のジジェクの自然理解ーー「観測問題」を問題化しているわけではなく、あくまで現科学の趨勢を容認できているーーに現われている。
いま、接種による後遺症の問題が、ジャーナリズム界で騒がれるようになってきているようである。本当の因果関係は不明だが、私の身の回りでも、先月、お隣の40代の息子と、高校時の野球部同級生(50代)が、突然の心臓停止で亡くなっている(解剖まではしないらしい)。NHKのクローズアップ現代「迫りくる“心不全パンデミック”の危機」という特集では、その増加率グラフは、ワクチン接種以前からの自然推移的な傾向の延長として提示されていたが、アメリカでの提示データではそうも言えない結果が示されているようである。
私は、量子力学における「観測問題」の視点から、現今の細胞内レベルのRNA操作ワクチンが、人間の知見では把握できない世界に触れているのでないかと警告してきた。観測しない前、つまり生命現象以前のことが知り得なければ精確なデータがとりえない領域に手を突っ込むのだから、技術的に矛盾を抱え込む。しかし、私たちを「和気あいあい」と生き生きさせてくれる「芸術」を、私たちが産み出せているのだとしたら、その観測以前の世界と交換しえる技術を、すでに私たちは手に入れている、ということではないのだろうか?
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