2023年9月9日土曜日

『#ミトヤマネ』(映画)を観る

 


千葉の市原市のTOHOシネマズで、観てきた。

宮崎大祐監督の映画は、『大和(カリフォルニア)』から見てきている。みるたびに感想を、というより考えさせられたことをこのブログでつづってきたが、前作の『PLASTIC』をひと月前だかにみて、とまどってしまい、感想を書き込むことができなかった。今回の『#ミトヤマネ』にも、おそらく同じとまどいをもったが、前回よりもおとなしく、なぜとまどうのかがわかってきた。監督自身の友人たちも「変な感じ」を観賞後に口にしたそうだが、たぶんその感じとかぶるものなのだろうと、予想する。

 

とりあえず、ストーリー的な読解からはじめよう。

が、観賞直後、私は、この映画のストーリー構成が把握できたわけではなかった。スマホで他の人の考察を読み、監督自身のインタビューに触れて、はじめてこんな構想だったのかな、と了解してみたのである。

 

最後、ミトヤマネという若い女性、インフルエンサーとして世界的に名の知られた女性が、都会のしゃれたマンションの自室で、パソコンで検索閲覧していた街角のライブ画像が途切れ、砂嵐のようになったその確認に、不敵な笑いをみせて、終わる。瞳が不気味に光る。最終テロップの終幕の直前では、救急車のサイレンの音響効果が流れるのだが、CineMagサイトの「考察」によると、おそらく、ライブで確認していた場所とは、彼女が紙袋をいれたコインロッカーのあるところで、その紙袋が爆発し、つまりテロを敢行したのだろうと。なるほど、そうだな、と私はそれを読んで了解した。映画全般の印象としては、『ジョーカー』、そして爆発物をしかけた後に彼女がよぎってゆく渋谷のスクランブル交差点での描写に、『バイオハザード』の何シリーズ目かの日本を舞台にしたものを連想していた。たしかそれも、交差点の真ん中で、女子高生らしき人の瞳が光ったような。

 

前作『PLASTIC』も、交差点にあたるといっていい場所で、男女が出会えるかどうか、というところで終わる。この構図は、『Tourism』でも『VIDEOPHOVIA』 でもみられたろう。とくに、『Tourism』の場面では、幼い男の子の声が天井から降りてくるような語りとして導入された。私はそれを妖精なのでは、と感想もした。『PLASTIC』でも、おなじ男の子の声が流れた。そして、私の推論なのだが、この男の子が、『#ミトヤマネ』では、登場してきたように思うのだ。

 

それは、ミトヤマネのプロデューサーが、弁護士と相談している場所でのことである。中国企業からの申し出を受理して、フェイク動画の仕事に参加してみたのだが、それで世界的な炎上騒ぎになって、収拾がつかなくなったのである。彼女は本当は在日だみたいな、ネトウヨからの攻撃が示唆されてもいる。そうしたものへの法的処置の相談が、いったいどこで、もたれたのか? シビアな仕事の話なはずなのに、よその子供がうろちょろしている。図書館か? その子供たちが絵本を読むところか? とにかく、そんな奇妙な場所の、閲覧席でなのか、あるひとりの男の子が、絵本を立てて読んでいる。目が鋭い。耳が、やけに大きい。人間としては、おかしい。『PLASTIC』の冒頭は、『スターウォーズ』のあの宇宙の闇に語りの字幕がとおざかってゆくものの、パロディ的な引用だった。そして、宇宙の話題があった。

 

そういうところから推論されてくるに、その耳の大きな男の子が、天井の声を持つ妖精であり、宇宙人、ということなのでは、と。哲学者カントと同時代の霊能者スウェデンボルグによれば、宇宙人とは霊のことだった。つまり、地球とは違う次元の世界が、ここに重なるように降りてきている、ということではないか? 映画『マトリックス』も、連想されてはくるからである。パラレルワールドの話題も、冒頭部分の会話で、暗示されていたであろう。また、作品との重なりは、『Plastic』の中で、文学作品でのフォークナーにおけるサーガという枠の示唆があったであろう。

 

そしておそらく、ミトヤマネは、マネジャーをしているはずだった妹と、入れ替わったのだろう。いや、妹がミトヤマネになった世界と、姉がミトヤマネのままの世界とが、パラレルワールドになって、分裂している、ということではないかと思われる。ペットの子豚が家から逃げてしまって、交番に届け出た帰り道、おっかけに遭遇し、歩道橋へと逃げ込むのだが、妹が右の階段をおり、姉は左の階段を降りると、おっかけは妹の方をおっかけていった。その手前のシーンで、マンション室内で鏡を前に化粧をしているのが妹で、その妹がまるで召使のように姉に指示して、子豚の行方を捜すように命令していた。それは鏡に映った描写の中でおこなわれたが、その実際の人と、鏡の中の人との位置関係が、うまく頭で処理できない奇妙さがあった。映画『シックスセンス』での霊をリアルに示すための映画上の工夫を想起させる。

 

たぶん、姉がミトヤマネのままの世界では、妹は怒り心頭した左翼過激派のような人物たちの石つぶてによって虐殺され、姉は世間に復讐し、妹がミトヤマネの世界では、彼女はプロデューサーと一緒になってその困難を乗り越えた、ということになっているように思われる。

 

社会テロと霊と宇宙論が重なる構成。

その重なりが、映画的な画像と、スマホの画像と、パソコンのディスプレイと、街角のビデオ映像と、といった多様な様式によってつぎはぎされている。このつぎはぎが、つまりカットとカットのつなぎが、未成熟というか、「変な感じ」を抱かせる。サークル延長的な、素人的な未熟さとも受け取れる。感情転移はできない。むしろ、唖然とさせられてしまう場合が多い。『PLASTIC』ではとくにそうだったのだが、それは、私がいわゆる映画における古典的な感性、個人経験的な趣味に左右されているからかもしれないと、判断を保留していたものだ。そして今回この作品をみて、やはり、保留すべきなのだ、と判断されてきた。

 

CineMagの評者は厳しい。アート系のB級映画としても抽象的なメッセージが弱い、と。よく了解できる意見だが、映画の歴史において、たとえ実験的な映画だとしても、その様式は統一されていたのではないか。ゴダールでも。正面を向いた人物がカメラ(観客)に向かってなように話しかける、その様をはじめてタルコフスキーや小津の映画で直面したときの驚きと新鮮な感動。そこで培ってきた感性からすれば、どこかタイミングや秒数がずれていて、しかもカメラに向けて話していたと思しき人物はカメラをかわすように迫ってきたりする。感性とは、どこか、ずれていて、居心地がわるい。ちぐはぐな感じを受ける。がそれは、映画をみようという、前提があるからではないか?

 

宮崎監督は、インタビューで、こんな疑問を提示している。

 

<サイズ以外にスマホのモニターとスクリーンの違いって最早なんなんでしょう。>(「神戸映画資料館」)

 

そのジャンルが衰えて終わったとおもわれた時や時代に、そのジャンルの固有性に立ち帰るのが、本当のモダニズムとされた。ボードレールやフローベールといった作家も、文学が終わったとされたポストモダニズムな社会にあってこそ、そのジャンルの固有性、小説の小説性とかを反復したモダニズムな作家なんだ、営みなんだ、というのが、かつてあった教養である。浅田彰が口をすっぱくするようにして言い、映画では、蓮見重彦が説いてきたことであったろう。要は、映画らしい映画。

 

宮崎監督は、ドゥルーズをあげたりして映画について語るが、上の問いかけは、映画の映画性にこだわるどころか、映画(芸術)というヒエラルキーを転倒させていくものである。A級高尚芸術と、スマホのライン等アプリの画像と、どこが違うのか、と言いのけるのだから。

 

私はドゥルーズの映画論は読んではいないが、ベルクソンの記憶哲学によるのだったろう。が、宮崎監督は、スマホをスクロールしながら各人のクリックで画面が編集されてゆくようなイメージで映画を作ったという。スマホ閲覧は、各人の趣味をAIで自動的に編纂してゆくアルゴリズムも挿入されてくるのだから、ベルクソンの純粋記憶よりかは手前にあるだろう別次元の、より社会的メディアと身体との関係を再考させるものだろう。その洪水のなかで、私たちは生き、将棋界の藤井聡太も、まだAIの指す手の論理過程が未知のままであるのに、その確率世界(パラレルワールド)を凌駕してゆく手を打っていくと指摘されている。

 

おそらくこの映画監督の根底には、大衆による反逆の精神が息づいている。それがうまく、様式的な昇華として成功していないかもしれない。(ゴダールの編集技術は、やはりあくまで映画としての統一性を維持しているだろう。)あるいは逆に、私たちがすでにそんなちゃらんぽらに感性が寸断された世界を生きているにもかかわらず、それに対応した感性に更新されていないということなのかもしれない。そんな最中にあって、かつて説かれたモダニズムな対応、いわば映画らしい映画を作ることに思想的な意義が本当にあるのか、有効な実践に本当になるのか、ということは、問われなければならない。なぜなら、私たちは、こりずにもまた、三つ目の世界大戦に直面しているのだから。かつて映画がファシズムに加担し、いまはSNSが加担している、と伺える世界の中で、とても、そんな高尚とされるインテリ対応だけが是であるとは、受け入れがたいではないか。

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